前日譚その4
「お嬢様は紅茶に目が無いの。毎日、違った紅茶を楽しんでいるわ。新人さんは、お茶を淹れるのは得意?」
「はい! 前働いていた家では、お茶の給仕も任されていました」
「ならやり方はわかるわね?」
そう言って茶葉の入った銀のケースを差し出される。
「この茶葉を使ってお茶を淹れておいて。私は夕食の確認をしてくるから」
ジェゼールがシェフたちの方へ向かっていった。それを見送ってから食器棚に近寄り、空のティーポットとカップを取り出す。その後ろ側に見慣れた形状の銀のケトルを見つけた。ケトルに飲用の水を注ぐと、 火にかけずとも水がぐつぐつと煮立っていく。魔法を利用した湯沸かし器で、クレイヤー家にも中古品だがあった。しかし時間がかかる上壊れやすく、使い勝手が悪かった。それに比べてこの湯沸かし器は沸くのが早く外を触っても熱くない。使用人たちが使う道具ひとつとっても一流のものが使われていることに、オフィーリアは感動を覚えた。煮立った湯をポットに注ぎ、少し待つ。その間に湯沸かし器でもう一度湯を沸かす。ポットが温まったら中の湯は一度別のポットに移して、丁度沸騰した湯を注ぐ。すぐに茶葉をティースプーンで二杯いれる。ポットに蓋をして、湯沸かし器はもとの置き場に戻す。温度を下げないよう注意しながら数分も待てば、紅茶の出来上がりだ。丁度ジェゼールが戻ってきたので、給仕用のワゴンにポットとカップを乗せる。
「お嬢様の部屋はそこの突き当り。お茶をお出ししたらすぐ戻ってきてね、見惚れちゃだめよ」
「わかりました」
ワゴンを素早く、しかし慎重に押していき、ジェゼールの言った突き当りの部屋をノックした。中から「入れ」という渋い声が聞こえる。ゴンザレスのものだろう。
「失礼いたします」
ワゴンを置いて扉を開き、礼をする。
「お紅茶をお持ちいたしました」
中ではヴァイオレットがカウチに横になり読書をしていた。ゴンザレスは側の文机で仕事をしている。ヴァイオレットはこちらには目もくれず、手にした指南書らしきものを読み耽っていた。
「ありがとう。今日は何?」
「ダージリンでございます」
そう口にした途端、ヴァイオレットの纏う空気がオフィーリアを刺した。何かしてしまかったとオフィーリアが狼狽えていると、ヴァイオレットは本から目を離さないまま淡々と続けた。
「昨日もダージリンではなかった?」
「も、申し訳ありません。すぐに淹れ直してまいります」
そう言ってワゴンを引き退出しようとすると、ヴァイオレットはそこで始めて本から顔を上げた。オフィーリアと目が合う。
「そこまでしなくても……あら、見ない顔ですわね?」
「え、っと。本日より侍女として働いております、オフィーリア・スフィーと申します」
名前を覚えてもらえるよう、名乗りながら再び礼をする。ヴァイオレットは無反応だったが、小さくため息をついた。
「そう。仕方ないから、紅茶はいただくわ。」
ヴァイオレットにそう言われ、オフィーリアは慎重にカップに紅茶を注ぐ。それをサイドテーブルに置き、もう一度頭を下げてから部屋から退出するため踵を返した。
「失礼いたします」
「ええ」
ヴァイオレットはまた本に目を落とした。扉の締まり際、ティーカップを持ち上げたのを見て、オフィーリアは胸を撫で下ろした。ワゴンを引いて小走りで厨房まで戻る。厨房に入ると、ジェゼールがすぐに走ってきた。
「新人さん、ごめん! 昨日ダージリン出したの忘れてたや、怒られてない?」
「大丈夫でしたよ」
「そっか……ごめんね」
いいえ、ともう一度首を振り、ワゴンを入り口の側に止める。ヴァイオレットは紅茶を飲んでくれただろうか、そんな思いに耽りながらオフィーリアは次の仕事に取り掛かった。
「じゃ、今日はこれで終わり。お疲れ様」
「ありがとうございました」
一日の仕事を終えて、ジェゼールと今日の仕事内容をおさらいする。
「まずお嬢様の朝食の準備。お嬢様が食べ終わり次第私達も朝食を採って、昼食の準備をするの。それが終わったらお嬢様の紅茶を淹れて、夕食の準備ね。お嬢様が夕食を食べ終わったら、食堂のテーブルクロスやクッションカバーを洗濯係に出して、夕食。大体の仕事はこんなものね。疲れた?」
ジェゼールがそう聞いてきたので、オフィーリアは緩慢に頷いた。それを聞いたジェゼールは苦笑しながらオフィーリアの開いたままの口にクッキーを放り込む。
「はい、がんばったご褒美」
放り込まれたクッキーを噛み砕き、飲み下す。それからジェゼールに挨拶して従者用の食堂を出て、別館へ戻る。北館の外は冷たい風が吹き荒び、雪がちらついていた。
「はあーっ……疲れた」
半ば無意識にそんな言葉が漏れ出てくる。別館二階の自室まで戻り、僅かに残った気力で体を動かして寝間着に着替えた。疲労困憊だ。寝台に横になると、眠気がくるかと思いきや、なぜか目が冴えて眠くない。代わりに瞼にはヴァイオレットの姿が張り付いて離れない。
「悪役令嬢、か……」
今日の接触だけで言い切るのは危険だが、ヴァイオレットに「悪役令嬢」という雰囲気はあまりない。もしやゲームに何か裏設定があったのだろうか、と、オフィーリアは密かに不安になる。ヴァイオレットの一挙一動を思い浮かべながらぼんやりしていると、扉が開いてラトゥナが飛び込んできた。
「ラトゥナ?」
「オフィーリアっ……!」
ラトゥナは絞り出すような声でオフィーリアを呼んだ。その潤んだ声にオフィーリアが慌てて体を起こすと、啜り泣くラトゥナが目にはいった。
「どうしたの?」
寝台から降りてラトゥナに駆け寄る。ラトゥナは泣くばかりでオフィーリアの質問に答えない。落ち着かせようと寝台に座らせ、背中を擦る。しかしその手を跳ね除けられてしまった。
「ごめっ……さわら、ないで」
「え?」
「いたいの」
か細いラトゥナの声とその言葉に嫌な予感がして、「服脱がすよ」と声をかけてお仕着せのボタンを外す。背中に触れないよう慎重に生地をずらすと、ラトゥナの素肌が現れた。滑らかな白い肌だ。しかし誰が見ても褒めるような、陶器のようなそれの、真っ赤に腫れた縄のような跡が存在を主張している。オフィーリアは息を呑んだ。
「ラトゥナ、これって」
「今日ね、お嬢様のお召し物を落として、汚してしまって……明日のお茶会で、着る予定だったんですって……それで、あの側近の男に、鞭、で」
側近の男。オフィーリアの脳裏に渋い顔をしたゴンザレスが思い浮かぶ。ラトゥナに寝間着を渡し、「軟膏を取ってくる」と言って部屋を出た。ダーラに教えてもらった救急箱の置き場へ足を運びながら、オフィーリアは頭を回す。
(ラトゥナは失敗して、鞭で打たれた。けど私は失敗したのに、そんな罰は受けていない)
談話室の棚を開いて救急箱を手に取る。足早にラトゥナの元へと戻った。
「おまたせ、ラトゥナ。背中、出して」
「いい、自分で塗れるから」
オフィーリアの手から救急箱をひったくり、手を伸ばして軟膏を背中に塗り込んでいく。ラトゥナの涙は落ち着いたが、目が赤く腫れていた。
「側近の男って、ゴンザレス様のことだよね。ねえ、何か言われた?」
「え……『お嬢様の地位が崩れたらどうする』とか『お前の失敗はお嬢様に影響するのだぞ』とかってね」
「ほかには?」
「『どうしてこんなことをするのですか』と聞いたら、『お嬢様は優しいから』とだけ返されたわ」
「優しいから……?」
その言葉に引っかかりを覚える。裏の有りそうな、いやある雰囲気しかしない台詞だ。
「お嬢様は知ってるのかな」
「わからない。でも私のような侍女の言葉など、お嬢様は聞いてくれないわよ」
ラトゥナは俯いていた。軟膏を救急箱の中に戻し、まだ浮かんでいた僅かな涙を拭って立ち上がる。
「もう、寝よ。救急箱、ありがとう。おやすみ」
「……うん、おやすみ」
ラトゥナが救急箱を戻しに部屋を出ていった。オフィーリアは窓の外に見える北館に目を向けた。
「……鞭で打たれる、理由……」
小さな呟きは闇に溶けて消える。オフィーリアは思考に溺れたまま、寝台に身を投げ瞼を閉じた。
紅茶の入れ方は日本紅茶協会さんのサイトを参考にさせていただきました。