姉の優しさ
物語内の現在の日付は、八月二日です。
「朝陽、大丈夫?」
病院に僕のことを迎えに来た姉が、心配そうに僕に声をかける。僕は一応の検査が終わり、体に異常がないことを確認され、病院の待合室のソファに腰かけていた。僕は今、なんだか体はここにいるが、気持ちだけがここにいないような変な感覚に陥っていた。目の前で人が死ぬという出来事は、余りにも衝撃が強すぎた。
その死体とあった目が、その人を自殺に追い込んだ恨みや憎しみを最後に僕へぶつけているような気がして、逃れられない怨念のようなものを感じた。
数秒前まで生きていると思えない無残な姿の飛び降り死体からアスファルトの小さな隙間に、血がゆっくりと満たされていき、血だまりが僕の方へ近づいてくる光景が、今も頭にこびりついて離れない。底知れぬ恐怖がだんだん近づいてくるようで、恐ろしかった。
自分はその光景を思い出して、口を手で押さえる。もう胃の中には、何も残ってはいないが、とても嫌な気持ち悪さがいつだって、吐き気を誘ってくる。
「……朝陽。」
姉はそれ以上何も言わなかった。ただ、僕の座っている病院のソファの横に座った。それから僕たち二人は、何も喋ることもなくそのソファに腰かけてていた。
僕たちの前を何人もの人が通り過ぎて行った。どれだけ時間が経っただろうか。二、三時間は過ぎているだろう。それでも、姉は何かをするわけでもなく、ただ僕の隣に座っていた。
姉が時折見せる気遣いに触れて、いつも僕は、普段価値観が合わない姉でも、心で通じ合っているのだなと感じる。姉は何をするわけでもないが、心配して寄り添ってくれているということは伝わってくる。僕が今直面している状況は、人から何をどれだけ言われようと簡単に消化できるものではないと姉は理解している。
だから、僕がその問題を消化しきるまで、姉は何も言わず、じっくりと寄り添っているのだ。僕は、そんな姉の優しさに応えるように、少しずつ起きた出来事を消化していった。
「……やっと、落ち着いてきた。」
「そう……じゃあ、帰りましょう。」
姉はソファから立ち上がると、僕の方に笑いかけてきた。僕はその姉の笑顔に笑い返す余裕はなかったが、なんだか気持ちが和らいだ。
結局、その日は学校に行くことはなく、病院からそのまま家に帰った。病院は学校と反対の場所にあったので、朝の通学路を再び通ることはなかった。僕たちは、家に着き、家の中に入った。
家の時計を見ると、夕方の五時になっていた。あの出来事からそんなにも時間が経っていたのかと思った。その出来事に苦しみ、消化するまでの時間はとても長く感じたが、その出来事の記憶は、ついさっきのことのように思われる。
「もう風呂入って、早めに寝るわ。」
「そう、じゃあ、お風呂の準備しておくわね。」
姉はそう言って、風呂のある方へ向かっていった。
僕は風呂に入った後、何も食べずに、自分の部屋に入った。お腹はすいているが、気持ち悪い感じがまだ抜けず、何かを胃に入れることは怖かった。
僕は部屋を見渡すと、今朝の自分を思い出した。これから何が起こるか分からずに、呑気に姉としょうもないことを言い合っていた。
あの朝が姉としょうもないことで笑い合えた最後の朝になるかもしれない。
僕はこれからあんなことで、笑い合えるだろうか?今、僕と姉は、しばらく気まずい雰囲気のままで、過ごしていくだろう。いつ、その雰囲気が取り払われ、元に戻るのかも分からない。
いや、そのまま元に戻らないままかもしれない。
姉は大学を卒業すればどこへ行くか分からないし、僕も高校を卒業すれば、どこかへ行ってしまうかもしれない。そうなるまで、互いに距離ができた状態のままであれば、今朝のようなことは一生起こりえないだろう。
何かが起こった後、変わった関係は、掛け違えたボタンのように一生ずれ続けるのだろうか?時間が解決してくれるのだろうか?
もし、時間が戻るのならば、僕の前で飛び降りた人間を救って、僕と姉の間で何も起こらないままで、どうでもいいことで笑い合える明くる日を迎えたい。
僕はそんなたらればの妄想をしながら、変わってしまった姉との関係を悲しんだ。
僕はそんな嫌な妄想を繰り返してしまう前に、もう寝てしまうことにした。僕は目覚まし時計のアラームを解除し、ゆっくり寝ることができるようにした。
アラームの解除をした後、僕はベットの上に寝転んだ。
ベットに横になると、眠気がどっと出てきて、自身の疲れに気づいた。確かに、今日は疲れた。明日までゆっくり寝ることにしよう……。
ピピピピピピピピピピピピ
僕を深い眠りから引きずり出したのは、聞き慣れた機械音だった。ピピピピピという不快な音が耳から脳に突き刺すように入って来る。
目覚まし時計を鳴り止ませようと手を机の上に伸ばした。目覚ましを止める手は、何回かはずれを引いたが、目覚まし時計の音の代わりに、蝉の声大きくが聞こえ始めて、当たりを引いたことを理解した。
なぜ昨日も早く起きたのに、今日も早く起きなければならないんだと思いながら、二度寝をしようと考えていた。今日は夏休みの真っただ中だと言うのに、なぜ、目覚ましに起こされなければならないんだ。そう、目覚ましに、目覚まし、目覚まし……。
なぜ、目覚まし時計が鳴っているんだ?
昨日、確実に目覚まし時計のアラームを解除したはずだ。重力に従う手足を少しずつ動かし、カーテンの端からやんわりと出ている太陽の光で目を慣らして、目を少しずつ開いていく。目覚まし時計に目を向けると、時刻は7時1分になろうとしていた。
ベットからゆっくりと立ち上がり、カーテンを開いた。すると、せっかく開けた目をもう一度閉じてしまう程のまばゆい朝日が部屋の中に入ってきた。やはり、八月の太陽はいつもより眩しい気がする。
僕は大きなあくびをして、パジャマのままで一階に向かった。なんだか、姉に合うのが恥ずかしいような、気まずいような気がしてしまう。
「コーンフレークできているわよ。」
そう言うと、姉は昨日と同じ僕のエプロンを着て、既に牛乳が掛けられたコーンフレークを指さした。姉は昨日のことなんて忘れてしまったように、いつも通りの朝の行動をしていた。
もしかしたら、姉は姉なりに考えて、いつも通り振る舞っているのかもしれない。僕は昨日の出来事の衝撃を完全に消化できてはいなかったが、無理をしてでも姉なりの気遣いに乗ってみることにした。
「五秒で作れるものにエプロンを使うなって言ってほしそうだな。」
僕は少し笑顔を作りながら、そう言った。
「違うのだなあ、弟くん。お姉ちゃんが弟のために早起きして、朝食を作るのですぞ。このシチュエーションにぴったりな服装はエプロンしかないでしょうが。
それにこのエプロンは猫の刺繍のついた手作りエプロン。つまり、手作りという点で家庭的でしっかり者の雰囲気を出しながら、猫を刺繍で入れることで幼くて可愛い雰囲気も出していく。我ながら完璧な女の子ね。」
「それ、昨日聞いたって。」
いくらいつも通りの振る舞いをするからと言って、そのノリは、病み上がりの僕には、ちょっときつすぎる。
「昨日?昨日、そんなこと言ったけ?」
「昨日も一晩寝かせたコーンフレーク作って、同じこと言ってたじゃんか。」
「昨日?確かにこのコーンフレークは一晩寝かせたものだけど、これは今日初めて作ったし、昨日の朝食は、私一人で、食パン焼いて食べたと思うわよ。今日は朝陽が登校日だから、お姉ちゃんとして、コーンフレークを作ってあげようと思ったんだけど……。」
「昨日が登校日だよ。寝ぼけてるんじゃないか?登校日が二日も連続してたまるか。」
「昨日が登校日?昨日は朝陽は、昼までゆっくり寝ていたじゃない。寝ぼけているのは、そっちじゃないの?今日は、八月二日で、朝陽の学校の登校日じゃない。」
姉はスマホの起動画面を見せてくると、そこには、昨日の日付である八月二日が書かれていた。




