一生独身でいたい彼氏と、30歳までに結婚したい彼女
結婚なんて、するものじゃない。
俺・久我誠がそんな真理に至ったのは、中学生の頃だった。
中二の夏、両親が離婚した。離婚の原因は、親父の浮気だった。
謂わゆる中間管理職の親父は、上司からの叱責と部下からの不満で板挟みになっており、だいぶストレスが溜まっていたみたいだ。
家族に相談しようにも、母さんは仕事で忙しく、俺は勉強と部活に励んでいる。二人とも、親父の悩みに耳を傾ける余裕がない。
そんな親父が救いを求めたのは――同じ職場の部下だった。
年齢は26歳。若い彼女には、お袋にはない「癒し」がある。
それ故に最初はほんの出来心だった親父も、いつしか本気になってしまったのだろう。
浮気をし始めたあたりから、親父は泊まりの仕事が多くなった。今となっては、本当に仕事だったのかもわからない。
休日は基本外出していて、長期休み恒例の家族旅行もいつしか行かなくなった。
そしてそんな親父の行動に、お袋のストレスも溜まっていく。
顔を突き合わせれば、即喧嘩。「目の前で口論を繰り広げられる息子の気持ちもわかって欲しい」と、一体何度思ったことか。
12月25日、クリスマスイブの朝。俺はこの日のことを、今でも覚えている。
「徹夜で仕事していた」。明らかな嘘を吐きながら朝帰りした親父に、お袋はひと切れだけ残ったクリスマスケーキと、すっかり冷め切ったローストチキンとーー離婚届を手渡した。
親父とお袋とて、昔から険悪だったわけじゃない。結婚したての時は、それはもう仲睦まじかったらしい。
近所からは「おしどり夫婦」と呼ばれ、羨ましがられたとか。
俺が生まれた時の写真を見せて貰ったことがあるけれど、そこに写っていた二人は心底幸せそうだった。
物心ついた時期には、「弟か妹欲しくない?」と聞かれたこともある。
それだけラブラブだった二人でさえ、十数年経てば離婚という結末を迎えるのだ。
子供ながら、俺は悟ったさ。「結婚なんて、ろくなものじゃない」と。
結婚したからと言って、必ずしも幸せになれるわけじゃない。互いに近すぎるからこそ、少しのすれ違いや不満が顕著になってしまうのであって。
そこで俺は、ある一つの結論に辿り着いた。
要するに、近すぎるから不満が生じるのだ。互いに適度な距離感を保っていれば、そんな心配はなくなる。
だから俺は、結婚はしない。
でも誰も好きにならないというのは寂しいような気もするので、代わりに一生恋愛をし続ける。そう思っていたんだけど……
「ねえ。私、30までには結婚したいのよね」
デート中、恋人の小久保美咲の口から飛び出したその一言は、生涯独身を誓った俺を大いに悩ませるのだった。
◇
結婚こそが、人生最高の幸せである。
私・小久保美咲がそんな真理に至ったのは、中学生の頃だった。
私の母は、シングルマザーだった。
父とは私が生まれてすぐに死別したらしく、母は女手一つで私を育ててくれていた。
日中はせっせと働いて、帰宅するなり家事に勤しむ。そんな母を私は尊敬していたし、大好きでもあった。
だけどふとした瞬間、私は母に対して罪悪感を抱いてしまうわけで。
だって、そうだろう? 私がいなかったら、母はもっと自由に生きられる筈なのに。
残業なしの9時5時だからとか、給料が良いからみたいな理由じゃなく、本当にやりたい仕事をすることだって出来る。
休みの日は一日中ゴロゴロすることだって出来る。
恋愛だって、もう一、二回出来たかもしれない。
こんなこと考えるのは、母に失礼だ。わかっていながらも、私は「自分が邪魔な存在なのではないか?」と自問せずにはいられなかった。
私と母の生活が大きく変わったのは、中三の秋だった。
夕食の最中、母は何やら神妙な面持ちをしながら、私に聞く。
「お母さんね、再婚しようと思うんだけど……どう思う?」
母のその決心を、私は本当に嬉しく思った。
何よりも私を優先し、自分のことをいつも後回しにしていた母が、初めてわがままを口にしたのだ。
「その人は上司なんだけどね、私と同じで早くに奥さんを亡くしてしまったらしいの。はじめはそんな共通点から話すようになって、互いの悲しみや悩みなんかを相談するようになって、そして……気付いた時には、好きになっていたの」
微かに頬を赤らめながら、母は再婚相手について語る。
私はその上司さんに会ったことがないけれと、話を聞く限りだと悪い人ではないらしい。彼の言動の所々から、母への気遣いが伺える。
母曰く、結婚において最も重要なのは、自分の心が安らぐ相手かどうかということらしい。
ただ「好きだから」という理由なら、結婚なんてする必要がない。恋愛だけで十分だ。
なんたって、嫌いになった時別れるのが困難だからね。子供がいたら、特に。
だから一生好きでい続けることの出来る相手ではなく、一生嫌いになる可能性のない相手を見つけることが重要なのであって。
母は、そんな相手を見つけることが出来た。そして再婚し、今なお幸せな日々を送っている。
落ち着ける相手との結婚が、母さんに笑顔を取り戻したのだ。
久我誠くん。それが今私の付き合っている恋人だ。
彼のことは好きだけれど、不満が一切ないわけじゃない。例えば恋愛に消極的すぎるところは、直した方良いと思う。
だけどそんな欠点を甘受してしまうくらい、誠くん素敵なところが沢山あるわけで。彼の長所を再確認する度、私はこう思うのだった。
「きっと私は、彼を嫌いになることはないんだろうなぁ」と。
ねぇ、お母さん。私も結婚したいと思える相手を見つけたよ。
私もお母さんみたいに幸せになれるって、確信しているよ。
勿論今すぐ挙式&披露宴をしたいと言っても、誠くんを困らせるだけだ。多少なりとは、猶予をあげることにしよう。だから――
「ねえ。私、30までには結婚したいのよね」
デート中、私は本当にさり気なく、誠くんにそう伝えてみるのだった。
◇
30歳までに、結婚か……。
俺・久我誠は恋人の発言を心の中で復唱する。
美咲と交際を始めてもう3年になるわけだから、そろそろ結婚を意識するような話題が出てきてもおかしくないと覚悟はしていた。実際美咲の奴、本屋に立ち寄る度に結婚情報誌をチラチラ見ていたし。
しかしまさか特別でも何でもないデートの日に、こうも不意打ちをくらうだなんて……。流石の俺も、動揺を隠し切れない。
……どうやら美咲との交際も、ここまでのようだな。
結婚なんて一生するつもりがない。そのスタンスは、相手が誰であろうと揺るがない。
たとえそれで結婚願望のある美咲と別れることになったとしても、独身でい続けることを俺は譲るつもりがなかった。
だから美咲が下手な期待を持たずに済むように、俺の考えををきちんと伝えなければならないのだが……
「……」
驚くことに、上手く言葉が出てこなかった。
「俺には結婚する気がない」。言うだけなら、小学生にだって出来る。
では、どうして俺はその一言を口にすることが出来なかったのか?
……理由なら、考えるまでもない。俺は自分の思っている以上に、美咲のことが好きなのだ。
結婚はしたくない。でもそれを美咲に伝えて、彼女が離れて行くこともまた嫌だったのだ。
とんだ自分勝手野郎である。
……いや、ちょっと待てよ。
美咲はなにも、今すぐ結婚したいと言っているわけじゃない。30歳までに結婚したいと言っているのだ。
それはすなわち、30歳になるまでなら現状維持も可能だということで。
美咲は先日27歳になったばかりだから、あと3年程猶予がある。その3年の間に、なんとか打開策を見つけ出すとしよう。
独身でい続けたい俺と、30歳までに結婚したい美咲。二人の妥協点を見つけるのだ。
……いいや、それもダメだ!
あと3年現状維持を続けるなんて、そんなこと出来る自信がない。
なぜなら――俺はその3年間で、美咲をもっと好きになってしまうに決まっている!
今でさえ「結婚する気がない」と言い出せないくらい愛してしまっているのだ。ここに更に3年分の愛が加わるとなれば、今以上に悩むことは目に見えている。
……クソッ。
俺は一体、どうすれば良いのだろうか?
◇
フフフ。悩んでる悩んでる。
目の前で苦悩する彼氏を見ながら、私・小久保美咲はほくそ笑んだ。
誠くんに結婚願望がないことは、以前から知っていた。
一週間前、酒に酔った彼が「一生結婚する気はない」と漏らしていたのだ。
そのセリフを聞いた時、私はとてもショックを受けた。でもそれと同時に、腹の底から怒りが込み上げてきて。
だって結婚する気がないってことは、私とこれ以上関係を進めるつもりもないってことでしょう?
挙式とか新居とか子供とか、そういった将来について考えるつもりがないってことでしょう?
誠くんにとって、私への愛はその程度なの? そう考えると、どうにもムカついてきてしまう。
だからこうして彼を困らせて、仕返ししてやろうと考えたのだ。
でもこの仕返しには、リスクが伴う。
もし誠くんの独身への執着が強くて、結婚を迫られるくらいなら私と別れることを選んだとしたら――。
幸いなことに、即決出来ないくらいには私を愛してくれているらしい。そのことが、この上なく嬉しくて。
今の私の笑みには、してやったりという感情以外に喜びも多く含まれていた。
……さて、そろそろかな。
恐らく誠くんの中では今、内なる天使と悪魔が激闘を繰り広げているのだろう。
どちらの意見も魅力的で、それ故に選ぶことが出来ずにいる。だからここは、愛する彼女が人肌脱いでやるとするか。
「ねぇ、誠くん。ちょっと提案があるんだけど――」
◇
「ねぇ、誠くん。ちょっと提案があるんだけど――同棲してみない?」
「……え? 同棲?」
突然彼女からそんな提案をされ、俺・久我誠は思わず聞き返す。
「そう、同棲。多分だけど、いきなり結婚とかいう話になっても、実感が湧かないと思うの。付き合っているとはいえまだお互いに知らないことが多いし、数時間のデートを何回も繰り返すのと四六時中一緒にいるのとではわけが違う。だから誠くんも、真剣に悩んでるのよね?」
「それは……そうだな!」
本当は結婚したくないなんて口が裂けても言えず困っていると、美咲が都合の良い勘違いをしてくれた。
好都合なので、今は話を合わせることにしよう。
「そこで私は同棲を提案するの。同棲なら、一緒に住んでいても結婚みたいに責任が生じるわけじゃない。それでいて、相手のことをもっと深く知ることが出来る。……今の私たちには、最適解だと思うけど?」
……確かに、美咲の言う通りのような気がしてきた。
結婚はしたくないけど、美咲を手放したくない俺。そして結婚して、ずっと俺と一緒にいたい美咲。
完璧な形ではないけれど、同棲ならば二人の希望に添っているような気がする。
それに同棲という擬似的な結婚生活を送ることで、俺の結婚に対する価値観も変わってくるかもしれない。
もしかしたら美咲とだったら、幸せな結婚が出来るかもしれない。そう思える日が来たって、なにもおかしくない。
「美咲、同棲をしよう」
「えぇ。その代わりプロポーズは、きちんと誠くんからして頂戴よね?」
そう言いながら美咲は、ニヤリと微笑むのだった。
◇
計画通り。
私・小久保美咲はニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
彼は気づいていない。
同棲をするということは、法的に婚姻関係を結んでいないだけで、新婚さんと何ら変わらない。
「いってらっしゃい」のチューも、毎朝お味噌汁を作ることも、小さな浴室で二人で洗いっこも、一つのベッドで抱き合って眠ることも。
同棲を始めれば、私の望んでいたあれやこれやを実現することが可能なのだ。キャーーッ!
だから誠くん、覚悟していなさいよ。
私の策略にはまり同棲してしまったあなたは、もう逃げられない。いや、私が逃してあげない。
将来的には何が何でも、婚姻届に判を押させてやる。
とはいえ今日明日で結婚出来るなんて思っていないから。
取り敢えず、遅くても今年のクリスマス辺りまでには、既成事実を作るとしようかな。