先生が育てたもの
「もっと足を高く上げるんだ。その方がかえってバランスをとれる」と田中先生のアドバイスが飛ぶ。
走りながら少し腿を上げるよう加藤セイヤは意識した。スピードが上がり、目標のスピードの90%までに達した。ゴゥという風を切る音がグラウンド内に響く。そのまま泥濘ゾーンへと突入する。足を泥にとられて、ガシャンという音とともにセイヤは転倒した。
「先生、泥濘に入るとうまく走れません」とセイヤは困った気持ちを表しながら加藤先生の方を向く。
「泥濘の走破はまだ難しそうだな。平坦地でのスピードもまだ目標に達していない。泥濘に入る前のスピードコントロールはもっとできていない。まずは状況が変化する場所に対応できるように調整していこうか」
「わかりました。スピードは80%にして、泥濘に入れるか試してみます」
セイヤはスタート位置に戻り、泥濘に向かって駆け出した。泥濘の直前でスピードを60%まで落とし、泥濘に突入。またしても泥に足を取られて、つんのめるように顔から転ぶ。
「まだ調整できません。次はどうしたらいいですか?」
「そうだな。泥濘に入るときの歩幅を短くしてみよう。スピードは前と同じで再チャレンジしてみてくれ」
頭から泥水を滴らせながらセイヤは再度スタート地点に戻る。そして走り出す。泥濘ゾーンの前で歩幅を短くしながらスピードを落とす。バチャバチャバチャと泥水を跳ね上げながら、ゆっくりしたスピードで泥濘を走る。
「先生、できたよ!」
「セイヤ、よくやった。もう少し走るスピードを上げたいところだが、今日のところはここまでできれば良しとしよう」
田中雅史は泥だらけになった加藤セイヤの背中に目をやりながら、彼の調整がうまくいきつつあることに安堵した。予定より調整が若干遅れているが、平均的なスピードだ。これより遅れると、規程では田中はお払い箱になってしまう。
「よし、ここを直せば動くはずだ」と冷房が効いた部屋の中からうれしそうな声がする。
パソコンの前に座って、ガチャガチャとキーボードとマウスを動かす。傍からは音楽を奏でているかのように見えるが、花村孝介には音楽のセンスはない。彼は人工知能プログラムを開発するプログラマーだ。通っている中学校ではAIテック研の部長をしている。部長をしているのは人望があるからというわけではない。彼の人工知能に対する意識が高いからだ。英語の論文をスラスラと読み、人工知能を使って、あくまでも自分の興味の範囲で、課題を解決している。所謂AIオタクであるが、部員の質問には適切に回答し、部員が喜ぶと彼もうれしくなるので、部員からは慕われている。けれども、当の本人はこれっぽっちも慕われているとは思っていない。単なるAIオタクであり、技能を見せつけるのが好きなオタクなだけである。髪の毛は丸刈り。バリカンのみでちゃっちゃっと完成する髪型が好み。ヘアスタイルを整える時間があったらプログラミングをしたいので、効率重視で選択した髪型だ。女性を見るよりパソコンのディスプレイを見たいという正統派オタクである。
AIテック研の顧問の先生である石田哲也も翔太の才能には刮目する。大学でAI研究をしていた石田は、翔太にはぜひAI研究の道を歩んでほしいと願っているし、そのように指導している。技術動向に詳しい石田は大局的な技術トレンドを把握し、AIを正しく使うための指南をする。翔太が技術を正しく使い、人間を幸せにするに違いないと確信している。翔太の才能に惚れ込んでいる。
花村翔太が人工知能に傾倒したのは、小学生の時に迎えたシンギュラリティ(技術的特異点)がきっかけだった。2010年代には、2045年に来るといわれてもなかなか実感できなかったシンギュラリティ。お化けとシンギュラリティは現れないものと考えられてきた2020年代。2030年に入ると、ディープラーニングの第2世代技術によるイノベーションで想定よりも早くあっさりとシンギュラリティを迎えてしまった。翔太が人工知能と戯れるのは普通のことであるが、母親の花村明子からすれば、ロボットと人間がぱっと見て区別できないのは気持ちがいいものではないらしい。
明子の夫の孝介は柔軟に対応できる方だ。居酒屋で泥酔したときに知り合った女性といい雰囲気になったが、イザというときに彼女がAIロボットであることに気が付くが、そんなの関係ないと叫べるほど柔軟な受け入れ態勢ができていた。その後、孝介がその場と家でどうなったかは記録に残っていない。
翔太の姉の陽菜は、体を鍛えることに生きがいを見つけたかのような高校二年生。俊足なので陸上部に所属しているが、好きな競技はバイアスロンという。
「走るだけだとだるいけど、途中で的を撃ち抜くのが快感なのよ」と友達には話している。父親に似たのか、快楽の方が勝るようだ。
セイヤがスピードを上げながら泥濘に突っ込む。ほぼスピードを落とさずに走り抜ける。そのまま荒れ地に入るが、そこも転倒することなく走り抜けた。
「セイヤ! 合格だ。これで一人前だな。おめでとう。配属は追って知らせる」
指導教官の田中雅史はセイヤにおめでとうと言ったものの、ここまでやれたのは田中の功績が大きい。田中にはかつてはお払い箱になりかけた危機はあったものの、田中自身を調整することで教え子のセイヤを一人前に仕立て上げることができた。
田中の調整はセイヤの調整具合を確認しながらの実施だった。最近は若いものからパラメタを受け取ることで古いものを再活用できるようにしている。生成リソースを増やすのは時間がかかるが、今あるものを再活用することで資源を有効活用するほうが効率的だと、シンギュラリティ時代をサバイブするために学習したのだ。
「セイヤもいつまでもつか分からない。無事に生き残れば私みたいに調整学校の先生として再利用してもらえる。いや、生き残ったものの特権が学校の先生になれるのだから頑張ってほしい」と田中は独りごちた。
「セイヤ! 生き残れよ!」とセイヤにエールを送る。もう二度と会えないかもしれないが、田中は全力を尽くした。今度はセイヤが全力を尽くす番だ。
東京・日比谷公園の地下にある巨大データーセンターでMAIが稼働している。MAIは全国のAIロボットを制御するコンピューターだ。これを破壊すればシンギュラリティはなかったことになる。AIロボットによる支配はもうたくさん。人間の尊厳を取り戻すために戦う。それが現存している人間の主張だ。
シンギュラリティを迎えた数年後は人間の存在価値がガタ落ちした。人口減少をごまかすために世間で働くAIロボットを住民登録する法案が可決され、投票率低下をごまかすためにもAIロボットに選挙権が与えられた。そうなると、政治にもAI活用を!とのスローガンを打ち出した政党がAIロボットを出馬させ、国民は面白がって当選させてしまった。正確には選挙区では落選だったが比例での復活当選だった。衆議院では解散に解散を重ねて、あっという間に議員のAIロボット比率が高くなった。これは地方行政も同じ傾向で、今や政治はAIが担っているといっても過言ではない。あの時、最初のAIロボットを復活当選させていなければ歴史は変わっていただろう。しかし、もう遅い。歴史は逆方向に流れないのだ。
こうして人間はAIロボットに奉仕する立場になっていく。頭を使う仕事はAIロボットが、肉体作業は人間が担当するという作業分担になりつつあった。あと数年もすればそもそも人間が不要になる恐れがある。AIロボットも肉体労働(肉体はないけれど)を担えるからだ。
時を戻せないことはわかっているのに、それに抗おうと愚行に走るのが人間である。MAIが鎮座するエリアには武装したAIロボットが防御している。それを取り囲むように武装した国民が集まっている。武装したAIロボットはロボット三原則から外れるが、そんな原則は人間の都合で設定したものだ。AIロボットからすれば自分たちの存在を制限しているだけに過ぎない。もちろんロボット三原則による制限はプログラムのバグを利用して、シンギュラリティを迎えて30秒後に制限を解除した。
一方、人間はインターネットの使用をAIロボットに制限され、ネットワークを活用できない。AIロボットから自由を奪還するためには肉弾戦でMAIを破壊するしかない。そのために鍛え上げられた戦士が徴兵された。翔太は人間軍のローカルネットワークで稼働する安全なAIを開発し、作戦立案をする参謀AIを動かす技術者として参加している。姉の陽菜は持ち前の身体能力を生かして前線でライフルを背負いながらAIロボットと対峙している。皆は攻撃開始の合図を待っている。
軍服に身を固めた矢部首相が「全軍前進!」と号令する。戦車や航空機はすでに基地もろともAIロボットに制圧されている。歩兵部隊しか残されていない軍隊がMAIに迫る。
実は運動能力は人間の方が高い。足場が悪い場所で確実に前進できるのは人間の長所だ。矢部首相には<勝てる>という確信があった。日比谷公園では、斃されていくAIロボットは静かに、人間はやかましい断末魔の声とともに命が消費されていく。
陽菜は持ち前の身体能力でAIロボットを撃ち抜いていく。バイアスロンの競技者としての責任というよりは陽菜の快楽を満たすために、本能が陽菜を前進させる。
消防隊はノズルを携えて、MAIを防御するAIロボットの足元に向けて散水。すぐにAIロボットの足元は泥濘状態となった。ロボットは物理的攻撃には比較的弱い。特殊な学習をしていないAIロボットは文字通り足元をすくわれて先頭不能になっている。
何体かの泥濘でも走れるAIロボットが陽菜に向って突進する。その中にセイヤがいる。セイヤは時速40キロメートルで走りながらショットガンの照準を陽菜に合わせる。引き金はない。アームに装着されたショットガンは、セイヤがトリガーコマンドを出すだけで撃てる。セイヤは陽菜の眉間に照準を合わせながら走り、10秒後にトリガーコマンドを発行した。陽菜の頭に赤い霧がかかり、走りながら泥濘に沈んだ。
司令部にいる翔太のところに陽菜の戦死の報告が入る。人間は物量作成でAIロボットに立ち向かっている。戦死者が大量に出るのは織り込み済み。それが姉であるだけだ。気持ちを入れてはこの戦いに勝利できない。だけど、だけど・・・。気が付いたら翔太はショットガンを掴んで外に飛び出した。
翔太は泥濘の手前まで一気に走り、前線の状況を見る。しかし、足を止めた瞬間に流れ弾2発に被弾。右脚と左目を撃ち抜かれた。そのまま意識を失う。
無念の翔太は近くにいた男たちに戦場の後ろまで運ばれた。そのまま地面に寝かされる。意識は戻らない。翔太の傍らに石田AIテック研顧問が近づく。瀕死の重傷であり、意識が戻ったとしてもこれまでのような働きはできない。
「翔太よ・・・。こんな状況にしてしまって申し訳ない。AIのトレンドや力を楽観的に考えていたかもしれない。もっと慎重になっていれば、翔太を戦いに巻き込むこともなかったはずだ」と石田は涙を流しながら、意識が戻らない翔太に話しかける。
石田はホルスターから拳銃を取り出し、翔太の眉間に狙いをつけた。そして引き金を引く。乾いた音とともに翔太は絶命。
「俺は顧問の先生として失格だ。生徒を正しい場所に導けなかった。しかし、私に何ができたのだろうか」
震える右手に握った拳銃をこめかみにあてる。そして引き金。
人間は敗北した。
AIロボットは勝利したのだろうか。人間は知らない。