アイビーの栞
春休みの図書室で、如月サナは人知れずに怯えていた。粉雪のような埃たちが、柔らかに床に舞い落ちる。
「あれ、如月さんも来てたんだ」
何も知らない柊瞬が、座って本を読むサナに話しかけた。彼は同じクラスで、サッカー部。サナとは違って目立つ生徒だ。
「うん。柊くんも?」
「春休みのお供を返しにね。隣、いいかな」
「うん」
空いているサナの右隣に瞬は座った。サナは震えを悟られまいと必死に平静を装う。
「柊くんは何借りたの?」
「これ」
「あ、これ私も読んだよ。泣けるよね」
「うん。まるでダムみたいな作品」
瞬は文庫本を挟むように持っていた。短めの前髪がまつ毛にかかっている。
「ダム?」
「うん。初めのうちは涙腺をせき止めておいて、最後の章で崩壊させてくる。そんな書き方してるよね、この作者」
「わかる。すごく上手いなあって思う」
「へえ、やっぱり文芸部からみてもそう思うんだ」
「もちろんだよ。私にはこんな上手い文章書けないな……」
サナはもうこれで最後になるかもしれないと、瞬との会話を噛み締めていた。会話が途切れてしまうのは惜しい。
「そんなことない。如月さんの文章、僕は好きだよ」
「え? なんで私の文章を……」
「部室の前に置いてある文集。あれって勝手に読んでいいやつでしょ?」
「そうだけど、ちょっと恥ずかしいっていうか……」
サナが言い終える前に瞬は語り始める。
「檻の中のお姫様が看守の男の人に恋しちゃう話、すごくよかった」
「ほんとに? ありがとう」
「監獄に生えているアイビーでハート形を作って、お姫様が看守に渡すシーンが特に好きかな。如月さんってさ、片思いしてる時の心理描写がすごく上手いよね」
「そ、そんなことないよ、私なんて……。」
「次回作も期待してる。」
「う、うん……」
長期休暇中の図書室に生徒はほとんどいない。明日から新学期で瞬は高校3年生になる。
「書いたら一番最初に読ませて」
「わ、わかった」
「楽しみにしてる」
瞬は期待するように笑みを浮かべた。しかしサナは無事に3年生になれるのか分からなかった。留年や転校なんて話ではない。あの呪いが、サナをこれから苦しめるのだ。
「……柊君って運動部なのに読書好きだよね」
会話が切れないようにサナが言った。
「そうだけど。変かな?」
「ううん、全然変じゃないよ。だけどそういう人は珍しいっていうか、貴重っていうか……」
「確かにうちの部活にはいないね」
「みんなと話合わないでしょ?」
「合わないけど、だからこうして如月さんと話せてるんでしょ?」
短い沈黙があって、思わずサナは言った。
「……ずるいよ」
「ずるい?」
「あ、ほら、友達いっぱいいて、ずるいなあって」
「ふーん、俺からしたら如月さんのほうがずるいよ」
「なんで?」
「おとなしそうに見えて、本当はおしゃべりなとことか」
瞬の横顔は大人びている。サナはまだ中学生みたいで、どんなにおしゃれをしても、子供っぽくなってしまう。瞬は文庫本を置いて、腕を伸ばしながら言った。
「明日から新学期かあ。クラス替え、楽しみだね」
「あっ、うん。そうだね。」
「また同じクラスになったら、その時は、よろしく」
「うん」
「じゃ、また明日ね。如月さん」
そう言って立ちあがり、帰ろうとした瞬を、サナは引き留めた。
「……待って」
もう会えない瞬に、サナは気持ちを伝えようと、必死に声を出そうとした。
☆☆☆
2日前、サナは呪いにかけられた。呪いと言っても、白馬の王子様や魔法使いが助けに来てくれるようなドラマチックなものではない。この学校で呪いのすべてを知っていたのは、司書教諭の坂本先生だけだった。
「学校七不思議の一つ。図書室で貸出禁止の黒い本を借りてはならない。借りた者は、翌年の一年間を呪われて過ごすことになる」
坂本先生はサナにこう告げた。去年の夏、読みたいという衝動に負け、サナは軽い気持ちで黒い本に勝手に手を出した。七不思議のことは知っていたが、どうせ作り話だと信じてなどいなかった。
「自業自得ね」
坂本先生はサナの告白にそう返した。サナは本を勝手に借りたまではよかったが、その内容とおびただしい活字の山に畏怖し、坂本先生に黒い本を借りたことを正直に話した。坂本先生は深刻な顔をしてサナの話を聞いた。
「本当にすみません」
サナが頭を下げると、先生は表情を緩めた。
「こうなってしまった以上、仕方ないわ。大丈夫よ、えらそうなこと言ってるけど、私も昔呪われてたから」
「そうなんですか?」
「そうよ、ちょうど十年前に一年間だけね」
「その呪いって、一体どんなものなんですか?」
「明日になればわかるわ」
「明日?」
坂本先生はまた暗い顔に戻って俯く。サナは不安げにその表情を見守った。
「今日は何年の何月何日かしら?」
「2017年の4月7日です。」
「明日から新学期ね」
「そうですね、それがどうかしましたか?」
「残念だけど、あなたの新学期は始まらないわ」
間髪入れずに言った先生の言葉に、サナの顔は青ざめた。え、それって……死ぬってこと?
「驚かしてごめんなさい。死ぬわけじゃないから、安心して」
慌てた先生が苦笑いをしながら言った。サナは一安心しつつも、
「じゃあどうなるのですか?」
と聞き返す。今度は一呼吸をおいて、先生が言った。
「あなたが明日、目を覚ますと、2018年の3月9日になっているはずだわ」
「それって、まさか一年間眠り続けるってことですか?」
「いいえ、違うわ。ちゃんと一年間は送れる。でも、あなたの一年間は2018年の3月9日から始まって、2017年の4月8日に終わるの」
「え?」
あまりにも現実離れした呪いの真実に、サナは再び言葉を失った。
「つまりね、この呪いにかかった如月さんには一年間、未来が過去になって過去が未来になる。終わりから始まって、始まりへ向かう。受験も修学旅行も、文化祭も体育祭も、本番から始まって準備へ向かう。みんながすごくわくわくしながら本番を迎えるのに、自分はもう結末を知っていて、わかっている明日から決められた昨日へ向かう。今日何かしても昨日は変わらない。変わるのは明日で、あなたはその明日をもう既に過ごした。今言っただけじゃわからなかったかもしれないけど、これは相当重い呪いだから」
未来を先に見れるわけだから、呪いと呼べるのかとサナは思った。でもすべてを経験した先生の顔は苦しそうだった。
「日記をつけておきなさい。あなたにとっての明日である昨日を知れるのは、日記しかないわ」
「日記ですね、分かりました」
「それから今日のうちになら、何かすれば明日からの一年間を変えることができるわ。会っておきたい人に会って、思いを告げておきなさい。あなたにまで私みたいな思いをしてほしくない。」
急にそんなことを言われてもとサナは思った。仲良しの友達もそんなにいないし。困ったように天井を見た時、頭にふっと瞬の顔が浮かんだ。サナは淡い思いを心に秘めていた。
「で、でも……」
口をつぐんだサナに対し、坂本先生ははっきりと言った。
「躊躇してる場合じゃないわよ。今いかないと一生後悔する。仮にあなたに好きな人がいたとして、呪われた一年間に告白しても、付き合えるのは明日の自分なのだから」
☆☆☆
日が沈み、サナは朝を迎えた。しかし坂本先生が言ったように明日になることはなく、代わりにやってきたのは2018年の3月9日だった。サナはカレンダーを見て愕然とした。呪いは本当だったんだ。
「卒業証書、授与」
静寂に包まれた体育館で、サナの一年間は卒業式から始まった。瞬とは同じクラスになれたのだろうか。昨日の告白の返事はOKなのだろうか。サナはそれを気にして瞬を探したが、いくらサナがあたりを見回しても、彼の姿はどこにもなかった。
「卒業おめでとうございます」
サナの知らない後輩が祝辞を述べた。卒業式が終わると、生徒たちは桜の下で写真を撮りはじめる。この桜の木が、昨日まで見ていた桜とは違うだなんてサナは不思議な心地がした。遠巻きに卒業した生徒たちをサナが眺めていると、コサージュをつけていない後輩の女の子が近づいてきた。
「あの、如月先輩……」
女の子はなぜか突然、泣き出して声を詰まらせた。
「柊先輩のことも、忘れないでください」
彼女はそう言い残して、走り去っていった。その様子にサナが途方にくれていると、どこからか坂本先生がやってきた。
「何があったのか分からないでしょう。日記を見なさい。あなたのスマホのメモの中にあるわ」
「あっそうか。日記」
サナはスマホを開いて日記を確かめた。遡ってみるが、瞬のことはどこにも書かれていない。変だなと思った矢先、サナは衝撃の事実に胸を貫かれた。
『11月26日。柊君が亡くなった。交通事故らしい。そして私たちは付き合っていた、らしい。私はあおいちゃんに泣きつかれた。サッカー部のマネージャーの子だ。先輩と付き合ったせいで死んじゃったんだって言われた。そんなの知らない。私は未来から来たの』
「言ったでしょ、これは相当重い呪いだって」
スマホを見て卒業証書を落としたサナに坂本先生は言った。
「彼に想いは伝えたの?」
「はい。でも結果はあとにしてほしいって言われちゃいました」
「恋は成就したみたいね。悲しい結末だけど」
こんな仕打ちがあっていいのか。サナは深い悲しみと絶望に体を預けていた。瞬を助けても、サナは彼が助かった未来には行けない。ただサナは瞬が生きていた過去へ向かうだけ。今日をどれだけ変えても、変わるのは明日で、昨日は変わらない。
「あの女の子。椎名葵っていうの、サッカー部のマネージャーよ」
「日記に出てくる子だ」
「あなたのことをひどく恨んでいるから、気をつけて」
「えっ」
その理由をサナは坂本先生に何度も尋ねた。しかし先生は何も答えなかった。
☆☆☆
それからの四か月はサナにとって苦痛でしかなかった。受験の結果がわかってるのに、勉強しなければならなかったし、どれだけ頑張っても第一志望には受からない。みんなと違って、サナには決められた「明日」しかこないのだ。そしてすぐに大晦日が来て、クリスマスが来て、12月が終わった。
この頃から、みんなが慰めてくれるようになった。たぶん瞬のことだ。サナと瞬は付き合っていたらしいのだから、サナが心に深い傷を負っていると思ったのだろう。呪いのことなんか、誰も知りもしないで。
そして運命の11月26日をサナは複雑な気持ちで迎えた。不思議なことに瞬が亡くなったと聞かされても、涙が出てこない。スポンジに水が染みこむみたいに、少しずつ悲しみを味わってきたからかもしれない。しかもみんなと違って、サナは昨日になれば瞬に会える。
「如月先輩が引き止めなければ、一本早いバスに乗れて、柊先輩は死なずに済んだかもしれない」
そんな曖昧で空っぽな気持ちの中、サナは葵にこう言われた。昨日、サナと瞬はデートをした。日記によるとその帰り道、瞬はサナを家に送り届けたあと、バスから降りて自分の家へ帰る途中、交通事故にあってしまったようだ。どう頑張っても過去に向かうしかないサナは、瞬を助けることはできない。だからせめて、瞬が自分の事を大好きな幸せの時を噛み締めておきたい。
25日の夕暮れは冬の訪れを予感させるかのような冷たさだった。昨日までいなかった瞬が普通に生きていて、サナの横を歩いている。
「家まで送るよ」
「ありがとう」
サナと瞬は自然に手をつないだ。
「今日はすごく楽しかった」
「うん、私もすごくすごく楽しかった」
「また行きたいけど、そろそろ受験勉強しないとまずいよね」
「……うん、そうだよね」
瞬は大学にどうやったっていけないのだから、受験勉強なんて意味がない。サナはその無情さに心がつぶされそうだった。涙で声を震わせながら言った。
「絶対、一緒の、大学に、行こうね」
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない。受験、頑張ろうね」
それからしばらく二人は何も言わずに歩いた。サナの家の近所には一面アイビーに包まれたおしゃれなお屋敷がある。瞬はそれをみて、思い出したように言った。
「サナの小説にも、アイビーって出てきたよね」
「うん、ここのお家を見て思いついたんだ。自立はしないけど、壁や柵があってはじめて輝く。すてきな植物だと思うな」
「そうだね。サナはアイビーの花言葉って知ってる?」
「友情、不滅、永遠の愛」
「それとね、もう一つあるんだ」
「なに?」
「死んでも離れない」
サナはもう悲しみに押しつぶされて、どうにかなってしまいそうだった。そのまま夕暮れの街角で二人はそっと抱き合った。瞬は暖かった。それが不思議だった。
「今日はもう遅いからゆっくり休みなよ」
しばらくして瞬が言った。サナは瞬の肩を掴む。
「……待って、まだ離れたくない」
「でも、バスの時間がきちゃうよ」
「行っちゃだめなの」
もしも未来が変わったら。サナは瞬に会えなかったとしても、彼を助けたかった。
「帰ったらすぐメールするし、どこにも行かないよ」
「嘘だよ」
「どうしたの急に? こんなにもサナの事が大好きなのに、どこかに行くと思う?」
「さよならなんて、言わないで」
「じゃあ言わないよ。またあした」
「それも言わないで」
「ほんとにどうしちゃったの?」
瞬の戸惑った表情にサナは仕方なく彼から手を離した。気づいたらもうサナは泣いていた。
「サナ、大丈夫? 何かあった?」
瞬はそんなサナを見て、もう一度彼女を抱きしめた。
「ううん。なんでもないの……嬉し泣き。……すこしの間、こうしてていい?」
「うん。もちろん」
紫色の宵の空にアイビーの影が映り、それが鉄条網のようにサナには見えた。
☆☆☆
九月に入り、サナと瞬は次第に付き合って間もないころになっていった。瞬は日に日にサナの事を好きじゃなくなっていく。
「今度の土日空いてる?」「うん、空いてるよ」
「付き合ってる訳だし、今度さ、で、デートしない?」「うん。もちろん」
「如月さん。お昼休み、折角だからお弁当一緒に食べようよ」「うん……いいよ」
日記によれば、サナと葵は恋のライバル同士だった。彼女がサナを瞬の恋人と認めてくれた日を過ぎ、葵はだんだんよそよそしくなっていった。こうやってサナは記念日に確実に近づいていった。
まだ二人が付き合っていることを秘密にしていたころ、サナはグラウンドで瞬を眺めていた。サッカー部で汗を流す瞬はいつもと違って凛々しくみえる。
「あなた、また見学ですか?」
そんなサナに、葵が不審そうに近づいてきて言った。
「うん、みんな上手いなあって」
「いい加減、入部しないなら帰ってください。邪魔です」
「ごめん」
サナは俯いた。グラウンドの声も砂を蹴る音も遠くに聞こえる。
「私は如月サナ。3年生。柊くんと同じクラスなの。あなたは?」
「……椎名葵です」
素っ気なく葵は言った。
「葵ちゃん、柊くんの事好きでしょ?」
「違いますけど。如月先輩こそ、柊先輩の事好きなんじゃないんですか?」
「うん、好きだよ。すごくね」
葵は少し黙ってから続けた。
「……負けませんから。私、柊先輩を想う気持ちなら、如月先輩に負けませんから」
砂埃が待って、葵は練習に戻った。明日はあんなに近かった瞬の背中が、今日は遠くに見える。きっと昨日にはもっと離れてしまうんだろう。
☆☆☆
4月まで戻ってきた。二人の記念日が近づいてくる。しかし付き合い始めるということは、呪われたサナにとって、別れるに等しかった。図書室で読書をしていると、坂本先生が声をかけてくれた。
「久しぶりになるのかしら、元気にしてた?」
「はい、なんとか」
先生は図書委員にカウンターを任せて、サナを人のいない廊下に連れ出した。
「もう一か月で今年も終わりよ。あなたからしたらね。よくここまで頑張ったわ」
「呪いが解けたら、どうなるんですか?」
「いままで通りよ。来年は普通に四月から始まって三月に終わるわ。ただし、この一年にあった出来事は変わらない」
「……そうなんですね」
「その様子だと、未来で何か辛いことがあったのね」
「はい。とても辛いことがおきます。でも未来は変えられない」
サナは潤んでいた目を拭いて、続けた。
「本当に最悪の呪いでした。でも一つだけよかったこともあります」
「何かしら?」
「それはいつも通りの『昨日から明日に変わる』毎日の大切さに気づけたことです。今日変わることで、明日を変えられることが幸せだということに」
「あなたは本当に強いわね。よく頑張ったわ」
坂本先生はそう言うとサナを優しく抱きしめた。そうして耳元でこう言った。
「今日を変えることの大切さを知っている人間は強いのよ。どんなに昨日までの自分が弱くてかっこ悪かったとしても、今日の自分を変えることができたのなら、どんなことだってできるはずだからね」
「はい、先生。ありがとうございました」
「またいつでも図書室に本を借りにいらっしゃい」
「はい!」
散っていった桜が再び花をつけて、4月ははじまりに近づいた。そして4月7日。始業式と、クラス替えの発表があって、サナの呪われた一年が今日で終わる。校舎の壁に張り出された3年生のクラス。明日からきたサナは、誰と同じクラスなのか既にわかっていた。瞬ももちろん同じクラスだ。
「ちかクラス一緒だよ!」「まじで!よろしく。」
はしゃぐ生徒たちをよそに、サナは瞬を探した。瞬はサナにとっては遠い昔、図書室であった時と同じ髪型をしている。二人は出会うと自然とみんなの輪から外れて、校舎の陰で向き合う。
「如月さんも三組?」
「うん、柊くんも?」
「やった、また同じクラスだね。」
「うん」
瞬は照れながら、手汗を制服のズボンで拭いた。
「あのね、昨日のことなんだけど」
「うん、聞きたい」
「俺もずっと、如月さんのこと好きだったんだ。だから付き合おう」
「柊くん、ありがとう。このことは、ずっと、一生忘れないよ」
そう言って、サナはまた悲しくなってしまった。だって明日にはもう瞬はこの世にいないのだ。いくつになってもアイビーの屋敷を見るたびに、瞬のことを思い出すのだろう。淡い思い出は、いつまでも綺麗なままで。
「そんな大げさだって。でもありがとう」
瞬は笑いながらサナに言った。サナは瞬の瞳にアイビーの面影を見る。
「これからもずっと、よろしくね。柊瞬くん」