婚約破棄ですか? ではこちらにサインを。
書いてみたいという勢いで書いてしまいました。平民(商人の娘)への王子からの婚約破棄。メンタル折れない主人公です。
「ヴァネッサ・ライリー! 君との婚約を破棄する」
王子の言葉に、広間はしんと静まり返った。楽団が奏でる音さえ戸惑ったように止まり、踊る人々の足はもつれて固まる。
「私の婚約者であるからといって、君はあくまで平民だ。公爵家のご息女であるクレア嬢への無礼は到底許されることではない。やはり君は……」
王子は演出的な間をとって、苦々しく顔をしかめた。
私はそれを見ながら(あらそう)とこれからのことについて考え始めた。
「王家に入るべき人間ではなかったということだ」
どうやらそうらしい。周囲のお歴々の中にも、大きく頷くものがあった。第二王子とはいえ、王家の妻が平民であることはとても耐え難いことのようだ。
王子もまた、自分の妻が平民であることを受け入れられなかったのだろう。
(そちらからの申し出だったのですけれど)
言いはしなかった。貴族であること、王族であることが生きる目的のような彼らを論破しても一銭にもならない。旧時代のまま凝り固まった彼らなどは放置して、前に進むのが平民のさがだ。
「お、王子、それは、それは決定事項なのですか」
動揺して聞いたのは、王子の隣にいる腰巾着こと、私の兄である。まあ可哀相に、と私は同情した。お兄様でもどうにもならなかったのね。
完全なる平民である私と違い、お兄様の母親は上流貴族だ。恋愛結婚ではない。貴族から押し付けられるように我がライリー家に嫁いできて、お兄様を生むと、これで役目は果たしたとばかりに離縁して親の領地に戻ったらしい。よほど平民の家がお嫌だったのだろう。
(そのくらい、貴族がつながりを求めているのが私の家なのですけれど)
ライリー家は商家だ。平民に人気の品を次々売り出し、そんじょそこらの上流貴族より裕福である。
「くどいぞルーク。妹が可愛いのはわかるが現実を見つめろ」
「……っふぐ」
私はつい吹き出すところだった。
(お兄様、わたくしが可愛いのかしら?)
するとお兄様は嫌そうにわたくしを見た。わたくしは何事もなかったように首を振り、うつむいて表情を隠す。
「ヴァネッサは王家の妻にあるべき資質がない。青き血を、この国の歴史を尊ぶ心がなく、全てを金銭ずくで考える下賤なるものだ」
それはお兄様も同じですわ、王子。
わたくしと兄はそれほど仲が悪かったわけではない。ただ、根っからの商人である父に鍛えられ、どちらにより商才があるか小さなころから競い合っていた。
兄は自分に流れる血を利用して、ライリー商会を大きくするつもりだったのだろう。
(わたくしもまあ、それでよかったのだけれど)
考えを変えるしかあるまい。
「よいな、ヴァネッサ! もとよりこの婚約は、幼い頃に親しんだ間柄である我々を思い、父王が結んでくれたものだ。愛情がなければ成り立たぬ」
ということになっている。
実際には王家からの申し出によるものだ。高貴なる血筋でなく、金銭上の利益を求める婚姻が、よほど恥ずかしいものであったらしい。
「わかりましたわ」
「あくまでそなたの身から出たことだ。その驕った己を反省し……、ん?」
「破棄を受け入れます。クレア様、わたくしにが無知なばかりに、無礼をいたしましたようです。お詫び申し上げます」
無礼をしたつもりはないが、正直なところ礼儀作法にはそれほど自信がない。なんといっても貴族の礼儀作法は、生まれた頃からしつけられてできあがるものだ。
九割ただのいちゃもんだと思うが、こちらの礼儀作法が足りなかったことを謝るのは、なんの損もない。
「ええ……」
王子の隣で、公爵家のクレア様は優美に頷いた。何か起こっているようだけれど私には関係がありません、という仕草だ。本当にそう思っているのかもしれない。
病弱として長らく外に出ることもなく、王につながる尊き血を持つクレア様は、些事には関わらないよう丁重に育てられているのだ。
「むっ……わかれば、よい……のだ」
これ以上、ライリー家との不和を呼ぶつもりはないのだろう。王子はまだ言いたいことがありそうだが、引き下がり、気を取り直したように優しい瞳でクレアを見た。
なるほど公爵家のクレア様となら、次の王を狙えるのかもしれない。病弱だったクレア様に婚約者がいなくてよかったですわね。がんばってください。内戦だけは勘弁してほしいけれど、それ以外ならどうでもよいです。
「では」
ぱん、とわたくしは手を打った。
「セヴィ、契約書を」
「こちらに」
いつも連れている従者のセヴィはすぐに書類を差し出してきた。頷いて受け取る。
決まったことである以上、さっさと書面にしてしまうに限る。これ以上面倒なごたごたに巻き込まれ、先のことが読めなくなるのは困るのだ。
わたくしは契約書にさらさらと「王子より申し出た婚約の破棄を、ヴァネッサ・ライリーが承諾する」と記した。
「王子、こちらをどうぞ」
「な、なんだ」
「婚約破棄の契約書です」
「そんなものがいるのか」
「ええ、お互い、なかったことにされるのは困るでしょう」
わたくしはちらりと扉を見た。
これが王子の独断であるなら、王の使者がやってきて破棄無効とするかもしれない。その前に確実にサインを貰う。
「そうだな。……困るのか?」
王子は力強く頷いたあとで、不審そうにわたくしを見た。平民は王家の妻の立場に執着するに違いないと思っているのだろう。
その考えの阿呆さはともかく、さっさとサインさせなければ。
「困ります。手を伸ばせそうな夢は、人を破滅に向かわせるものですよ」
「……なるほど」
わたくしの適当な話になんとなく納得したらしい王子へ、書類とペンを差し出す。
「サインはここへ」
「うむ」
王子たるもの、そんなさくさくサインしてよいのかと思いますけれど。
わたくしとしては大変助かります。
「もうひとつこちらへ。……はい、よろしいですよ。こちらが王子の控えとなります。セヴィ」
「は。商会長へ必ず」
セヴィは書類を受け取るなり身を翻し、風のように広間を出ていった。商会の金庫に預ければ、誰も手出しはできなくなる。
これだけの証人がいれば問題ないとは思うけれど、押せる念は押しておくべきだろう。
「では王子、よいお取引……、いえ、円満な婚約破棄をありがとうございます」
「お、おう」
はあ、とお兄様が額に手をあててため息をついた。
おかわいそうに、これからの身の振り方をお考えなのでしょう。
「しかしその……ライリー商会を王家の専属から外す気はないのだ。こたびのことで悪評を得ることになるのは忍びない。事業が芳しくないという噂も聞く。王家からの援助を考えてもよいぞ」
お兄様の嘆きが伝わったらしい、王子が少し気まずそうに言った。お兄様はまたため息をついて首を振った。
「それはヴァネッサへ。私はもはやライリー商会の後継ではありません」
「は? 何を言う。そなたの他に、誰が」
「ですから、ヴァネッサです」
「そのような」
「ええ、そうなのです、王子」
わたくしはにこりと笑った。
「当商会の後継が兄に決まっておりましたのは、ひとえにわたくしには王子との婚約があったからです。そちらが破談となった場合、ライリー商会の次期当主はわたくしということになっております」
「な」
王子は信じがたいとばかりにわたくしと兄を順番に見た。
「そうです。残念なことに。もはや当主として、王子に便宜を図ることはできません。まことに……残念です」
お兄様は半笑いで王子に言った。そもそもあんたのせいだろ、という気持ちが見えておりましてよ。
がんばって腰巾着していたのにお気の毒、とは思うけれど、つく相手を見誤ったのはどうしようもない。もっともわたくしも、王子がここまで思い切るとは思わなかったのだけれど。
(なぜかしら。お兄様を側近にするだけでは弱いでしょう)
ライリー商会を継ぐのなら、王子の側近のままではいられない。過去に便宜を図ったからと、ライリー商会を押さえておくのは難しいはずだ。
「そんなことは聞いていないぞ!」
「ええ、そりゃそうですよ。妹の予備としての後継だなどと広まっては、とても人がついてきません」
お兄様が苦い顔で言った。いつも完璧な貴公子の言動が外れている。もはや貴族としての利点は捨てるつもりなのかもしれなかった。
ほんとうに、お気の毒。
「そ、そもそもだ、ライリー商会はおかしいのではないか? 男であり、優秀なおまえを後継にしないなどと……」
「妹はそれより優秀なのです」
「馬鹿な。おまえの優秀さは知っている。作法もダンスも、社交も……」
「それは商人には不要です」
王子はぽかんと口を開けて黙った。それが貴族の中でしか通用しない技能だと、全く考えていなかったようだ。
そう、貴族のあまりに細かすぎる礼儀作法、パーティでしか使わないダンスなどほどほどにして、わたくしは商人としての駆け引き、帳簿付け、名誉以外のもので人を動かす術を学んだ。
「だからといって、女を当主にするなど……」
「平民の間では、特に珍しいことではありません」
「へ、平民とは、なんという……なんと」
これも信じがたかったのだろう。しかし平民のことに詳しいはずもない王子には、ろくに罵倒も思いつかなかったようだ。
しばらく間抜けな顔を晒していた王子は、気を取り直したようにわたくしに言った。
「では……援助は」
「王家の皆様がた、尊き皆様がたのおかげをもちまして、ライリー商会は順調に発展しております。お気持ちだけありがたくいただきます」
わたくしはにこやかに拒否した。紐つきの金をもらったのでは、せっかく婚約を解消した意味がない。
もはやライリー商会は自由だ。王家の妻となればノーリスクでこの国に広げられただろうが、今はそれよりもっと魅力的な土地がある。
「つまらぬ見栄を張ることはあるまい。店を閉めると……」
「あら、お耳の早いこと」
わたくしは納得した。そのような誤解があって、勢いの落ちたライリー商会ならば、妻になどしなくとも与し易しと思ったのだろう。
「えっ」
「閉店?」
ざわめきが広がった。どれも若い女性の声で、わたくしはそちらに向けて微笑んだ。
「ご心配にはお呼びませんわ。ルーファン店は手狭になりましたので、ラキセンブルク通りへ移転いたします」
「まあ!」
声をあげたのは、いちばん近くにいた少女だった。頬に手をやって嬉しそうに笑う。
「それはよいことですわ。本当に、今のお店は手狭ですものね」
「そう! もっとゆっくり見たいと思っておりましたの」
その隣にいる少女も嬉しそうにしてから、はっと周囲に目を向け、黙った。しかしあちこちで少女達が笑い、ひそひそと笑いあっている。
中流、下流貴族の若い女性がうちの店のターゲットだ。いつもありがとうございます。
彼女たちの母親は苦い顔をしている。貴族たるもの、商人を呼びつけるもので、店に行くなどとんでもないと思っているのだろう。
(時代ですわ)
商人が持ってくる生地も見本も、店まるごととはいかない。そして洒落者であるほど、オーダーメイドの完成品が思ったものと違った、という経験があるのだ。そして何より、店で買い物するのは楽しいではないか!
(親世代の方々も文句は言えないのでしょうねえ)
安く上がれば実際助かるのだろうと思うほど、貴族の資金繰りは悪いはずだ。田の数が減り、工場が増えたというのに、未だに税の多くが田の面積で決められているせいだ。
古い時代の、同じことを繰り返してきた彼らには、それ以外からどう税を取ればいいのかわからない。田こそが価値のあるものだと思っているので、せっせと脱農家から田を買い取っている。
しかし小作人を雇うのも大変だろう。工場のほうが給料がいい。そして農業をやるのなら、うまく農業を振興している隣の国に行ったほうがいい。重石になる田がなければ、土地を移動するのも簡単だ。
汽車という素晴らしい移動手段もある。どの国も人手不足で、仕事にあぶれることはないだろう。
「皆様、どうぞご愛顧くださいませ」
わたくしは貴族にないきびきびとした一礼をして、顔色の悪い王子、その斜め後ろのお兄様へ向き直った。
「ああ、そうですわ。お兄様、セレーネ国の一号店をやりません?」
「……やろう」
お兄様は一瞬複雑そうな顔をしたが、さすがに拒否はしなかった。後継といってもお父様はご健在で、まだ勝利の目はあるとお思いなのでしょう。
わたくしとしてもお兄様がやる気でいてくれる方がありがたい。新しい国への出店なら、やっぱり身内に任せるのが安心ですから。
「待て! 他国への出店はせぬとの約定が」
「ええ、わたくしと王子の婚約につけられた約定ですわね」
「……」
「婚約の破棄によって効力を失います。よくご確認くださいませ。もし何かありましたらライリー商会まで」
営業スマイルを浮かべて「では、ごきげんよう」と挨拶すると、お兄様が進み出てきてわたくしの手を取った。
「いこうか」
「はい」
入ってきたときと同じにひとりでも、わたくしには痛む見栄などないのだけれど。お兄様もこの場に残るのが苦痛だったのでしょう。
本当にお気の毒で、帰ったら労ってさしあげよう。それから店の打ち合わせを。ああ、楽しみ!
そうしてわたくしはうきうきと、王子という名の古い時代に背を向け歩き出した。