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作者: 小宮山 写勒

 「・」


 その箱は、以前よりそこにありました。


 いつからそこにあったのか、誰もわかりません。けれど、私が生まれるより前から箱はそこにあり、私は幼い時分よりその箱を親しんでおりました。もはや、箱とともに育ったのも同然であります。


 豪奢な装飾が施されているわけでも、何か特別な細工が施されているわけではありません。


 ただの箱。大きさは葛籠(つづら)くらいのものでしょうか。


 子供の手では到底持ち上げられませんが、大人であれば容易に持ち上げられるくらいの大きさです。


 正四角形で表面には木目が走り、ニスによって光沢をましております。


 しかし、不思議なことでありますが、私を含め家族全員が箱の中身を知らないのです。


 それはつまりはこの箱を誰も開けた事がないのと相違なく、また誰も中身のことなど気に留めたことなどなかったのでしょう。


 しかし、私は好奇心が旺盛でありましたから、一度気になってしまえば確かめたくて仕方がなくなってしまいます。


 きっとそれは私の生まれ持った性分なのでしょう。箱とはつまり人間が何かをしまうための道具であり、また何かを隠すための道具でもあります。道具の素性を知りつつも誰もその中身を見た事がないとなれば、何が隠されてあるか調べたくなってしまうのも仕方のないことだったのです。


 しかし、困ったことに箱にはきちんと錠前がかけてありました。

 黒く錆の浮いた、けれど封じるという機能を損なうことなく頑丈に箱を閉ざされていたのです。


 私にはその錠前が箱を守る守護人のように見えてなりませんでした。そして、こんな錠前ごときで私自身の好奇心を妨げられてなるものかと躍起になったのです。


 私は家中を探し、時に両親や祖母に尋ねながら鍵のありかを探しました。けれど家族は知らぬ、存ぜぬで、家の中にはそれらしき鍵は見当たりません。


 見つからないのであれば仕方がないと、私はどうにか好奇心を抑えてそれ以降箱のことを考えることはなくなりました。


 しかし、数年の時が経った今。蔵の中を久方ぶりに訪れて掃除をしていますと、奇妙な箱を見つけました。


 中庭、と言えどそう大層なものではありません。花梨の木と柚子の木が植えられ、幾つかの花々が咲き誇るほどのささやかな中庭です。


 中庭を通り抜けますと、私達家族が使っている蔵があります。時の経過のせいでしょう。かつては綺麗に整えられていた白い土壁は剥がれ、土気色の壁が見えてしまっています。


 子供の時分には入ってはいけないと咎められていましたが、もう大人になったことだしいいだろうと、蔵の掃除を条件に両親の了解のもとに蔵へと入る許可を得たのです。


 先も言った通り、私は好奇心の塊のようなところがありますから、この時ばかりは心が踊って仕方がありませんでした。


 その箱を見つけたのは、ほんの偶然のことでありました。


 五月人形や兜飾りなど、節句に出す飾り人形などが蔵の中にしわまれておりますが、その箱を見つけたのは、桐の箪笥をハタキで叩いている時でした。


 恐らくは祖母か曽祖母が結婚祝いに持参したものであろう。何とはなしに思いながらハタキを振るっていると、箪笥の上からコトリと何かが落ちてきたのです。


 私は拾い上げてみると、それは小さな桐の箱でした。埃にまみれた表面を拭き取ると、綺麗な白肌をした木目が見えてきました。


 箱の蓋をとってみると、中には布に包まれた何かが入っておりました。私が箱を箪笥の淵に置いて、箱より取り出した布を手に取り開いてみます。


 布に包まれていたものは、黒く光沢のある鍵でした。そして、私は脳裏に幼い頃の記憶と焼けるような好奇心を思い出しました。


 もしかすれば、この鍵は守護人を打ち破るためのものではないか。

 そう思い立てば居ても立っても要られません。こんなカビ臭い蔵から飛び出して、一刻も早く確かめなければと突き動かされます。私は悦び勇んで蔵を飛び出し、家の中に入って行きました。


 箱のある部屋は玄関から入ってすぐのところにあります。六畳一間の大変質素な部屋であります。


 箱の他に竹林の墨絵が描かれた屏風が壁にかけられ、母の活けた菊の花が唯一部屋に彩りを加えています。


 しかし、私の興味は今や生け花や掛け軸などに向けられてはおりませんでした。部屋の中央部にポツネンと置かれた箱、それ一点のみに私の注意は向いておりました。


 私は一目散に向かい、汗とともに握っていた鍵を差し込みます。


 興奮から私の手は震えておりましたが、どうにか鍵は錠前の口に差し込まれました。


 くるりと鍵を回せば、錠前から小気味いい音が聞こえてきます。恐る恐る錠前を下げれば、錠が外れついに箱の封が解かれました。


 私の心臓は鼓動を早め、早鐘を打ちます。


 餌を前にした犬の心情と言いましょうか。とにかく我慢のならない私はすぐに箱を開けて中身を確かめたくて仕方がありませんでした。


 そして、その衝動は私を突き動かし、ついにはこの上蓋へと手をかけました。


 ずっと閉められていたせいでしょうか。上蓋を持ち上げるとうっすらと埃が落ちてきます。


 しかし、それぐらいでは私の衝動は抑えきれません。手早に上蓋を箱の横に置くと、いよいよ満を辞して箱の深淵を覗きました。


 しかし、私の膨れ上がった期待とは裏腹に、箱の中には私の思ったようなものは入っておりませんでした。金銀財宝の類を求めていたわけではありませんでしたが、それでも私の脳に走る動揺は治りませんでした。


 箱の中は四方と下部を赤い布で覆われており、その布に囲われるようにそれは置いてありました。


 それは何枚もの紙束でした。黒い留め紐で束ねられたそれらには、何やら文字が書かれておりました。


 私はそれに手を伸ばして箱の中から取り出し、紙に走る文字に目を通すことにいたしました。


 さて。そこに書かれていたものは非常に言葉に言い表しにくいものでありました。しかし、どうにも私は妙な居心地の悪さを感じたのです。


 その文章はまるで自分のことを言っているようで、私の全ての行動が書かれているようでした。


 私だけではありません。母や父、祖父母の名前までもが書かれており、また私が生まれてからこれまでの有様が赤裸々に書かれていたのです。


 祖父母や両親の字とも、それに私の字とも違う文字が紙面の上には踊っています。いったい誰がこんなものを箱の中に入れたのか。それは私には分かりかねました。家族を信じるのであればこの箱を開けたことなど一度もなく、また箱の中身など知るはずはありません。


 またもしも家族の誰かが嘘を吐き、また字癖を変えて文書を綴ったとしても、観察の目ならばすぐに気がつくでしょうし、何より家族それぞれに動いている中つぶさに紙に書いていくなど到底不可能なことなのです。


 そして、この奇妙な紙束の最も奇妙たる所以は、最後の紙に書かれていたことが今まさに私のことを忠実に再現していたことでした。


 私が蔵の中で鍵を見つけて箱を開けてこの紙束に目を通している私が、紙面上に文字として踊っているのです。


 言い知れぬ恐怖が冷や汗とともに私の背筋を這っていくのを感じました。


 しかし、私の目は私の恐怖とは裏腹に文章を繰っていきます。


 私がこの紙面を読んだ先に何が待っているのか。いわばこの紙面の文字は過去ではなく、先の未来を記しているのです。しかし、最後の紙面に書かれていた文言は、


 『背後を見た私は……』


 というところで終わっているのです。恐怖と不安は一層強まります。


 私は恐る恐る背後を見ました。すると、そこには…………。


 

「・・」



 春も終わりただ蒸し暑い空気ばかりがそこらを覆っている。


 水のはった水田には百姓の男たちが牛に馬鍬(まぐわ)をつけて(しろ)をかいている。


 その横の土手から男の女房であろう。女が柄振(えぶ)りを握りしめて、代掻きによって盛り上がった泥を綺麗に均していく。


 何ともこの季節らしい光景である。しかし、僕にとってはこの蒸し暑さばかりはなんとも我慢ならなかった。


 青蛙たちによる雨乞いの合唱も、聞く耳に寄れば綺麗な音色なのだが、今の僕にとっては単に不快極まりないものに聞こえてならなかった。


 それは僕の狭量たる性分のせいなのは明らかではあるが、さらにこの狭量さに拍車をかけているものが目の前にある。


 文机の上に広げられた紙の束。格子状に枠組みされた紙には僕の字が踊っている。


 それは、僕がこれまでに(したた)めた物語の軌跡だ。恥ずかしながら物書きの真似事を道楽、もとい生業としている身でこうして原稿と睨み合っている次第だ。


 それもこれも金田編集が「『箱』という題でもって掌編を書け」などと宣ったことが僕の頭を悩ます起因となった。


 全くあの阿呆ときたら。思いつきばかりで物事が進むのだと本気で信じているのだ。振り回される立場になってみれば、いかに己が阿呆であるかを理解できるものだが、その機会は金田編集が生涯を閉ざすまで訪れることはないだろう。


 悪態ついでに長年愛用してきた万年筆を文机に放り、腕を枕に畳の上に仰向けに倒れる。


 全く困った。頭の中には文字が踊るが、それらは一つも形にならずたゆたうだけだ。進行を早めようにも気ばかりがせって、逆に手がつかなくなってしまっている。


 仕方ない。一度休憩を取ろうと、僕は立ち上がり胸のポケットよりタバコを取り出す。なんとか言う銘柄だったのだが、あいにく横文字が読めずそれはわからない。


 しかしタバコであることに変わりない。マッチをすり一本つけると口元にあてて二度三度(ふか)して紫煙を楽しむ。


 世には紙巻よりも葉巻こそが趣向品の頂点などとうそぶく輩も当然いたが、しかし趣向品の(くく)りであれば別段(こだわ)りのない僕からすれば、甚だ関係のない話ではあった。


 さてタバコついでに茶でも飲もうかと僕は立ち上がり、仕事場を後にする。


 麦茶の入った薬缶(やかん)と湯呑みを持って僕は仕事場へと戻ってくる。これでちょっとばかしの息抜きをしようじゃないかと思っていたが、しかし、僕は僕の文机に座る不可思議な人物に目を奪われた。


 不可思議と言い表したのは、その人物はどうも盗人のようではなかったからだ。


 僕の家には金目のものは一つとしてない。強いて言うのであれば僕が仕事に愛用している万年筆と文机なのだが、その人物は価値のあるそれらに目をくれずに、ただ私の書いた原稿に目を落とすばかりなのである。


 原稿を一枚一枚改め、隅々にまで目を通せば原稿を畳に落とす。


 そこで僕は感づいた。ははぁ、この人物はきっと金田編集から送られてきた新人の編集者で、僕の進捗状況を内偵しにきたに違いない。なんだ、そう言うことならば全てに合点が行く。


 僕はその内偵(なにがし)に声をかけようと一歩足を踏み出す。しかし、僕が畳をきしませたから内偵某は物音に気がついて僕の方へと顔を向けた。


 その途端、僕は息を呑み言葉を発することができなかった。


 黒の帯紐で浅葱(あさぎ)色の着物を着ている。頭は坊主刈り。年恰好だけをみれば青年のようにも見える。


 ただ、その顔には表情がない。いや、表情ではなく眉や目、口や鼻までもが喪失してただそののっぺらとした顔に『私』と書いてあるだけなのである。


 僕は驚きとともにその不出来な人間の形をした何かに、ひどく恐怖を覚えた。


 人ならざるものを見れば誰しもが恐れを抱くものだが、それを目の前にした時の恐怖たるや。猛獣の檻に裸一貫で放り込まれる道化師の心持ちとは、きっとこれに近いものなのだろう。


 効果があるように思えないが、小言において念仏を唱えてみようかと考えていた時、『私』なるものの姿が何やらゆらゆらと動き始めた。


 化生の本性が現れるかと身構えたが、しかし『私』より現れたのはなんの変哲も無い紙であった。


 皮膚が剥がれるようにはらりはらりと『私』の顔や髪、衣服までもが髪となって剥がれ落ちて行く。


 そして『私』が消えた後には、床一面に散りばめられた紙ばかりが残されるだけであった。


 未だ僕の心臓は早鐘を打ち狼狽(ろうばい)をしていたが、僕の手元に『私』の体を形作っていた紙が舞い降りてきた。


 何気なく僕はその紙に目を通すと、稲妻が僕の体を疾り抜けたかのような衝撃を受けた。紙に書いてあるのは、これまで私が原稿に書きつけてきた主人公像と全く同じものだったのだ。


 あの着物姿といい出で立ちといい。どうりでどこか見覚えがあったのだと合点が行く。


 しかし、『私』を形作っていた紙達を読み進めて行くと、不可解な点が多く見られた。


 まず僕の作り上げた『私』なる人間像は未だ完成に至っていなかったのだが、この紙達の中に潜む『私』は僕の想像よりも創り上げられていた。


 何を見て、何を食べ、何を聞き、何を感じどうしたのか。忠実に生き生きと紙の中で一人の人間として完成されていたのだ。


 しかし、この『私』を形作っていた紙たちには大いなる欠点があった。


 『私』の物語の最後。『私』という僕の書くべき物語の終わり。それがなかったのだ。


 僕は一枚一枚全てに目をとおしていたが、どうしても『私』の終わりを見つけることはできなかった。


 きっと『私』の最後を書き終える前に『私』が『私』でなくなってしまったから、終わりというものがなくなってしまったのだろう。


 まるで未来を覗き見ているかのような気分にさえ陥っていた僕だったが、ふとこれを好機と考える僕が現れた。


 そうだ。これを使えば原稿などもはや完成したも同然。なにせこの『私』は僕が作り上げたものであるのだから、『私』の残骸をどうこうしようと咎められる筋合いはない。


 僕は畳に散らばる『私』をかき集め、いよいよ原稿に囚われている『私』の続きを書く時がきた。湯飲みやタバコなどすておき、今まさに僕の物語は完成という終着駅へと出港したのだ。


 万年筆が唸りを上げて文字を生み、白の原稿に黒が綴られていく。

 終わりが見え、満足と安心、それに達成感が僕を急き立てる。


 烏の鳴き声につられて外を見てみれば、空は夕闇を孕んで紫色に色づいていた。なんと時間の経つのが早いことか。


 しかし、物語はすでに大詰め。この『私』の数奇なる運命は終幕を迎える。『私』を形成していた紙たちには出来なかった『私』の終わりを僕が紡いだのだ。


 万年筆を置き、ため息をこぼす。ようやっと全てが終わった。この「箱」に翻弄された『私』とその家族の運命をみれば、金田編集も納得してくれることだろう。


 原稿を重ね、穴あけを使って端に穴を開ける。そこに紙紐を通して一纏めにすれば、保管箱の中にしまっておこう。盗まれてはことだと、大袈裟かもしれないが錠前をかけておく。


 さてこれで全ての憂いは晴れた。あとはただこの達成感を噛み締めながら、酒を飲んで夢幻に旅立つのみである。

 しかし、僕は文机より立つことがかなわなかった。僕の肩に置かれた何者かの手に驚いたためだ。恐る恐ると私は視線を背後にやれば、そこにいたのは……。


 

「・・・」



 ぷっつりと途切れた何者かによる肉筆。その先を紡ぐものはおらず。残されたのは箱一つ。誰の目にも映るが誰の気にも捉えられない。


 これより先は何者を拒まぬ深淵なり。あとを紡ぐは、何者か。深淵を覗くは何モノか。見なければ分からぬ。何もかも。見なければ感じぬ。何事も。


 深淵とは、覗けば覗くほどに深くなり。その身が深淵に沈んでいこうとも気づかぬもの。果たして、箱の中とは、一体どこか。箱に囚われたものには、それすらも分からない。

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― 新着の感想 ―
[良い点] とても素敵な作品です。まるで幻惑のマトリョーシカ。 文章は平易で読みやすいのに、どこか格調高くも感じられます。読み終えたあと、思わず自分の後ろにも誰かいるのではないかと思ってしまいました。…
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