-98- もう一丁(いっちょう)っ!
暮らしの中で、もう一丁っ! と言う場合があるが、なにも豆腐を店で追加注文するときに使う言葉・・とは限らない。
「関取っ! もう一丁っ! お願いしますっ!」
別の部屋へ出稽古に出向いた幕下力士の言葉だが、この場合のもう一丁っ! は、もう一番、取り組みをっ! …の意である。
「… フゥ~~! もう一丁っ!」と登るのは山道だし、「ぅぅぅ…もう一丁っ!」と負けた勝負に悔し涙を流しながら訴える場合だってあるだろう。
「ははは…お前も、もう一丁前だなっ! そろそろ暖簾分けせんとな…」と、笑顔で親方に弟子が言われる光景は、恐らく料亭の板場に違いない。このように、もう一丁っ! には、様々な場面の展開を可能にする力があるのである。
遠浅の砂浜が長く続く、とある海水浴場である。
「どれどれ…もう一丁っ! 泳ぎますかな…」
ひと泳ぎしたあと、長い時間、身体をコンガリと陽に焼いていた初老の男がスッ! とチェアーから立ち上がり、もう一人の初老の男に言った。言われた男は疲れが出たのか、うだったい顔つきで立った男をチェアーに寝そべったまま見上げた。
「お元気ですな…」
「ははは…いやいや。このあとのもう一丁っ! が堪らなく美味いんですわっ!」
「ああ、冷奴をツマミに生ビールですか?」
「はいっ! なにせ、ダブル一丁っ! ですからな、ははは…」
そう言いながら元気な初老男は波が寄せる砂浜へと消え去った。
小一時間後である。
「隊長、今日はもう一丁っ! 上がりましたよ…」
水難事故を警備、監視する海難救護隊である。戻ってきた隊員が報告書を隊長に手渡しながら言った。
「そうか…」
「やめときゃいいのに…」
「んっ?」
「いや、元気よく泳がれていたんですがねっ! その後がいけません! 両足の痙攣ですわっ!」
「でっ!」
「運よく、命に別状はなかったんですが、無理はいけませんなぁ!」
もう一丁っ! は、危険が伴う場合も当然ある。^^
完




