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主神之格(しゅしんのかく)ノ章

 限界にまで開かれた巨大な大蛇(おろち)(あぎと)が、腐敗臭に似た息を吐きかけながらスサノオへと迫る。だが、大量の酒を飲み、既に酷い酩酊(めいてい)状態にあった大蛇の狙いは、目標から大きく逸れてしまう。 

 彼は動きの緩慢(かんまん)な牙をかわし、その首元へと回り込む。手にした両刃の剣を振り上げ、全身の力を使って振り下ろす。固い鱗に覆われていた太い首は、一刀の下に切り落とされた。

 胴体から離れた首は、切り口から血潮を吹きながら、しばらくのたうち回る。だが、やがてそれも静まり、生首は長い舌を垂らして事切れた。

 相手が死に絶えたのを見たスサノオは、深く息をついて緊張を解く。刃に付いていた毒々しい色の血糊を払い、腰に帯びていた鞘へと収めた。

 周囲に林立する篝火(かがりび)の明かりが、森の夜陰を昼のように照らしている。多くの木々が()ぎ倒されているそこには、八つの大蛇の首と、その巨大な(むくろ)が散在していた。

 スサノオはその光景を睥睨(へいげい)し、戦いの興奮感とその余韻に浸りながら、ただ独り悦に浸る。

 不意にその背後から、高く震える声が放たれた。

「ああ、スサノオ様、ご無事なのですか? 遂に、あの八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を討滅なされたのですね」

 彼が振り向くと、木立の合間の開けた場所に立つ、うら若い女の姿が見えた。

小作りな顔に歓喜や驚愕を満たしている彼女は、今しがた退治された大蛇に、生贄(いけにえ)として捧げられようとしていた女性だった。

 この時、彼女は山の(ふもと)に身を隠しており、本来ここにはいないはずではなかったか。

 記憶と異なる展開に、スサノオは首を傾げる。そんな相手の不審感に頓着(とんじゃく)することなく、その女性は感極まった表情で彼へと駆け寄り、(すが)り付いた。

「このような災いから私を救っていただき、本当にありがとうございます。もし、あなた様がこの土地においでにならなければ、私はこの大蛇の餌食(えじき)となる定めでした。その破滅の命運から、あなた様は私を守ってくださったのです」

 戸惑うスサノオの胸へと頭を預け、彼女は嗚咽(おえつ)混じりに感謝の言葉を紡ぐ。薄く甘美な芳香(ほうこう)と、衣服越しに伝わる温もりが、彼へひしひしと押し寄せる。

 強張っていた面持ちを、柔らかな微笑へと変え、スサノオは彼女の細い肩へと腕を回した。

 そんな彼の胸中は、先の破壊衝動の充実感とは別の、温かな充足感に占められていた。


 瞼の裏で朝日の光を感じ、尊は目を閉じたまま目覚める。

半分眠ったままの頭でそれを自覚した彼は、さっきの光景が夢であると知った。   

 あれは、彼が人間界を放浪し始めて、少し経った頃の出来事だった。

 過去に尊は、蛇の怪物に喰われようとしていた、ある女性を助けたことがあった。

彼にとってその行為は、アマテラスに追い落とされた鬱憤(うっぷん)を晴らす機会ぐらいにしか考えてはいなかった。しかし、その女性と彼女の両親は尊の行いへと対して、救い主である彼が引いてしまう程に感涙に(むせ)んでいた。

 最近ではそんな昔のことなど、すっかり忘れてしまっていた。

それなのにどうして、今になって夢になど見たのだろうか。

 そんな疑問を抱きながら、尊は大きくあくびを放つ。寝ぼけ眼を擦りつつ、彼は現在の時刻を確認するために、頭上にある置時計に手を伸ばそうとした。

そこで、自分の右腕に球状の物体が()しかかり、動きと血を止めているのに気付いた。

 昨晩のことを思い出した尊は小さく舌打ちをすると、右隣へと顔を向け、苛立った口調で呼びかけた。

「おい照子、朝だぞ。お前もさっさと起き――」

 焦点の僅かにずれている尊の視界に、彼の腕へと頬を付け、横を向いて寝ている少女の顔が大写しになる。

 長い艶やかな髪の、凛とした顔形をした、十代半ばであろう年頃の少女だった。

 まだ深い眠りにあった彼女は、むにゃむにゃと口を(うごめ)かせ、枕代わりの腕に顔を押し付けながら身じろぎする。その細身の体の上には、照子の着ていたパジャマがあった。もっとも、それらは内側から破裂したかのように千切れ、数枚の切れ端となって彼女の身に乗せられているだけだった。

 その少女を、無表情で無言のまま、尊は近距離から眺める。

彼は自由の効く左手で目頭を揉んでから、改めて横の光景を確認する。

 確かに、自分と同じベッドにいたのは、寝顔でも窺い知れるほどの美貌を(そな)えた、半裸同然となっている、高校生くらいの年齢の女子だった。

 そうした現実が頭に入るまでの間、尊は数回瞬きを繰り返す。

 次の瞬間、彼の脳髄へと電撃が走り、凄まじいショックを伴って意識が覚醒した。

「おおおおうっ!? わっ、だああああっっ!?」

 状況が分からず軽度のパニックになった尊は、謎の少女から距離を取ろうとして、反射的に反対方向へと()退()く。しかし、勢い余った彼の体はベッドの上からはみ出し、そのまま床の上へと背中から落下してしまった。

 更にその上へと、彼の寝間着を掴んでいた少女も引き摺り落とされ、ちょうど相手の眉間の位置へと頭を衝突させた。

 尊にとってこの日は、これまでの彼の長い生涯の中でも屈指の、最低最悪な目覚めでスタートした。


「いやぁ、連絡があった時はまさかと思ったけど、本当にこんなことになっているなんて、ね。ここまで早く霊力が供給されるなんて、僕も予想外だったよ。さすがは、元気いっぱいで霊力絶倫なスサノオ君だ」

 互いの額を突き合わせながら、ツクヨミは感心したように尊の肩をポンポンと叩く。褒められた尊は渋い表情を崩さず、小声で彼を問い詰めた。

「んなことは、どうでもいい。それより、あれは一体、どういうことなんだよ?」

 彼らは見合わせていた視線を、それぞれ背中側へと移動させる。部屋の壁に沿って置かれた尊のベッドには、むすっと不貞腐(ふてくさ)れた表情をした、昨日まで照子だった少女が座っていた。

 彼女は台から両足を投げ出し、前後に忙しなく揺らしながら暇を持て余している。

その白く長い足は、ベルトをきつめに締めた男性用のズボンから伸び、上にはサイズの大きい男物のTシャツを着ていた。服のない彼女には急場凌(しの)ぎとして、尊の私物が貸し与えられていた。

 つまらなそうにしていたその少女は、自分を見る尊とツクヨミの視線に気付く。

彼女は傲然とした様子で腕組みをすると、ふたつの細い眉を怒りの形へと変えた。

「ちょっとあんた達、そろそろいいかげんに説明しなさいよね! ここはどこで、あんた達は誰で、どうして私に全然記憶がないのよ!? いつまでも二人だけでグダグダ話なんてしてたら、仕舞いにはブッ飛ばすわよ!!」

 芯の強い声でそう言い放ち、彼女はプイとそっぽを向く。ツクヨミは密談相手へと顔を戻すと、驚きと笑みが半々に刻まれた顔付きとなった。

「ううん、凄まじき気迫とプレッシャー。この女王様的な要素は、正しくあの姉さんを彷彿(ほうふつ)とさせるよ。ねえ?」

「……ああ、そうだな。だが霊力が溜まったのなら、どうしてあんな姿になってるんだ? 照子の時よりか歳はくってるが、外見的にはまだ小せえままじゃねえか」

「おそらく、まだ霊力の補給が不十分なんだよ。だから見た目としての成長が、中途半端なとこで止まってしまっているんだ。その証拠に姉さんの記憶も、大部分が欠損しているままみたいだしね」

「待て、だったら俺は今度から、あいつと生活しなきゃならねえのか!? ったく、照子の時でさえ大変だったっつーのに、冗談じゃねえぞ!」

「まあまあ、そう心配せずとも大丈夫だって。君の話を聞く限り姉さんの回復が急激に進んだのは、共にお風呂に入り、それから一緒に眠ったことが原因だ。たぶん、長い間近い距離にいたために霊力が高濃度で受け渡され、しかも地肌同士で触れていた時は、それが効率良く進んだんだろうね。だったら、最短で姉さんを復活させる方法は、たったひとつ!」

「なるほど、お前が言いたいことは俺にも薄々分かった。だがそれを口にした瞬間、お前を殺す。絶対に殺す!」

「止めておけ、死ぬほど痛いぞ。僕が」

 合間合間に不要な雑談を交え、尊とツクヨミの秘密会議は、延々と続けられた。

 自分を蚊帳の外に置き、遅々として終わりの見えない会話をしている彼らに、とうとう少女の我慢は臨界点に達した。

 彼女は整った顔を怒りに歪ませ、寝台から床に飛び降りる。素足で荒々しい音を立てながら、彼女は大股で彼らの方へと迫って行った。

「私を無視して、何をこそこそしてんのよ! 早く事情を教えないと、本当に怒るわよ!」

 憤然として怒号を上げるそんな彼女の前に、いきなりツクヨミは身を(ひるがえ)して飛び出す。彼は膝を折って屈み込むと、たじろぐ少女へと(うやうや)しく頭を垂れた。

「申し訳ございませんでした、照美(てるみ)様。高天原より降りられた高貴な神であるあなた様に、如何ように事の次第をお伝えすべきか、話し合っていたのでございます。追放の憂き目を見た照美様のご心痛を、お世話役である我々の手で少しでも和らげようとの配慮ではありましたが、逆にご気分を害してしまったようで、誠に面目次第もございません」

「照美……それが、私の名前? 私が神で、追放されたって、どういうこと!?」

「はい。実は照美様は、以前はそれなりの高位にあらせられた、非常に優れた神でありました。しかし、天上界である高天原で、とある不祥事(ふしょうじ)を起こしてしまい、その咎として一切の記憶と力を奪われ、この地上界へと落とされてしまったのです。あなた様はこれから、再び高天原へとお戻りになるためにも、人間界にて善行を積んで自らの犯した罪の(けが)れを(はら)い、その身を清めるための罰を受けなければなりません」

「きっ、記憶を奪われたぁ!? とある不祥事って、私が何をしたっていうのよ!?」

「残念ですがそれは、私からはお教えする訳には参りません。あなた様が贖罪(しょくざい)をやり遂げるその日まで、それは伏せておくようにと、高天原から厳命を受けているのです。天上の神々の総意に、人間界に住まう下位の神である我らは、逆らうことが叶いません。そうした込み入った複雑な事情をお察しくださると、こちらとしてはありがたく存じます」

 (かしこ)まった態度と言葉遣いとなったツクヨミは、いけしゃあしゃあとデタラメな情報を捲し立てた。

 口から出任せで喋り続ける彼を、尊は感心しながらも呆れた眼差しで見下ろす。一方、ツクヨミの即興による解説を、少女がすんなりと聞き入れている様子に、彼は秘かに驚いていた。

「なるほどね、薄っすらとだけど自分が普通の人間じゃない感じがしていたのは、それが理由だったのね……。でも、記憶を消された上に罰を受けなきゃならないなんて、ああもう最悪!」

 ツクヨミの言葉通りに現状を解釈した少女は、自身の理不尽な不幸を嘆くように毒づき、髪の毛を苛立ち混じりに掻き乱す。

 あっさりと嘘を信じ込んでしまっている彼女を、騙している張本人であるツクヨミは、穏やかな口調で宥めた。

「心配には及びません、照美様。あなた様の身の周りのお世話や、罪を購うための手助けは、不肖ながらもこの私共が引き受けさせていただきます」

「え? ひょっとして、あんた達が、私を手伝ってくれるって言うわけ?」

 思わずそう問い返しながら、少女は不安そうに目の前の男達を見比べる。

 胡散臭そうに細められている、彼女の高慢さを宿した瞳に、尊は自然とアマテラスと最後に対面した時のことを思い起こした。

 あの時のこの女も、同じような冷たい目で、穴にぶら下がる俺を見下していた。

 じわじわと反感を芽生えさせる彼だったが、少女はそれを察するような素振りも見せなかった。彼女は力無く首を左右に振り、重苦しい溜め息を洩らしていた。

「こう言っちゃなんだけど、全然頼り甲斐がありそうには見えないわね、あんた達。本当に私のことを、ちゃんと助けてくれるっていうの?」

「誠心誠意、全力をもって補佐させていただきます。我ら、下界における一介の神に過ぎませんが、照美様のお世話を仰せつかった以上、粉骨砕身の働きをもって勤めを果たす所存です」

 平身低頭に徹していたツクヨミは、最大限の敬意を示しながら頭を下げる。

 そんな彼を冷たく見降ろしていた少女は、やがて唇の端を吊り上げ、嘲笑の形へと歪めた。

「ま、頼る相手が限られてるんじゃあ、しょうがないわよね。良いわよ、この際、あんた達でも我慢してあげる。でもその代わり、馬鹿みたいな失敗をしたり、さっきみたいに変なマネをしようとしたら、承知しないから! 特にそこのあんた、分かったわね!?」

 居丈高にそう言い放った少女は、(にわ)かに語気を強めて、突っ立っている尊を真っすぐに指差した。記憶をほぼ失っているにも関わらず、彼女は見知らぬ男達に対しても臆する気配はなく、むしろ敢えて強気の姿勢を見せていた。

 そんな彼女の傲岸不遜で高飛車で、自意識過剰な性格に、尊は否応なく姉の姿を重ね合わせてしまう。

 彼の胸中には暗澹(あんたん)たる重い感情が、黒く分厚い雲のように広がり始めていた。


 いっそのこと、真の姿へと戻るまで照子のままでいた方が、まだマシだっただろうに。

 色取り取りの衣服が無数に掛けられている壁にもたれかかり、尊はそんなことを頭の中でぼやいていた。

 最初の嫌われていた頃こそは、照子はとても扱いづらい相手ではあった。しかし、色々とあって自分に(なつ)き始めてからは、彼女は言うことをちゃんと聞くようになり、何より周囲に余計な波風を立てることもしなかった。

そういう意味では、あの時の彼女は、非常に扱いやすい存在になりつつあったのだ。

 平穏が訪れつつあった過去を懐かしんでいる彼を、女子特有の甲高い声が呼び付ける。

「尊! ちょっと、いないの尊!?」

 大声で名前を呼ばれた尊は、無視して立ち去りたい気持ちを抑え、重い足を引き摺りながら店の奥へと入る。棚の陰から現れた彼を、照子改め照美は、苛立った面持ちで出迎えた。

「尊、あんた私をほっといて、どこうろついてたのよ!? 私を残して行くとか、ちょっと有り得ないんじゃない!?」

「お前の服選びに、俺が付いてる必要はなかっただろうが。意見を求められでもしたなら別だが、お前はこっちのことなんて、まるで空気扱いだったじゃねえかよ」

 彼の即座の反論に照美は不服そうに顔を(しか)め、あくまで尊に非があるとアピールするかのように、自信有り気に胸を張っていた。腰に手を当て仁王立ちをする彼女は、先程までのラフな男装から、短い振袖の付いた和服へと装いを換えていた。

 数分前、家を後にした尊は照美を連れて、金天街にある古着屋へと直行した。サイズの合わない男服に文句を言う彼女の、当面の普段着を探すためだった。

 しかし、店を訪れて品物を目にした彼女は、「趣味が悪い」や「状態が最悪」やら、「積み方が汚い」などと様々な不満をぶちまけた。

 口を開く度に罵詈雑言が溢れ出る照美を、店のオーナーである女性は開いた口が塞がらずに、唖然として眺めていた。そうしたピリピリとした雰囲気に嫌気が差し、尊はこっそりと店先の方に逃れ、彼女の服選びが終わるのを待っていたのだった。

 そんな好き嫌いの激しい照美が選んだのは、着替える際の簡易性を度外視した、きっちりとした女性用の着物だった。

 生地の色はややおとなしめで、袖や裾には簡単な模様が縫い込まれている。腹部に巻いている揃いの帯は手軽に外せるホック式であり、どうやら現代風にアレンジされた和服らしかった。

尊としては正直認めたくはなかったが、その服装は思いの外に、彼女には似合っていた。

 衣装替えした照美を、尊は言葉もなく見回す。その視線を感じた彼女は、慌てて自分の胸元を隠し、彼へと非難の眼差しを差し向けた。

「ちょっ、嫌らしい目で見ないでよ! またさっきみたいに、私を襲おうなんて考えてるんじゃないわよね!?」

「は、なあっ!? バッ、馬鹿かてめえ、んなこと俺が思うはずねえだろが!! だから、あれは不可抗力の事故で、てめえの被害妄想だっつうの!!」

 照子から転身した後、照美はベッドから尊の上に落ちた衝撃で目を覚ましていた。

 服らしい服を身に着けず、見覚えのない男に抱きすくめられている現状を見て取った照美は、悲鳴と共に尊へと鋭い平手打ちを見舞った。彼女は直感的に、彼が自分へと暴行を働こうとしているのだと解したのだった。

 下敷きにされた上、手酷い平手まで食らい、更にここにきて変態扱いまでされた尊は、必死になって彼女の言い分を(しりぞ)ける。細い横目でじっとりと彼を見ていた照美は、鼻から小さく息を洩らす。

「じゃあいいわよ、あんたが言う通りだったってことにしておいてあげる。そうすれば、あんたも満足なんでしょ?」

「てめ、何だその実際は違うけど、仕方がないから譲歩しました的な言い方は、っ……!?」

「はいはい、もう分かったから。それじゃ、先に私は外へ出てるから、後よろしくね」

「待てよ、まだ話は終わってな――」

 尊の制止も聞かず、照美はいつの間にか履いていた下駄をカタカタと鳴らしながら、さっさと表の方へと去って行く。

話題が宙ぶらりんのままで放置された彼は、滅入った気分へと(おちい)りながら目元を押さえる。

 そんな尊へと、照美によって荒らされた洋服を整理していたオーナーは、アイラインの濃い眉の間に皺を作り、棘のある口調で詰問した。

「ねえ尊ちゃん、あの生意気な女の子、一体誰なのよ!? 朝一から店や商品にケチつけられちゃうなんて、すっごい不愉快なんですけど!?」

「後できつく言い聞かせておくから、ここは俺に免じてどうか勘弁してくれ。あいつに迷惑を掛けられているって点では、そっちも俺も同じ側なんだからよ」

「まあ、いつもお世話になってる尊ちゃんのお願いなら、許してあげないこともないんだけどね……。それはそうと、さっきあの子が襲われたとか何とか、言ってたような――」

「さて、あいつの服の料金、幾らだ?」

 手早く支払いを済ませた尊は、足早に金天街の表通りへと出る。

照美は隣の雑貨屋の店先に置かれた商品棚を、興味深そうに観察していた。

彼はその澄ました横顔を憎々しく一瞥(いちべつ)し、駆け足で彼女へと近くへと寄っていった。

「おい、勝手にうろうろするんじゃねえ。外では、俺から離れないという約束だっただろうが」

「別にいいじゃない、少しくらい。それに、子ども扱いとか、正直して欲しくないんですけど」

「記憶が全部パアになってる分、お前はガキよりも面倒なんだよ。それとも、こっちの言うことを聞かずにいて、ずっとそのままでいたいっていうのか? それなら、こっちとしては無理強いなんて一切しないんだが」

 含みのある尊の発言に、照美は反骨心を剥き出しにした目で彼を見上げる。それでも彼女は反論しようとはせず、ただ悔しそうに口を(つぐ)んでいた。

 照美へと偽りの情報を吹き込んだ際、ツクヨミは最後にこう付け加えていた。

「失礼ではありますが、照美様は罪を背負われた神としての御身(おんみ)。この人間界では決してそのご身分を明かさず、一人の人間として身をやつしていただく必要があります。また、この世界では必ず我々のどちらかをお供に付けて行動し、心苦しいながらも、こちらの指示に可能な限り従っていただかねばなりません」

「ええっ!? 私が、あんた達の命令を、全部聞かなきゃならないっていうの!?」

「照美様にも拒否権はありますが、もしそうされなかった場合、あまりよろしくない事になりかねないということは心に留め置きください。無論、この度お世話役を仰せつかった我らは、照美様の救済を第一に考えております。意味もなく理不尽なお願いなどは、するはずもございません、ね?」

 言葉尻の部分で、ツクヨミはちらりと斜め後ろの尊を見遣った。意味深な、牽制めいた彼の視線に、尊は気まり悪そうにして目を反らした。

 あらかじめ、照美に対する自分達の立ち位置を上にしつつ、なお且つ言うことを聞かせやすいように仕立てておく。その癖、彼女を良く思わない尊にもそれとなく釘を刺し、余計な暴走を封じておく。

 そんな兄の抜け目の無さと用意周到さに、隣でそれを聞いていた尊は、口も挟めずにただ舌を巻いていた。

「それよりさっきから気になってたんだけど、あんたって私に妙に強く当たってない? 私の方が偉い神様なら、そんな乱暴な話し方はないと思うんだけど」

 抵抗の意志を行動で示せない照美は、悔し紛れに尊の態度を責める。それに対して、彼はおどけるみたいにして体をくねらせながら、ヘラヘラとした軽薄な笑みを浮かべた。

「はっ、だったら俺よりお前が偉いってのを、形で見せてくれよな。今のところお前は、な~んの力も無い、ただの世間知らずで我がままなお譲ちゃんなんだからよ」

 あからさまな尊の挑発に、照美はぐぬぬと歯軋りをしながら、構えた右拳を小刻みに震わせる。それでも、彼の言葉に言い返しようのない彼女は、ただ地団太を踏むしかできなかった。

 余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)といった様子の尊から顔を背け、照美はやっつけ気味に彼へと宣言する。

「それなら、さっさとその罰とやらを終わらせて、あんたに私の本当の姿を拝ませてあげるわよ! 後で泣いて謝ったって、もう遅いんだからね!」

「お前、昔の自分のこととか、覚えてないだろ」

「うっ、うるさいわね! たぶん今の私よりも、ずーっと物凄いはずよ! そうに違いないんだから!」

 確かに能力や霊力、外見から性格に到るまで、良くも悪くも以前のアマテラスの方が遥かに凄かった。

意外と真実を言い当てている照美に、尊は意表を突かれて少し驚く。そんな相手の反応を知る由もなく、彼女は苛立たし気に腕組みをして、彼を鋭く睨んだ。

「で、結局罰っていうのは、どういうやつなの? 私はここで、何をすればいい訳?」

 実際のところ、別に照美が行わなければならないことは、一つもない。彼女に課せられているとしている罰自体、彼女の動きを抑制するための、ツクヨミの出任せだった。

 尊は少しの間考え込むと、重々しく淡々とした声色で、照美へと宣告した。

「これからお前は俺についてきて、一緒に人間達の(あきな)いの手伝いをしなければならない。当然、彼らに自分の正体を知られてはならないし、賃金などの対価を、俺を通さずに受け取ってもいけない。理解したか?」

「むぅ……私が、人間の下働きをしなきゃならないっていうの?」

「忘れてるかもしれないが、これはお前の罪を償うための罰だ。それぐらいの苦難は、覚悟してもらわないとな。それとも人間界の仕事さえ、こなす自信がないのか?」

 半笑いで問う尊に、カチンときた照美は頬を膨らませる。彼女は薄っすらと嘲笑を浮かべている尊に詰め寄り、彼の耳をつんざかんばかりの怒号を間近から上げた。

「そんなの一言も言ってないでしょ、この早とちり男! どんな仕事だって、私にかかればお茶の子さいさいよ! さっさと行ってぱっぱと片付けて、とっとと元の姿に戻ってやるんだから!」

 高らかにそう宣言した照美は(きびす)を返し、着物の袖を前後に大きく振りながら、通りを直進していく。何の根拠もないにも関わらず、その姿勢だけは底抜けの自信に満ち満ちていた。

 とんでもなく我の強く、傍若無人で負けず嫌いな彼女の性格に、早くも尊は脱力感を覚え、関わり合いにはなりたくない気持ちが加速度的に膨らんでいく。

 それでも、目的地も知らずに当てどなく盲進していく照美を放ってもおけず、彼は小走りとなって急ぎ彼女の背を追いかけた。


 照美は尊の遠い親戚の一人娘であり、思春期に有りがちな家族への反抗心から、現在は彼の下へと身を寄せてきている。

そんな現実を知らない彼女の社会勉強のため、自分の仕事を手伝わせることにした。

 また、彼女は照子とはまた別の家の子どもであり、互いに直接の面識はない。

因みに、照子は家庭の問題が一段落したため、今は親の所へと帰っている。

 尊は金天街の店々を回る度に、新顔の少女に目を点とする知り合い達へと、以上のような説明をした。

 さすがに今度は怪しまれるかと尊も危ぶんでいたが、思ったよりも彼らはすんなりとその言い分を聞き入れた。照子を気に入っていた恵実などは、彼女が帰ったことを聞いて、本当に名残惜しそうにしていた。そんな知人達の馬鹿正直なまでの純粋さに、彼は心の中でこっそりと謝礼を述べた。

 尊が懸念していた照美の紹介は、そうして無事に通過することができた。

しかし、彼女に関する真の大問題は、彼が思いもしない所に潜んでいた。

「お前、ほんっとに真面目にやってたのかよ!? まさか俺への当て付けで、わざとああいう風にしていたんじゃねえだろうな!?」

 夕方になり、照美と共に帰宅した尊は、開口一番に連れ合いへと怒号を浴びせた。

 帰り様に叩き付けられた、疑念の込められた恫喝に、

「そんなはずないでしょ、見くびらないでよね!! 私はずっと真剣に、言われた通りにやってましたあ! あれが私の全身全霊で、全力全開の本気なんだから!!」

 と、照美は真正面から彼を見返し、キッパリと断言する。

 物怖じせずにそう言い切ってみせる彼女に、尊は「それはそれで駄目だろうが」と呻きながら、(うず)くこめかみを指先で強く押さえた。

 尊はこの日、照美の働く様子を、ずっと近くで観察していた。そして、彼女が恐ろしいまでに不器用で要領が悪く、全くの役立たずである事実を発見していたのだった。

 照美も働かせて良いとする許可をもらった尊は、まず彼女にレジ打ちや配膳などをやらせてみることにした。

「楽勝よ、楽勝! ワンランク上の存在の力量ってのを、人間達に見せつけてみせるわよ!」

 内容を聞いた照美は、余裕を窺わせながら仕事に取りかかった。

 単純な計算ミスや打ち間違いを何十回と繰り返し、料理を運ぶ相手を何度も取り違えた。三度程、何もない場所でこけて、お客へとド派手に汁物をぶちまけたりなどした。

 接客業が向いていないと把握した尊は、品物の運び入れや、店内の商品の整理を頼んだ。

「さっきのは、私に合った仕事じゃなかったわね。今度は完璧にこなして、あんたをあっと言わせてやるわよ!」

 失敗にくじける素振りもなく、彼女は次の作業へと移る。

 箸より重い物を持ったことがないかのような貧弱さで、小麦粉の中袋(ちゅうぶくろ)さえ持ち上げられなかった。棚の商品の配置が分からず、整頓をする前よりも乱雑な状態にしてしまっていた。

 物を扱うのも不向きだと悟った尊は、店の掃除や皿洗いを言い付けた。

「考えてみれば、か弱い私に物を運ばせたり、慣れの要る作業をさせたりするのはおかしいんじゃない? ここはとりあえず様子見として、簡単な雑務から始めるのが順当よね」

 上手くいかなかったことにめげもせず、彼女は新たな仕事へと着手する。

 埃を無駄に巻き上げるばかりで、周囲に汚れを広げていた。半分の皿を油汚れや洗剤が残ったままで洗い上げ、残りの皿を床に落として粉々に砕いていた。

 裏方の仕事もできないと知った尊は、打つべき手段を早々に失ってしまった。

 もはや、この金天街で行っている(たぐ)いの業務は、残らず照美に試していた。

そして、その全てにおいて、彼女には不適格の判定が下されていた。

 こうした結末は、尊の予想を遥かに超えて、照美への期待を大きく下回るものだった。

「ここまで何もできねえとか、最初に大口叩き過ぎだろ、お前! 向こうの損害分を給料から補ったせいで、今日の俺の稼ぎは全部パアだ! ほんっと、どうしてくれんだよ!?」

「人間のために働いて、私の罪を償っていくのが目的なんだから、お金とかどうでもいいでしょ!? とにかく今日はその第一目標を達成したんだから、それで良いじゃない!」

「あのな、あそこで俺が働いているのは、そんなことが狙いなんかじゃ――」

 尊は激昂(げっこう)の余り、照美へと洗いざらいをぶちまけそうになる。彼は危ういところで出かかったセリフを呑み下し、代わりに倦怠感に満ちた吐息を洩らした。

 本当は自分が働く必要がないと知れば、十中八九照美は尊達から離れ、好き勝手にやり始めるに違いない。そうなると、彼女の面倒を見る手間も時間も今よりかかってしまうことになり、彼にとっては悪いこと尽くめにしかなり得なかった。

 そうした事情から真実を口に表せない尊は、「あんなの、働いた内になんかはいらねえよ」と吐き捨てる。テーブル上のシガレットケースを取って立ち上がり、彼は玄関へと足を向けた。

「えっ、ちょっと、今からまた出掛けるの?」

「外でタバコ吸うだけだ。お前はそこで、じっくり今日の反省でもしてろ」

 床に座ったまま顔を険しくする彼女を残し、尊はスニーカーを突っかけてビルの屋上へと出る。火を付けたシガレットから吸った苦い煙を、彼は頭上に広がる夕暮れの空へと吹き上げた。

 既に太陽は西の空に沈みかけ、東の端には夜が訪れようとしている。そこから一望できる雄大な景色と、摂取した大量のニコチンで、徐々に尊は落ち着きを取り戻していった。

(もや)が晴れてすっきりとした頭で、彼はこれからの善後策について考えを巡らせた。

 なるだけ早く照美に霊力を溜めさせるには、やはり今まで通りに連れて歩くのが一番だろう。だが、あそこまで手際が悪いとなると、自分の仕事の手伝いをさせるのも難しい。

 かと言って、照子の時と同じようにただ近くで待たせておくのは、彼女がそれなりの年齢の外見となっていることからして体面が悪い。アマテラスが完全復活するまで家にこもるという手段もなくはないが、それは金銭面の問題からして不可能だ。

 状況はもはや、八方塞がりに近いとしか言えなかった。

 有効な解決策が見いだせないまま、尊は手にしていたタバコを吸い切ってしまう。ちびた吸い殻を、手持ちの携帯灰皿へと押し込む。胸に溜まった煙を残らず吐き出し、彼は気持ちを瞬時に切り替えた。

 何はともあれ、照美のせいで(こうむ)った今日の損失を、今からでも取り戻さなければならない。

 尊は屋上の縁を囲う、腐食の進み切っている鉄柵へと手をかけた。

 濃厚な橙色に染められる街を見渡し、尊は肺にある気体を全て口から絞り出す。微かに顔を仰向けにして、彼は空気を両の鼻孔から吸い込み、街に漂う人間達の感情を嗅ぎ分け始めた。

 尊は神の力の一つとして、他人の喜怒哀楽などの精神状態を、嗅覚で感じ取る能力を持っていた。その範囲は条件にもよるが、半径三十キロメートル程が目安となり、特定の対象との位置関係も精確に把握することができた。

 彼はこの秘技を用いて悪意の出所を探り、そこを急襲して悪党達の金銭を奪う裏稼業を、時間が空いた時などに行っていたのだった。

 アマテラス絡みの一件以来、尊は裏の仕事を一旦取り止め、長期間この能力を使ってはいなかった。それでも彼はすぐに、街の南から(にお)ってくる、一際強い負の感情を察知した。

 相手は三人。その内二人は、酸の臭いに似た恐怖の香りを身にまとい、もう一人の方は焼け付くような憎悪の刺激臭を立ち昇らせている。どうやら、その二人連れの人間が何かしらの理由から恨みを買い、殺気を放つ相手に追われているようだった。

 あまり見返りがなさそうなその雰囲気に、尊は一瞬助けてやるべきかどうか悩む。

しかし、二人組からの謝礼金に望みを付け、彼はとりあえず駆け付けてみることにした。

 手を払って(さび)の粉を落とし、尊は塔屋の中の階段へと駆け出す。手遅れになる前にその場に到着しなければ、礼も何も手に入らない。急を要する現場の流れに、彼はそこへと急行すべく脇目も振らずに走った。

 なので、僅かに空いた家のドアの隙間から自分をじっと見詰める眼差しに、注意力の欠けた尊は最後まで気付くことはなかった。


「はあっ、はあっ……ははっ、やっと追い詰めたぁ。二人とも、覚悟はいいね? いいよねえ!?」

 呼吸を乱したまま高笑いをする小太りの青年は、短髪の下から(したた)り落ちる汗を左手で拭う。彼の右手には家庭用の万能包丁が握られており、その震える切っ先は、眼前に立つ若い男女のペアへと差し向けられていた。

 袋小路に追い込まれた茶髪にピアスの青年は、過剰な露出度のファッションをした彼女の背に隠れ、金切り声で喚き散らす。

「ななっ、な、何なんだよこいつ!? どうして俺達を、殺そうとするんだよお!?」

「お願い、お願いだから落ち着いて、文雄(ふみお)君! これには色々と複雑な事情があって、あなたを騙していたとか、そんなんじゃなくて…………誰か、誰か助けてえぇぇ!!」

 汗に濃いファンデーションが溶け始めている顔をひくつかせ、上擦った調子で相手を説得しようとしていた彼女は、突如甲高い叫び声で助けを求めた。

 しかし、河川敷沿いの用水路脇の、奥まった通路から上がる悲鳴は、誰の耳にも届かずに暗みを増した空へと消えていった。凍り付く彼女を前に、凶器を手にした青年は得意気な笑みを見せつける。

「無駄だよ、無駄さ。ここは普段から人気もないし、散歩をする人も滅多にいない。僕は君達がここういった場所に逃げるように、ずうっと機会を窺っていたんだからね」

「だっ、だから、誰なんだよてめえ!? 俺たちに、何の恨みがあるんだよお!?」

 彼女の剥き出しにされた肩越しに、ピアスの青年は大声で訴える。包丁の青年は丸々とした顔を歪ませ、相手の無知をせせら笑った。

「恨みなら、あるさ。特に、君の彼女だっていう、ルミちゃんにはねえ!!」

 青年はひび割れた絶叫を響かせ、包丁の先端で女性を示す。

街灯を照り返す刃物の反射光に、彼女は両手を掲げて、無抵抗の意志表示をする。

「どうもおかしいと思ってたんだよ! 付き合ってからも家の住所も教えてくれないし、なるだけ電話やメールもしないで欲しいとか言うし!! だからこの前、こっそり君の後をつけて行ったんだよ! そしたら、そしたら……」

 ぬるい唾を呑み込んだ彼は、血走った目を剥きながら彼女へと口角泡を飛ばした。

「君に彼氏がいるって、分かっちゃったんだよお! 僕に、大好きだとか愛してるとか言っときながら、結局自分の欲しい物を(みつ)がせていただけじゃないかあ! こっちの気持ちを、散々(もてあそ)びやがってえ!!」

「っ、うるさいわよ、このデブ!! あんたみたいに誰にも見向きされないブタ野郎に、夢を見させてやっただけでもありがたいと思いなさいよ! こっちも我慢して、あんたのつまらない話に付き合ってやってたんだから、あれ位のお礼を貰うのが当然じゃない! 私としては、もっとふんだくってやっても良かったんだから!!」

 包丁青年の剣幕に逆上した女性は、急に開き直って彼を罵倒する。

 ショックに青褪(あおざ)め、息を詰まらせていた彼は、包丁の柄を油汗の噴き出している手の平で握り締める。どす黒い朱に変色していたその顔には、狂気一歩手前の危うさが滲み出ていた。

「もういい、もうこれ以上聞きたくはない。君ら二人とも、今すぐに黙らせてやる」

 包丁青年は低い声を発しながら、フラフラと前に踏み出る。距離を詰める彼に、女性は息を呑んで身を仰け反らせた。

「わっ、私達を殺したら、家族や友達がすぐに気付くわ! そしたら、あんたもあっという間に捕まって死刑になるわよ!」

「構わないさ。どうせこれが終わったら、すぐに僕も自分で片を付けるんだから。他の人の手を、わざわざ(わずら)わせはしないさ」

 相手の脅迫にも動じることなく、彼はジリジリと彼らに近付いていく。刻々と迫る復讐者の気配に、女性の後ろにいたピアス青年は、目を固く閉ざしながら必死に助けを請う。

「おれっ、俺おれは、無関係だあ! 有り金全部やるから、見逃してくれよお!!」

「僕には要らないよ、そんな物。君の愛する彼女と運命を共にしてくれたら、僕はそれで充分なんだから」

「そうかよ、勿体ねえな。だったらその金、代わりに俺が頂戴してやるぜ」

 決壊寸前の緊張に支配されていたそこに、場違いな軽い調子の声が滑り込んでくる。

 はっと顔を上げた三人の目に、側面にそびえる打ちっ放しの壁の上に立つ、自分達よりも年下らしい男の姿が映った。

夕闇よりも黒い恰好をした彼は、河川敷の丘から下の方を覗き降ろし、怯え切っていたカップルへと勿体ぶったように話しかける。

「なあ、助けてやろうか? もちろん、タダでって訳にはいかないが」

「あっ、ああお願いだ、助けてくれえ!! お金ならあるだけ払うからさあ!!」

 突如差し伸べられた救いの手に、ピアス男はすぐさま飛び付き、涙ながらに懇願する。第三者のいきなりな登場に動揺していた女性も、ブランド物のバッグを頭上で振り回し、恫喝(どうかつ)染みた声で叫び立てた。

「誰か知らないけど、早く警察呼ぶなり人集めるなりしてよ!! こっちは頭のおかしいストーカーに殺されそうになってんのよ!!」

 彼らの身も蓋もない、感情剥き出しの嘆願を、黒づくめの男はやや白けながらも了承する。

呆然として立ち竦んでいる包丁青年を見降ろし、彼は唇の端へと微笑みを乗せた。

「じゃあ早速、何とかさせてもらうとしますか。あんたの復讐を邪魔する理由なんてこっちにはないが、ここは今日の稼ぎのためにも静かになってもら――」

「あんた、まだ金のこと気にしてんの!? まったく、どこまでみみっちい器してんのよ!?」

 颯爽と飛び降りようとしていた尊は、不意に後頭部を小突かれてバランスを崩す。

無様に転げ落ちそうになるところで、尊はどうにか踏み止まる。彼が振り向いたそこには、表情を険しくした照美が、傲然として腕組みをしていた。

「な、おまっ……!? どうして、ここに、っ……!?」

 素っ頓狂な声で驚く尊へと、彼女はふふんと得意そうに鼻で笑う。

「あんたがどっかに行こうとするのが見えたから、後をつけてきたのよ。外に行く時はいつも一緒じゃなきゃいけないってんなら、私もついて行ったって問題ないでしょ?」

「都合の良い解釈してんじゃねえよ! ついて来いなんて、一言も言ってねえだろが!」

「なんにも言わず、こっそり出てこうとした方が悪いのよ! まあ、そんなどうでもいい話はひとまず置いといて――」

 勝手に話を切り上げた照美は、用水路脇の狭い通路へと視線を向ける。事の成り行きが分からずポカンとしている包丁青年を、彼女は燃えるように苛烈な眼差しで射抜いた。

「そこにいる太っちょのあんた! 女に食い物にされてたぐらいで人殺しまでしようとするなんて、人間的な意味で頭悪過ぎでしょ!? もしかして体だけじゃなくて、脳ミソまで(たる)んでんじゃないの!?」

 初対面の和服少女に罵られ、包丁青年は一瞬呆気に取られる。それでも、すぐに彼は弛緩していた顔へと怒りを(みなぎ)らせ、凶器を彼女へと掲げながら(わめ)いた。

「ふっ、ふふふざけたこと抜かすなよお、こっちの気も知らないで!! 彼女に財布代わりにされていた僕がどれだけ傷付いたか、君なんかには分からないだろうがあ!!」

「分かる訳ないでしょ、そんなの! それを言うんだったら、あんたがそこの女に言い寄られた時に怪しく思わなかったのが、私には全っ然分からないわよ! どう見たって、あんたがタイプって雰囲気でもないでしょ!」

 彼の怒号に少しも怯むことなく、逆に照美は自身の偏見に満ちた問いを投げ返した。

 決め付けも(はなは)だしい彼女の発言は、しかし相手の弱点を的確に突いていた。

 (たけ)り狂っていた包丁青年は、それを聞いた途端、ぐっと喉を詰まらせる。一転して沈痛な面持ちとなると、彼はがっくりと項垂(うなだ)れてしまった。

「分かってたよ……。そうじゃないかって、最初から薄々分かってはいたんだよ……。でも、女の子から優しくされるなんて初めてだったから、もしかしたらもしかするかもって、信じてみたかったんだよ……」

「あんたちょっと、世の中甘く考え過ぎなんじゃないの? そんな降って湧いたみたいな幸運が、そこら辺にゴロゴロ転がってるはずがないじゃないでしょ! 現実をちゃんと見る勇気もないから、つまらない女なんかにコロッと騙されるのよ!」

 自分のことを棚に上げて、照美は相手の世間知らずさを責める。

包丁青年は充血した目で彼女を睨み返し、鼻の詰まった涙声で怒鳴った。

「る、ルミちゃんのことを、つまらない女なんて言うなよお! 目的は僕のお金だったんだろうけど、彼女は僕にとても親切にしてくれたんだぞ!!」

 裏切られてもなお女性を(かば)う彼に、照美はやれやれとばかりに頭を振る。彼女達の会話を傍観している男女二人組を、彼女は半眼に薄めた両目で流し見た。

「あんたがどう思おうと、あっちはそんなの関係ないみたいだけど? それに、その(いと)しのルミちゃんに、男を見る目がないのは確かなんじゃない? だって、本命に選んでる彼氏はいざという時に彼女を盾にして、自分だけ助かろうとするような人みたいだし」

 何気ない照美の発言に、話題に挙げられていた当の女性は、自らの背後にピアス男が隠れているのにようやく気付く。自分を守ろうともせず、むしろ相手へと押し出す形となっている彼に、彼女は憤怒の形相となってその胸ぐらを掴んだ。

「あんた、なに私を殺させようとしてんのよ!? ここはあんたが犠牲になってでも、私を助けるところでしょうが!!」

「じょ、冗談じゃねえよ!! 大体、話聞いてる限りじゃ、てめえが二股かけてたのが原因なんじゃねえか!! 責任なら俺を巻き込まずに、お前一人で取れよな!!」

「はああっ!? 職無しヒモ男のくせに、ふざけたことほざいてんじゃないわよ!! 私に食わせてもらってる身なんだから、こんな時くらい役に立ってみせなさいよ!!」

「んだと、この尻軽女が!! てめえのケツぐらい、てめえで拭きやがれ!!」

 逆ギレしたピアス男が彼女の服を掴み返し、二人は口汚く罵り合いながら喧嘩を始めた。

 羞恥心もへったくれもない、彼らの醜い乱闘を前に、包丁青年は虚脱した様子で手にしていた得物を下げる。先程まで気色ばんでいたその顔には、魂が抜けたような徒労感と、我に返った絶望感が浮かんでいた。

「はあ……どうして、こんなに僕には女運が無いんだろう……。やっと女の子の友達ができたと思ったら、いつの間にかこんなことになっちゃってるし……」

 正気に戻り、ぼそぼそと自らの不運を嘆く包丁青年を、照美は情け容赦なく一喝する。

「ああもう、ウジウジぼやいてんじゃないわよ、辛気(しんき)臭いわね!! そんなに彼女が欲しいんなら、今度こそ失敗しないように努力すればいいじゃない!!」

「むっ、無理だよそんなのお!? だって、今からどんなに頑張ったって、誰も僕なんかを相手になんかしてくれないに決まってるし……」

「今その手に持ってるやつで、あんたはもっと大それたことをしようとしてたんでしょ!? それだけの勇気と行動力があるんなら、女性の相手をするくらいどうってことないでしょうが!! いつまでも悲壮感に浸ってなんかいないで、本気のやる気を見せてみなさいよ!!」

 彼女の叱咤激励を受けた包丁青年は、一呼吸を入れてから、爪先へと落としていた視線を上げる。その表情には、憎悪の炎でも諦観の冷たさでもなく、微かな希望の輝きが宿っていた。

「そうだよな……あんなことをしようと思い立った時に比べたら、女の子と話をするのなんて本当に些細なことだよな……。ようし、えいっ!!」

 手元を見詰めながらそう(つぶや)いていた彼は、唐突に刃物を川へと向けて放り投げた。

橙色の陽光を浴びて輝きながら、包丁は宙へと弧を描き、岸から離れた水面に落下する。ぽちゃんと音を立てて広がる波紋を、青年は清々しい顔付きで眺めていた。

「これで、弱虫で臆病者だった僕とはおさらばだ。これからは、何事にも積極的で諦めない心を持った、新しい自分になっていくんだ!」

「やっと決心がついたみたいね、この甲斐性無しは。まったく、当たり前のことを覚えさせるまでに、どんだけ時間を使わせんのよ」

「ああ、ごめんよ。通りすがりの君なんかに、こんな変な迷惑なんか掛けちゃって。そのお詫びと言っちゃなんだけど、これから一緒に食事でも――」

「あ、私そういうの無理。正直あんたはちょっと、生理的に受け付けられそうにないし」

 照美は両腕を胸の前で交差させ、彼の誘いをすげなく断る。冷たくあしらわれた青年は、しかしそれ程気落ちせず、照れ臭そうに苦笑いをしていた。

「あはは、手厳しいなあ。でも、もう僕はめそめそしたり、全部を他人のせいにしたりなんかしないぞ! ようし、こうなったらまずは、この体を引き締め直さなくちゃな! 今日は家まで、ランニングで帰るぞお!」

 溢れ出る活力に瞳を(きら)めかせ、青年は飛び跳ねるかのように軽やかに、川沿いの通路を夕日目がけて駆けて行った。

一方、彼が去った用水路傍の暗がりでは、カップルが相も変わらずに取っ組み合いの乱闘を続けていた。当然、あの青年を追い払った礼金が貰えそうな、そんな雰囲気ではなかった。

 (もろ)くも目論みの崩れた尊は、愕然として棒立ちとなってしまう。

呆けた表情で立ち尽くす彼へと、照美は振り返り様に満面の笑みを突き付けた。

「どう? これであんたも、私が人間の役に立てるって、充分に分かったでしょ?」


「ねえ、ずっと黙ってないで、何か言いなさいよ! すごーいとか、恐れ入りましたーとか、僕なんか照美様の足元にも及びませーんとか、私に言うことは沢山あるじゃないの!?」

 前を行く尊に遅れまいと小走りになりながら、照美は懸命にその背へと向かって叫ぶ。

 その呼びかけに彼は無反応を貫き、黙々とビルへと続く家路を歩き続けていた。

 完全に陽が沈んだ街には、夜の闇と喧騒が訪れていた。街頭には蛍光灯やネオンの明かりが入り乱れ、街の表通りに面した歩道も多くの通行人でごった返していた。

 その忙しく行き交う人の波の間を、尊は黙然として突っ切って行く。照美は何度も人にぶつかり転びそうになりながらも、どうにか彼の姿を見失わずに追い続ける。

 数十分前の河川敷から、現在の中心街に到るまでの間、尊は一言も照美に口を利かなかった。

彼女の問いに対しても無視でしか答えず、彼はまるで相手がそこに存在しないかのように振る舞っていた。

 後ろを見もせずに足を運ぶ彼に、遂に照美の堪忍袋の緒はプツリと断ち切れた。

彼女はしかめっ面を真っ赤にして、ずんずんと人を押し退け突進する。後ろから尊の肩を掴み、強引に彼を引き止めた。

「ちょっと、いい加減にしなさいよね! 私に文句でもあるんなら、はっきりと口に出せばいいでしょ! (ひね)くれてだんまりを決め込むなんて、子どもっぽいし女々しいわよ!!」

「そうかよ、だったら遠慮なく言わせてもらうぞ!!」

 尊は体を反転し、右肩に乗った照美の手を払いのける。身を固くする彼女を正面から見据え、険のあるがなり声を真正面からぶつけた。

「どうして頼みもしねえのに俺についてきて、しかも勝手にあの騒ぎを治めちまったんだ!? おかげでこっちは、金を手に入れるせっかくの機会を、棒に振っちまったじゃねえか!!」

 道路一帯に轟き渡る尊の声に、周囲の人々は驚いて距離を取る。不審と好奇の目でそれとなく彼を見ながら、彼らは足早にそこから立ち去っていった。

 歩道の中央にぽっかりと空いた空白地帯で、照美は強い反骨心と微かな戸惑いの浮かんだ瞳で、尊を真っすぐに見返した。

「まだそんな、みみっちいこと気にしてるの!? あの人達が全員無事のまま解決できたから、それで良いじゃない!! お礼だとかお金だとか、この際どうだっていいでしょ!!」

 揺るぎない自負と自信を帯びた彼女の言葉に、尊は歪めた唇から失笑を洩らす。

「どうだっていい、どうだっていいだと!? これだから、ろくに物を知らないガキは困るんだよ! この世界で暮らしていく限り、そのお前にとってどうだっていい物が、どうやったって必要になるんだ! それこそ、お前の服や今日の食事も、それがなきゃ手に入らなかったんだぞ!!」

 今までになく怒りを顕わにする尊に、気の強い照美もさすがにたじろいでしまう。思わず彼女は一歩半ほど後ずさりをして、揺れる眼差しを彼の喉の辺りに彷徨(さまよ)わせた。

「だ、だけど、私がやらなきゃいけないのは人助けで、お金を稼ぐのなんて――」

「ああそうだな、どうだっていいよな! そうしなきゃ、お前は元に戻れないからな! だが、もしそうしたいんなら、俺に関係ない所でやれってんだよ!! まともに働けもしないくせに、こっちの邪魔ばっかりしやがって! うざったいし目障りなんだよ、そういうの!!」

 不完全な覚醒状態の照美にはほぼ記憶がなく、人間の社会ばかりか自分のこともほとんど知りはしない。

 彼女はそれが嘘とは知らないまま、元の姿に返るために、人のためになることをしようとしているだけである。

 彼女は自分の使命に一図(いちず)なだけで、尊への悪意からそうしているのではない。

 そんなことは、自分の発言の理不尽さと合わせて、尊は嫌というほどに理解していた。

 だが、そうした自覚がありながらも、彼は照美への辛辣(しんらつ)な当て付けを自制できなかった。

 あの気に入らない姉に似てきた彼女が気に障るのか、自らの仕事を軒並み妨害されたのが我慢ならないのか、もしくはその両方なのか。それは、彼自身にもはっきりとは分からない。

 しかし、あの河川敷で上手く殺人を未遂に防いだ照美の、その誇らし気な顔を見た途端、彼女に対する憎らしさやいけすかなさが膨れ上がっていったのを、彼は鮮明に覚えていた。

 自分のように力尽くではなく、高圧的な物言いだけで場を取りまとめてみせた照美。

 そんな彼女を間近で見ていた尊には、彼女の邪気のない笑顔が、なぜか自分を酷く馬鹿にしているように感じられたのだった。

 照美への感情の整理が追い付かないまま、尊は彼女への心無い中傷をありったけ吐き出す。

最後にあからさまな舌打ちを洩らし、彼は突き離すようにして言い放った。

「そんなに正論ぶりたいんなら、まずひとつでもまともに仕事をこなしてみろってんだ。そんなことさえできないんだったら、その良く動くご自慢の舌は、大事に仕舞っておけ。口先だけのご高説なんざ、こっちは聞きたくもねえんだからよ」

 俯いたまま反応のない照美に、尊は小さく鼻で笑って踵を返す。自然と行く手の開かれる人混みを進む彼に、(きし)んだ叫び声が覆い被さってきた。

「何、よ…………なによおぉぉっ!!」

 少女の調子外れな絶叫は、心なしか寂しげな響きを伴っていた。自分へと投げられた、やけに耳に付くそのひび割れた声に、尊は立ち止まることも、後ろを(かえり)みることもなかった。

 アマテラスでもある彼女を散々にやり込め、かねてからの念願を果たした尊。

 だが、そこに胸のすくような達成感はなく、彼は体の芯から迫り上がる形容しがたい不快感を、強く奥歯を噛み締めて堪えていた。


「ねえ、あの照美ちゃんって子、朝からずっと元気なさそうだけど、大丈夫なの?」

 来店していたお得意さんを見送ってきた和菓子屋の妻が、柔和な顔を心配そうに曇らせる。

 空いたカゴに饅頭を補充していた尊は、不安げな彼女の視線に釣られ、店の表へと目を移す。

通りに面したガラス戸の向こうには、木製の長椅子にぽつんと腰掛ける、小さく和風な後姿があった。

 その膝には一本の竹ぼうきが添えられているが、掃除をしようとする様子は微塵も見られない。微かに背を曲げて座ったまま、彼女は所在なさげにぼんやりと、まるでマネキンであるかのように(たたず)んでいた。

 抜け殻染みた希薄な存在感となっている照美を改めて見て、思わず尊は言葉を詰まらせる。自分を窺っている和菓子屋の妻を、彼は若干しどろもどろとなりながらはぐらかした。

「さあ、な……病気とかじゃないみてえだし、別に気にする必要はねえよ。たぶん、そろそろホームシックにでもかかってきたんじゃねえのか?」

「そうなの? それなら、いいんだけど……」

 納得したようなしないような表情で、彼女は気遣わしげに窓の外を見遣る。活力の失せた照美の背中を眺めながら、尊は自分にしか聞こえない大きさの溜め息をこっそりと零した。

 照美がむっつりと口を閉ざし、高飛車な態度を表に出さなくなってから、早くも今日で四日目となっていた。

 初日とは打って変わって物静かとなった彼女に、金天街の人々は一様に驚き、困惑した。

言い付けられた雑務を口答えもせず、文句も言わずに行う彼女の姿勢は、昨日までの暴走気味な積極性を発揮していた少女の態度とは思えなかったのだった。

 彼女の性格が180度反転してしまった理由を、尊は彼らから何度か尋ねられていた。

だが、彼はそれを適当にあしらうだけで、本当の訳を明かそうとはしなかった。

 彼が公衆の面前で照美を罵ってからというもの、彼女は人が変わったようにおとなしくなった。だが、それは決して従順になったというのではなく、感情をひたすら内に押し込めて、外へと出さなくなっていただけだった。

 彼女は尊と一緒に行動するものの、彼とは一言も会話を交わさず、顔を合わせようさえしなかった。何かの拍子に相手が接近してくると、彼女はあからさまに嫌そうな顔となり、一足跳びに距離を取っていた。

 彼のことを徹底的に無視しつつも、警戒心だけは怠らないその姿は、人間界へと降りてきた頃の照子を否応なしに連想させた。

 そんな、丸っきり昔の彼女に退行してしまった照美に、どう対処すべきか尊は迷った。

 相談をしたツクヨミからは、「とにかく、謝っておけばいい」と簡単な助言を受けていた。

だが、あれ程までに啖呵(たんか)を切った手前、こちらとしてもすんなり頭を下げることはできない。

完璧に筋は通っていないにしても、あの時の発言には、それなりの真実があると確信しているのだ。

 そうした意識のせいで引くに引けなくなっていた尊は、結局照美に謝罪もせず、彼女との歪んだ関係をそのまま放置していた。それが、何の発展も進展もなくズルズルと継続され、この日にまで長引いていたのだった。

 ここは素直に謝りを入れ、照美と和解する方が賢明な判断であると、尊は頭では理解していた。だが、そうした場合に彼女がつけ上がってしまうのは、彼としては絶対に願い下げしたい展開だった。

 微妙な感情の間で板挟みとなる尊は、作った拳で音もなく壁を突く。照美の(うなじ)から目線を引き剥がした彼は、間に合わせの笑みで和菓子屋の妻に訊いた。

「なあ、今日は契約先の小料理屋に、まとめて菓子を持って行くんだろ? この際だから、俺が全部運んでやるよ。悪いがその間、あいつを預かっといてくれ」

「え? でも、照美ちゃんの傍にいてあげなくていいの? あなたがいないと彼女、困っちゃうんじゃないの?」

「問題ねえさ。あっちとしては逆に、俺がいない方が安心するだろうしな」

 反応に戸惑う彼女に後のことを任せ、尊は店の倉庫へと足を向ける。(そむ)けられた彼の顔には、疲労の影が色濃く刻まれていた。

 四六時中ずっと近くにいながら、互いに油断なく牽制し合うような雰囲気に、尊は柄にもなく憔悴(しょうすい)し切っていた。和菓子の配達を申し出たのは、その険悪なムードから少しでも逃れるための、単なる口実に過ぎなかった。

 相手と顔を突き合わせるのを避けたがっていたのは、尊自身の方であった。


 簡素な造りの長椅子に腰を降ろしたまま、手持無沙汰となっていた照美は、重苦しい溜め息を吐く。一応その手には箒があったものの、彼女は掃除も何もする気が起こらずにいた。

 尊に怒鳴りつけられてからというもの、照美は彼とほとんど口を利かずに、無言の抵抗を続行させていた。

 しかしその一方で、彼が放った言葉の意味を、彼女は頭の隅でずっと考え続けていた。

 失われた記憶を取り戻すためにやるべきなのは、お金稼ぎなどではなく、人間達を助けることのはずである。ならば、人助けよりも金銭を優先させ、しかも補佐すべきはずの自分に悪言を放ちさえする尊が間違っているのは、誰の目から見ても明らかなはずだった。

 だが、そうやって自身の正当性を実感しながらも、彼女は喧嘩の最中も尊から食事を貰い、その代金が彼の所持金から払われているのも知っていた。

 記憶全体に深く霧がかかってしまっている照美には、人間の世界の仕組みなどは良く分からない。それでも、自分が些細な物と切って捨てていた存在が、自分を空腹から救っているのは紛れもない事実であると、彼女は否応なく思い知らされていたのだった。

 あの時、尊が突き付けてきた、「まずひとつでもまともに仕事をこなしてみろ」というセリフが、今でもはっきりと彼女の耳には残っていた。

 確かにそうすれば、人のためになりながら、同時に生きていくために必要なお金が手に入り、尊の高慢ちきな鼻を明かすこともできる。

 しかしそうは分かっていても、照美はそれが実質的に不可能であるのを、これまでに充分過ぎるくらい痛感していた。

 彼女が頑張れば頑張ろうとするほど気持ちは空回りし、かえってトラブルや迷惑事を招いてしまう。細心の注意を心掛けていても、思い通りにならない不器用な手足が、余計な問題を引き起こしてしまう。

 そんな自らの猪突猛進ぶりと運動神経のなさに、照美は薄々ながらも勘付いてはいた。

 だからこそ、彼女はジリジリとした焦燥感に駆られながらも、何ひとつ具体的な行動が起こせずに、店先の休憩スペースにぽつねんと座っていたのであった。

 あの鼻持ちならない偉ぶった態度の尊を、一体どうすれば見返せられるのだろうか。

 悄然としたまま照美は思い悩み、難しい顔をしながら頭を捻っていた。

 と、不意に彼女は誰かの視線を肌で感じ、はっとして顔を上げる。中学生らしい年頃の男子グループが、揃って足を止め、まじまじと彼女を眺めていた。照美が自分達の存在に気付くと、彼らは釘付けとなっていた目を彼女から外し、慌てて立ち去って行った。

 急ぎ足で離れていくその集団を、照美は不可解そうな面持ちで見送る。彼女はこれまでにも同じような熱い視線を、通りすがりの人々から向けられた覚えがあった。

 最初は見慣れない人物である自分を、街の人間達が警戒しているのかと照美は思っていた。

 しかし、さっきの男子達のどこか陶然となっていた顔を見る限り、彼らはこちらを煙たがっているのではなく、むしろ見惚れていたように彼女には思えてならなかった。

 なぜ自分が注目の的になっているのか疑問を抱いた彼女は、自分の服装がそうさせているのだとすぐに思い付いた。

 この形の服を着ている人間は、この辺には滅多にいない。

だから、人々は物珍しい恰好をした相手に、つい目を奪われてしまっていたのだ。

要は、自分が人目を引きやすい姿をしているのが、全ての原因だったのだ。

 解き明かされた面白味のない真実に、ややそれを気に掛けていた照美は、軽く肩透かしを食らった気分になる。気が緩み、顔を安堵に(ほころ)ばせていた彼女は、突如脳天に痺れるようなヒラメキが走り、思わずイスから跳び上がった。

 今の自分に打って付けであろう仕事のアイディアが、天啓とばかりに照美へと舞い降りた瞬間だった。


 金天街へと伸びる帰り道を、箱詰めの饅頭を料亭へと届け終えた尊は、とぼとぼとした足取りで歩いていた。行き帰りの道にはあえて時間をかけていたはずだったが、彼としてはあっという間に、店の近くへと戻ってきてしまっていた。

 それでも、体感的には短いその間に、彼は照美と話し合おうとする決心を固めていた。どうしても彼女に謝る気にはなれなかったが、このままでは何かと都合が悪いと腹を括ってのことだった。

 だが、実際に面と向かっても、照美は頑なに無視を決め込むかもしれない。もしくは、更に彼女の怒りを(あお)ってしまい、今以上に状態がこじれてしまう恐れもあった。

 しかし、照子の時にイザナミが訪れてきたように、ここで思わぬハプニングが起こる確証もない。反対に、二人の関係が修復されない内にそういった突発的な事件に直面してしまったら、取り返しのつかない事態になってしまう場合も考えられた。

 どっちにしても一筋縄には解決しそうにない苦況に、自ずと尊の歩幅は狭まり、前へと出す足の速さも遅くなっていった。

 金天街の看板が掲げられたアーケードを潜り、いよいよ尊の気分も滅入っていく。彼の胃袋には徐々に、溶けた鉛を大量に流し込まれたような、重たい違和感が走り出していた。

 鬱屈とした気持ちの強まっていく中、尊は渋面を浮かべながら、和菓子店のある角を折れる。

そこは黒山のような人だかりとなっており、広くはない路地が人混みで半分ほど埋め尽くされていた。

 一瞬、曲がる場所を誤ったかと尊は面食らう。しかし、家屋や看板などの配置を確認してみても、ここが彼の働いていた和菓子店の通りで間違いなかった。

 しかも、分厚い人の輪の中心となっていたのは、正にその店の前であった。

 自分が留守にしている間に、何か緊急事態でも発生したのだろうか。

 弱体化したアマテラスに興味を持っていた、黄泉國の住人となっている母親の意味深な微笑が、尊の脳裏をかすめていった。

 彼はポケットに入れていた両手を出し、人垣を突き壊してでも飛び込もうと身構える。

 緊張の度合いを一気に高める彼の耳に、聞き覚えのある少女の声が聞こえてきた。

「で、食べてみてどう? これでもやっぱり、古臭いお菓子は苦手って言える?」

「はい……あ、いえ、とっても美味しいです、はい……」

「でしょでしょ!! あんた、わざわざ視野を狭めるみたいなことしてたら、せっかくの人生もったいないわよ! これからは食わず嫌いなんかせず、色んなのに挑戦してみなさいよね!」

 若い男性のたじろぐ声に、得意そうに受け答えるその口調は、やはり照美のものだった。

 久しぶりに耳にするその滑らかな弁舌に、尊は彼女が無事であると知り、ほっと息を洩らす。

 いよいよ何が起こっているのか分からなくなった彼は、その群集の周りを巡って様子を窺おうとする。人による壁の合間に僅かな隙間があり、そこから微かに中の光景が覗き見えた。

 和菓子店の軒先には、照美と気弱そうな大学生風の男性達の姿があった。

顔中に元気を漲らせていた彼女は、身振りを交え、息つく暇もなく言葉を放っている。

それに対して、おずおずと頭を下げながら聞き役に徹していた三人組の手には、和菓子店の名物である黒糖饅頭と、湯気の立つ湯呑み茶碗が握られていた。

「さっ、じゃああんた達も気に入ったってことで、幾つ買っていく? 十個、二十個? それとも一人十個で、三十個?」

「え、えっと、僕達昼飯食べてきたばっかりだし、そんなにはもう入らないから……」

「ちょっと、まだ若いのにだらしないわね! 別腹のデザートぐらい、ペロリと平らげてみせなさいよ! そんなんだから、あんた達は揃いも揃ってヒョロヒョロのガリガリなんじゃないの!?」

 眉を怒らせての照美の叱咤に、男達は「参ったなぁ」と苦笑いの顔を見合わせる。

そんな彼らのやり取りに、見物人の間からは密やかな笑い声が上がっていた。

「ようやくお帰りかい、スサノオ君? 大切な姉さんをほっぽり出してどこかに行くなんて、少しあんまりなんじゃないかな?」

 不意に聞こえてきた、親し気な調子の非難に、尊は隣へと首を回す。

そこには、薄い茶褐色の紙袋を持ったツクヨミが、にやけた表情をして立っていた。

「お前もいたのか。夜鷹なお前が、日中に動き回ってるなんて珍しいな」

「今日は自然と、早起きしちゃって、ね。ついでだから玉を弾きに行ってきて、沢山稼いできた帰りなんだよ、ね」

 彼はパチンコ店の商品が詰まった樹脂性の袋を掲げて説明してから、ついついと照美を人差指で指し示した。

「それはそうと、姉さんが随分と人集めに貢献しているみたいだ、ね。もしかしてあれは、君の入れ知恵かい?」

「いや、俺が戻った時に、いつの間にかこんな感じになってたんだ。あいつ、あそこで何をやってやがるんだ?」

 この事態に尊が無関係だったことに、ツクヨミは片眉を上げ、少しばかり驚いていた。事情を把握していない彼のために、自分が見聞きしていた一部始終を語り始めた。

「僕がここに来たのは少し前なんだけど、その時にはもう結構な込み具合になっていたよ。どうやら、姉さんが通り掛かったあの人達を捕まえて、直接口頭での売り込みをしていたみたいだ、ね」

「要は、押し売りめいたことをし出したってことか? どうしてまた、そんなことを……」

「さあね、それは僕にも詳しくは。でも、彼女の言動や振る舞いを観察していたら、これがなかなかに興味深いし、色々と感心させられるんだよ、ね」

 意味深なセリフに首を傾げる尊に、ツクヨミは照美の背後を見るように促す。そこに設置されている長椅子の上には、包装された数個の黒糖饅頭と、巨大な急須が乗せられた盆があった。

「あれは今、姉さんが試食用に配っているお菓子だよ。それだけなら別に他の所と大差はないんだけど、肝心なのは彼女が熱ーいお茶を注いだ湯呑みを、同時に手渡している点なんだよ。もしあれが紙コップなら持って運ぶことができるけど、陶器の場合はそうはいかない。つまりはお茶が飲み終わるまで、それを渡された人は店から立ち去れないんだよ、ね」

 確かに照美に捕まっている男達は、飲みかけの緑茶を返す訳にもいかずに、湯呑みを吹いて冷ましながらちびちびと口に付けている。おそらくは無意識の内に、そういった的確な選択をしていたであろう彼女の判断力に、尊は思わず舌を巻いてしまう。

「でもそれだけなら、特に目立って新しい手法な訳じゃないし、どこでも普通にやってるテクニックの一つだ。ここで一番のミソとなるのは、何を隠そう姉さんの存在なんだよ、ね」

 ツクヨミはまるで指揮をするみたいに、空いた手の指を宙で振りながら、滔々(とうとう)と解説を行う。

「一見お(しと)やかそうな和装の美少女が、その外見からは想像もつかない勝気さを垣間見せながら、押しの強い話術で商品を勧める。しかし相手は和菓子を好まない若者だから、話は遅々として進まず長引いてしまう。それを聞き付けた物見高い通行人達が何事かと興味を引かれて集まり、更にまたそれを見た他の人々も立ち寄る。つまり姉さんは、たった数人の客と話をするだけの手軽な方法で、大勢の人間を集客するという秀逸な結果を導き出しているんだよ、ね」

 尊がその簡潔な説明を聞き終えた直後、足を停められていた男達が遂に根負けした。

 彼らは肩を落としながらも、どこか満更でもなさそうな顔付きで、店内へと入って行く。

満面の笑みで三人組を誘導していた照美は、今度は群衆の方へと目を向けた。

「ほら、あんた達もそんなとこで突っ立ってないで、店に寄っていきなさいよね! 早く買わないと、あの人達が全部買い占めちゃうかもしれないわよ!」

 威勢の良く声をかける彼女に、観衆のほとんどは照れ笑いや気まり悪そうな表情となって散らばっていく。それでも数名はその案内に従い、ぞろぞろと店の中に足を踏み入れていった。

 店先に形成される短い行列の脇で、その仕掛け人である照美は満足そうに頷く。そこで彼女はようやく、路地の反対側に並んで立つ尊とツクヨミに気が付いた。

 思わぬ観客にびっくりとした照美は、唇を噛んで気まずそうに目を伏せる。それでも、彼女はすぐに気を取り直すと、下駄の底を高らかに響かせて二人へと突進した。

追突する一歩手前で足を止めた彼女は、挑発的な目付きでぐっと尊を見上げた。

「どう? 私の鮮やかな働きっぷり、ちゃんと目に焼き付けてたでしょうね? これでもうあんたには、好き勝手に偉そうなことなんか言わせないんだから!」

「鮮やかな働きっぷりというか……。そもそもこれ、和菓子屋の許可もらってやってるのかよ?」

「ん? あ、まあ、お菓子とお茶をちょうだいとは言ったけど、はっきりそう伝えた訳じゃないけど……。でっ、でも、店に客をいっぱい来たから、それで万事問題ないというか……」

 さっきまで滞りなく喋っていたはずの照美は、急に歯切れを悪くして言い淀む。

 どうやら彼女は店側に計画を伝えずに、独断専行でこの宣伝活動を行っていたらしいと尊は察した。

 前と少しも変わってはいない、照美の独り善がりな言動に、尊はやれやれと嘆息する。

 唇を尖らせ気まずそうな面持ちとなる彼女へと、彼は腕を組んで冷たく言い放った。

「指示も受けてないのに、アルバイトでさえないお前が勝手なマネをするんじゃねえ。今回はたまたま上手くいったみたいだが、下手をしたら余計な面倒事に巻き込まれるかもしれねえんだぞ。そうなった時の慰謝料とか罰金とか、お前のことだからどうせ考えてねえんだろうが」

 むすっと表情を曇らせる照美に、尊はやや言いにくそうに「だが」と付け加える。

「結果を出しているのは、まあ、事実みてえだからな。そこんところだけは、認めてやってもいいぜ。見切り発車からの既成事実っぽいのが、玉に(きず)ではあるがな」

 渋々と照美の功績を評価する尊に、照美はぽかんとして彼を見返す。やがて、表情が抜け落ちていた彼女の顔の口角が、にんまりと急角度で上がっていった。

「なあによ、褒めたいんなら素直にそう言えばいいじゃない!! まったくこれだから、負けず嫌いの天邪鬼(あまのじゃく)は困るのよね! ともかく、これからはしっかりと私も働いてみせるんだから、あんたもあまり大きい顔をしないことね!」

 尊の発言を敗北宣言と受け取った照美は、喜色満面となって彼の肩を平手で(はた)く。

 子どものようにはしゃぐ彼女に、尊はその軽い殴打を受けながら、やはり褒めるべきではなかったと早くも後悔していた。

 そんな二人の姿を、少し離れた後方で見守っていたツクヨミは、

「いやぁ、やはり姉弟って良いものです、ねぇ」

と、感慨深く、他人事のように呟いていた。


 尊と照美が、なし崩しに和解をした頃から、彼女は金天街において臨時の看板娘としての地位を獲得していった。

 彼女が店の前に陣取り、通り過ぎる人を適当に捕まえ、居丈高に話を振る。

たったそれだけで嘘のように人が集まり、売り上げが上向きになると、商店街の店々の間では徐々に評判になっていた。

 そうした評価を得ている照美の働きに、尊は非常に複雑かつ不可解な思いを抱いていた。

 彼の見ている限り、彼女は単に通行人を強引に引き止め、ほとんど喧嘩腰で商品を押し付けているに過ぎなかった。現に、そんな対応を受けた客のほとんどは彼女の言い草や態度に戸惑いを隠せず、その内数名は強い不快感を顕わにしていた。

 だが、そんな彼らもいつの間にか照美のペースに乗せられ、最後にはなぜか互いに親身な間柄となってしまっていたのだった。

 照美にあまり良くない印象を持っていた、あの古着屋のオーナーでさえ、

「あの照美ちゃんて子、なかなか見所のある娘さんじゃない。最初はなんて生意気な子って思ってたけど、ちゃんと話してみたら思いの外に面白いし、今時にしては珍しく芯のしっかりした子よね」

 と、後日働きに出ていた尊へと語っていた。

 どうして、あんなガサツで配慮の欠片もない、自意識過剰で自己中心な女が、こうも人々に容易(たやす)く受け入れられているのだろうか。

 店の外から聞こえてくる彼女の声を耳にしながら、尊はそんな疑問を頭の中で転がしていた。

思考の世界に沈んでいたそんな彼の額へと、隣にいた恵実が細い指でデコピンを放つ。

「こら、レジの前でぼーっとしない。そんな気の抜けた顔で出迎えられたら、お客さんが店に入る気にならないでしょーが」

「んぁ? ああ、悪ぃ。つい、あいつがヘマでもしてねえか、気になってな」

 店頭での宣伝を得意とする照美だったが、静かな雰囲気と常連の顧客を優先する『穂恵味』では、店長の意向で客寄せは行われないことになっていた。なので、尊がここで働く際は、彼女は違う店へと出張する決まりとなっており、現在は三件隣りの鮮魚店に出向いていた。

 恵実は店の中にまで聞こえてくる、威勢のいい照美の掛け声に耳を傾ける。

「照美ちゃん、元気に頑張ってるみたいじゃない。それにしても、彼女といい照子ちゃんといい、仕事中にずっと心配してるなんて、尊って意外と世話好きなのね」

「そんなんじゃ、ねえよ。変に勘違いするな」

「はいはい。でも照美ちゃんってば、すっかりこの商店街の人気者ね。今じゃ色んなお店からひっぱりダコだし、彼女のファンになっちゃったお客さんも、沢山いるみたいよ」

「へえ、追っかけどころか彼氏さえいない誰かとは、これでもかとばかりに大違いだな」

「カッチーン!! 踏んじゃあいけない地雷を、よくも踏みにじってくれたわねえ!!」

 尊の毒舌に目くじらを立て、彼女は半分本気で相手の首を絞めにかかる。

 狭いカウンターで二人が騒いでいると、奥の方から重夫の大きな顔が、のっそりと現れた。

「おいおい、店の中で痴話喧嘩(ちわげんか)は止めてくれ。お客さんに迷惑じゃないか」

 慌てて離れる彼らに苦笑を洩らした後、彼は視線をあらぬ方向に彷徨(さまよ)わせている自分の娘を、厨房へと呼んだ。

「明日の分の生地を仕込んでるんだが、時間に間に合うか怪しくなってきた。すまないが、少し手を貸してくれ」

「それだったら、俺がやった方が良いんじゃないか? 店番だって、俺よりかはこいつの方が適任だろ」

「いや、お客が来た時は作業を中断して、対応に出れば問題ない。その代わりお前には、他の用事を頼まれて欲しい。正規の仕事ではないんだが、それと同じくらいに重要な案件だ」

「別に構わないが……何だよ、その重要な案件って」

 その後、店主より任務を(ことづか)った尊は、清楚な仕事服から暗黒色の私服へと身なりを変え、『穂恵味』を後にした。

 途中、彼が照美の元へ立ち寄ると、彼女は先に尊の姿を見付けて駆け寄ってきた。

「やっと仕事終わったみたいね、尊。だったら早く帰って、ご飯にしましょう! 私もう、お腹ペッコペコなんだから!」

「だったら、先にお前だけ家に戻っとけ。俺はこれから、少し顔を出さなきゃいけない場所ができた」

「こんな時間に? もしかして、また私をほっぽり出して、居酒屋とかにでも行くんじゃないでしょうね?」

「そんなんじゃねえよ。半分仕事みたいな頼まれ事を、片付けに行くみたいなもんで――」

「じゃあ、私もついて行って良いわよね? その、半分だけの仕事ってのも見てみたいし」

 同行するとしつこく言い張る照美に、拒否する理由も特にない尊は、渋々それを承知する。

彼女が前掛けを鮮魚店の主に返してくるのを待ってから、彼は興味津々な照美を伴い、目的地へと足を向けた。

 賑わう金天街の大通りを逸れ、住宅街へと繋がる路地へと曲がる。更にそこを、ふとしたら見過ごしてしまいそうな細い脇道へと入る。薄暗い裏路地をしばらく進むと、『すしや』の三文字が書かれた暖簾が掛かる、古風な外見の一軒家が見えてきた。

 尊は古びた垂れ幕を潜り、建て付けの悪い表戸を横へと開く。

縦に細長い部屋の間取りに合わせ、木目の浮いた台が奥へと伸びている。その内側では、この寿司屋の主人である日向善次(ひゅうがぜんじ)が、愛用の包丁を念入りに手入れしているところだった。

「お前か。何の用だ」

 手元の砥石と、それに添わせた刃から目を離さず、彼は店へと入ってきた相手へと端的な問いを発する。愛想の微塵もない彼の対応に、尊はやれやれと薄く苦笑いを浮かべた。

「いつもながら、味も素っ気もない接客だな。そんな堅苦しい仏頂面なんか下げてたら、せっかくやってきた客もすぐ逃げ出しちまうぞ」

「お喋りをしにでも来たのなら、帰れ。こっちは忙しいんだ」

「そう言うなよな、こっちにだってちゃんとした用事はある。来週の水曜の午後五時、商店街の緊急の寄合を行うから、あんたも公民館の集会場に来てくれとの伝言だ。何でも大切な話があるらしいから、今回は絶対に参加して欲しいとも言っていたぞ」

 急用として尊が重夫から頼まれていたのは、商店街の臨時集会の通達を、『日向寿司店』の主人である善次へと直接伝えることだった。

 彼の経営する寿司屋は、金天街の始まり近くから店を構える老舗(しにせ)で、経営者である善次もまた商店街で最古参の人物だった。しかし、一番の古株である彼は根っからの昔気質な性格で、自分の職以外には全く興味を示さない男でもあった。

 なので、善次は商店街の(もよお)し物や話し合いにもほとんど顔を見せず、いつもこの隠れ家的な店で、黙々とスシを握っていた。それでも、彼は他の店主達から一目置かれており、ある意味金天街の長老的な位置に据えられていたのだった。

 そんな、影のボスのような扱いをされている善次に対し、尊は良くも悪くもある程度の親交を、これまでに築いていた。少なくとも話はできる位の関係にはあったのだが、これは金天街のメンバーの中でも、一番に彼と仲の良い部類にあった。

 そこを尊は重夫により見込まれ、善次への使者役を急遽(きゅうきょ)任命されていたのだった。

 彼からの伝言を耳にした善次は、口を閉ざしたまま答えようとはしない。白い裸電球が吊るされているだけの薄暗い室内には、包丁と砥石の擦れる音だけが規則正しく響いていた。

「なあ、返事はどうなんだ? 今度の金天街の集会に、行ってくれるのかよ?」

「そんな先のことなど、分からん」

「それじゃ、困るんだよな。必ず参加の約束を取り付けてくるように、依頼主から固く言い付けられてんだよ。ここははっきりと、次の集会には出るって言い切ってくれよ」

 執拗に答えを要求する尊だったが、彼自身は次回の集会の目的について、重夫からは一切聞かされてなかった。

 だが、彼はそもそも商店街組合の事務などに関心は皆無であり、その内容を詳しく聞き出そうという気にもならなかった。なので、善次がその臨時集会に顔を出そうが出すまいが、正直彼の知ったことではなかった。

 それでも、色好い返事をもらえればボーナスを弾むと断言された尊としては、参加への明確な意思表示を是非とも引き出しておきたかったのだった。

 期待の眼差しを向ける尊をよそに、善次は研ぎ終えた仕事道具を水で流す。清潔なタオルで丁寧に水気を取りながら、低い声で彼へと告げた。

「用がそれだけなら、とっとと帰れ。客でもないのに店をウロウロされていたら、迷惑だ」

 相手のつっけんどんな退去勧告に、やはりそうきたかと尊は肩を落とす。彼の気質を幾らか把握している彼としては、その冷淡な対応は予想の範囲内だった。

「そうかい、分かったよ。じゃあ、カッパ巻き一つ」

 尊はおもむろに善次の正面の席へと座り、店で一番安いネタを注文する。

なおも居座ろうとする彼を、善次はしかめっ面となりながら初めて直視した。刺々しい彼の眼光に、尊は小さく含み笑いを返す。

「客として残ってれば、問題ないんだろ? あんたが集会に行くと約束してくれるまで、ここで粘らせてもらうとするかな」

 一旦腰を落ち着けてしまえば、後はどうとでもして時間は引き延ばせられる。その間に、尊は間断なく善次を攻め続け、持久戦をもって集会参加の口約に持ち込む腹積もりだった。

 両者の薄められた半眼の中間に、見えない火花が激しく飛び散る。

 意地と意地とをぶつかり合わせる彼らの横で、そんな雰囲気など全く眼中に入れていない、緊張感の甚だしく欠けた声が上がった。

「それなら私は、コハダにサバ、イワシ!! それからおじいさんのオススメなのがあったら、それも全部ちょうだい!」

 場の流れを少しも考えない気儘(きまま)な発言に、尊はガクリと姿勢を崩しながら隣を見る。知らない内に照美もカウンターの席に着き、壁に掛けられた木札から、ちゃっかりと希望のネタを読み上げていた。

「おい、勝手に頼むなっ! 持ち合わせの金、そんなに余裕ねえんだぞ!」

「えー。でも私、すっごい空腹だって言ったでしょ。我慢なんてできないわよ。それに、最近の私の活躍で、あんたもだいぶ(もう)かってるんでしょ? だったらそれで、トントンってことで」

 確かに、照美の働きに対する礼金はある程度貰っていたが、あくまでそれは微々たるものでしかなかった。少なくとも、値段表のない寿司屋でたらふく食べた場合に、その代金を補える程の金額ではなかった。

 自分の作戦と家計を破綻させかねない彼女の暴挙に、尊は慌てて注文を取り消させようとする。しかし彼のキャンセルを待たずして、板に乗せられた白身の握りが、既に照美の前へと置かれていた。

「コハダにイワシ、お待ち。残りのサバと九州産のマアジも、すぐに出します」

「うわあ、美味しそう!! いっただっきま~す!」

 差し出された一貫ずつのスシに、照美は目を輝かせて手を合わせる。彼女は小皿に空けたしょうゆを、表面のネタにだけ付けると、手掴みにしていた握りを一口に頬張った。

 充分に咀嚼(そしゃく)し味わっていた彼女は、突如として瞳の煌めきを一際強くさせた。

「わあ、プリップリで瑞々(みずみず)しくて、凄っごい新鮮! ご飯もちょうど良い酸味とふっくら加減で、こんなに美味しいのを食べるのなんて初めてっ!!」

「お前は、グルメロケのレポーターか何かなのか?」

 彼女の手放しの称賛に、呆れ半分となりながら尊は突っ込みを入れる。

もっとも、竹を割ったような性格の彼女は舌先三寸の誤魔化しなどを言わず、寿司を初めて食べたというのも本当であると彼は承知していた。

 大口を開けて食を進める和服姿の少女に、調理台越しに善次は何度か視線を向ける。尊と連れ立って来店した彼女を、彼はそれとなく気にはしていたようだったが、あえて質問をしようという気配はなかった。

 彼が照美についての『設定』を聞き及んでいるかどうか尊は分からず、二人の関係をどう解釈しているのかも判断がつかない。かと言って、このタイミングで彼女を紹介するのもわざとらしい気がして、彼は煮え切らない思いを胸へと押し込めていた。

 予定通りにいかない状況に、鬱々としていた尊はヤケっぱちとなり、イワシの握りひとつを横合いから掠め取る。残りのコハダを口に入れていた彼女は、素早くそれを見咎めた。

「ほあ!? ほれ、あたひの!!」

「金はこっちが出すんだ、ちょっとくらい寄越(よこ)せよな。それより爺さん、カッパ巻きまだか? 注文、俺の方が早かった覚えがあるんだが」

 尊は魚を切り分けている善次へと文句を言いながら、しょうゆをシャリの下へたっぷりと浸み込ませる。黒い水滴を垂らしている彼のスシに、照美は「うげっ」と声を漏らす。

「ちょっと、しょうゆ付け過ぎなんじゃないの? そんなんじゃ、しょっぱい味しかしないと思うんだけど」

「紫の沢山付いてる方が、味がしっかりして俺好みなんだよ。つーか、お前もこれ以上追加注文するんじゃねえぞ。後はガリを齧っとくか、あがりを飲むかでもしておけ」

「はぁ~い、了解しましたぁ~。じゃあおじいさん、それの次は赤身のをよろしく」

「全然了解してねえだろが!! だから、もう頼むなって!」

「マグロ、大トロ、一丁」

「爺さんも受けてんじゃねえよ! しかも大トロとか、クソ高ぇもん選ぶなよ!!」

 三人が騒がしく掛合いをしていると、やがて店の奥から背の低い老婆が現れた。背筋を真っすぐに伸ばし、銀の白髪の下には柔和な笑みを湛えている彼女は、善次の妻であるキヨだった。

「あら尊くん、お久しぶりねぇ。しばらくご無沙汰だったけど、元気だった?」

「おう。婆さんも相変わらず、元気してるみたいだな」

「ええ、お陰さまでね。あら、今日は可愛いお友達も、一緒なのね。もしかして、尊くんの新しいガールフレンドさんかしら?」

 照美を目に留めた彼女の一言に、お茶を口へと運んでいた尊はむせ返る。

「げぼほっ、ぶほっ……いやいや、こいつはそんなんじゃなく、遠縁の知り合いから押し付けられた、ただの厄介者で――」

「ええ、そうみたいね。この前、八百屋さん()にお買いものに行った時に、そこの奥さんから話は聞いているわ。何だか最近は、ご親戚の娘さんを預かる機会が多いみたいね、尊くん」

 さらりと言ってのけるキヨに、ようやく尊はからかわれていたことに気付く。

彼が気まり悪そうに薄く睨むと、彼女は口を骨張った手で覆い、無邪気そうに笑っていた。

 夫である善次が無骨で無愛想な偏屈者であるのに対し、その妻であるキヨは剽軽で人好きのされやすい、非常に開放的な性格の好々(こうこうや)だった。

 主人の頑固で内向的な傾向を補うように、開けっ広げで親しみやすさに満ちていた彼女は、金天街の人々とも長きに渡って幅広い交流を行ってきた。いわば、このキヨという女性は、夫の経営する寿司屋において、周囲の店との外交的な役割を果たしていたのだった。

 しかし、そんな彼女も数年前に足の手術を行ってからは、最近では外出することも稀になってきていた。なので、善次の交渉役に最適な彼女を頼りにする訳にもいかず、重夫は彼への集会への出頭要請を、次善の策として尊に(たく)していたのであった。

 そんな実状を知っていた尊は、キヨにも説得に協力してもらおうと思い付く。

 彼女へと話を切り出そうとした直前、照美の興奮した声が、彼の発言を無理矢理に(さえぎ)った。

「おばあさん、ここのお寿司、物凄く美味しいじゃない! 私が今まで食べた料理で、ダントツで一番の味よ、これ!!」

「あら、そうですか。それはどうも、ありがとうございます」

「ちょっと作ってる人は無口で愛想がないけど、出てきたお寿司は何だか優しくて柔らかい感じがするのよね。あ、食べた印象は、ってことよ、食感のことじゃなくて」

 もっともらしく語る彼女に、尊は思わず失笑を洩らすが、キヨは身を乗り出して面白そうに聞き入っていた。

 そして、何より尊が驚いたのは、あの善次でさえ照美のコメントを聞いた時に、唇の端へと微かな笑みを覗かせていたことだった。彼の笑顔らしい笑顔を目にするのは、比較的長い付き合いの尊でも、ほぼ一年振りの珍事だった。

 結局その後も、照美とキヨの会話は延々と続いた。年齢も境遇も、更には種族も違うはずの二人だったが、なぜか互いに気が合ったようだった。

 しかし会話と言っても、照美が身の周りでの出来事などを一方的に喋るだけで、キヨは黙って頷きながら、聞き役に徹しているだけだった。

 彼女の無駄話を隣で耳にしていた尊は、そろそろ本題に移らなければならないと、キュウリの巻き寿司を口に運びながら秘かに焦る。

 やがて彼は意を決し、彼女達のやり取りを強制的に中断させようとする。ところが、そこで騒がしい音を立てて表の戸が開かれ、今度は屋外から新たな妨害者が訪れた。

「ああ、聞き覚えがある声だと思ったら、やっぱり照美様でしたか。このようなしがない場末(ばすえ)でお会いするとは、奇遇ですね」

 おもねるような言葉と共に姿を見せたのは、純和風の内装には似つかわしくない白スーツを身に付けた、ツクヨミだった。思わぬ場所で意外な相手と出会った尊は、無駄に爽やかに微笑んでいる彼へと問いかける。

「なんでお前が、ここに来てんだ? まさか、ここの常連なんじゃねえよな?」

「そんなはずないよ、ね。行き付けの漫喫に行く時の近道として、ここの路地をいつも使っているのさ。そしたら今日は、このお店から照美様と良く似た話し声が聞こえてきたから、もしやと思って覗いてみたのさ」

「ツクヨミ、あんたもここのお寿司食べて行きなさいよ! 目ん玉飛び出るくらいに、激ウマなんだから!」

 予期せぬ訪問者に対し、照美は自分の左隣の席を指し示す。

 ツクヨミは最初の命令には素直に従ったが、最後の指令は頑なに拒否した。

「申し訳ないですが、それだけは勘弁願いたいです、ね。消毒も加熱処理もしていない雑菌塗れな生の魚肉を、汗と油の噴き出している他人の手で触ったご飯と一緒に口に入れるなんて、おおうええええ~~~~~~」

 実際に食してみた場面を想像した彼は、急な吐き気を催してカウンターの下へと屈み込む。

 悪意のある冗談か冷やかしにしか見えないその振る舞いに、さしものキヨも面食らい、善次に至っては瞬時に顔を険しくする。そうしている本人には決して悪気はないのだが、彼の潔癖過ぎる潔癖症を知らない人には、悪ふざけにしか見えない反応だった。

 やがて落ち着いたツクヨミは、体を元の位置へと戻し、手短に謝りを入れる。

 使い捨てのハンカチで口を押さえる彼の頭を、横にいた照美はおしぼりでパシリと叩いた。

湿ったタオルの一撃に、ツクヨミは愕然として目を見開く。彼はハンカチを持つ手をわなわなと震えさせながら、当たっていないはずの右頬を押さえた。

「は、(はた)きましたね……? 本物の姉さんにも、叩かれたことないのに!!」

「訳の分からないこと言ってないで、さっさとおじいさん達に謝りなさい! せっかく美味しい料理を作ってくれてた人に、失礼なこと言ってんじゃないわよ! あんたってそういうところ、ホントにバカっぽいわよね!」

「はうあっ、二度目は言葉の暴力っ!?」

 怒りに満ちた照美の怒声に、ツクヨミはどこか恍惚とした表情で仰け反っていた。

 そんな彼らに構うことなく、尊は日向夫妻へとツクヨミの不穏当な言動の真意について、急ぎ説明する。当初は二人共やや半信半疑な様子であったが、明らかに年下の照美へと過剰な敬語を使い、衣服全てを白で染め上げてもいる彼を見て、ようやく納得していた。

 尊は何とか誤解を解いたものの、一度流れてしまった嫌な空気のせいで、これ以上この場に留まるのは厳しくなっていた。彼としては満足な結果は得られていなかったが、ここは一度出直さざるを得なくなっていた。

 彼は渋る照美をツクヨミと合わせて外へ追いやり、自分は支払いのために残る。照美の帰りを名残り惜しそうにしていたキヨは、見送りのために一緒に表へと出て行った。

 トラブルの連続ですっかり意気消沈していた尊に、善次は藪から棒に代金は不要だと言い渡した。更には、臨時の商店街の寄合にも出ると、はっきりと彼は公言した。

「どうしたんだよ、突然そんな……。俺が言うのも何なんだが、あんたらしくもねえ」

 突然態度を(ひるがえ)した相手を、尊は固い半笑いとなって見遣る。困惑を隠せないでいる彼に、善次は「単なる気紛れだ」と鼻を鳴らした。

「だがその代わり、こっちで用が出来た時は、すぐ手伝いに来い。あの、照美とかいう娘も連れてな」

「照美も……? どうして、また?」

「あの娘と話をしている時のあいつは、いつになく楽しそうだった。近くでぺちゃくちゃ喋られるのはうるさくて(かな)わんが、あいつの話し相手になってくれれば、儂も余計なことを話しかけられんで済む。それだけだ」

 そう言うと善次は唇を真一文字に結び、話はこれで終わりだと暗に示す。調理器具を綺麗にしている彼に、尊は簡単に礼を言ってから、店を後にした。

 外にいたキヨとも別れた尊達は、細い路地を抜けて、商店街の大通りへと戻る。

 照美はゆっくりと歩く尊とツクヨミの先を行き、店仕舞いを始めている人々と次から次に挨拶を交わしている。彼女は一ヶ月足らずの内に、金天街の大半の店と顔見知りになっていた。

「どうしてここの人間達はああも、あんな照美の奴なんかを気に入っちまうんだろうな? ただの口やかましい、自分勝手なクソガキなだけだっつーのに」

「それこそ、不完全ではあるにせよ、姉さんが姉さんである由縁(ゆえん)なんだろう、ね」

 不意に漏れ出た尊の愚痴のような疑問に、ツクヨミは漠然とした答えを口にする。怪訝そうな顔付きとなる弟に、彼はその真意について語った。

「今は照美ちゃんとなっている姉さんは、ぱっと見では自由奔放に振る舞っているだけに思える。だけど、彼女は無意識に相手の挙措動作から心境や性向を読み取って、それに最も適した発言や行動を取捨選択しているんだ。だからこそ、様々な性格の人と対話をしたとしても、彼女は一様に好印象をもって迎えられているという訳さ」

「はっ、つまりは相手を上手く言い包めて、都合の良いように(たぶら)かしてるってことだろ」

「確かに、そうかもしれない。けれど、彼女が他の存在を魅了して引き付ける、一種のカリスマ的な魅力を持っているのも確かだろう、ね。そしてそれはまた、王や君主として頂点に立つ者に、必要不可欠な能力でもあるんだよ、ね」

 そうツクヨミは持ち前の意見を述べると、「じゃ、僕はこれで」と手を振り、漫画喫茶のある方角へと去っていった。

 遠ざかる白い背中を見送っていた尊は、その眼差しを照美の方へと返す。

 鮮魚店の主人と談笑していた彼女は、刺し身の大きなブロックを手渡されていた。彼女は尊へとビニール袋を掲げ、獲得した収穫物を誇らし気に見せつけていた。

 どこか鼻に付いて小憎らしくもあるが、憎み切れない清々しさも(あわ)せ持つその笑顔に、尊は緩慢に手を挙げて応える。

 裾の長い着物の下で、器用にスキップを踏んで戻ってくる照美に、

「ま、仮にそうだったとしても、俺には何の関係もないことだけどな」

 と、尊は届くはずのない消え入りそうな声量で囁きかけていた。


  用意は万端、整った。

 下準備は円滑に滞りなく終わり、第二、第三のバックアッププランにも余念はない。

 後は、陰に陽にあらゆる機会を使って事を進め、奴の足もとを土台ごと崩すだけの簡単な作業だった。

 しかし、この作戦を立案するに当たって、あいつからもたらされた情報が重要になったことは、俺としても予想外だった。

 遣わされてきたみすぼらしい身なりの使者は、その場で即座に始末した。だが、そいつが携えていた、奴に関する身辺調査の内容は、無視するには惜しい代物だった。

 無論、最初はこんな真似をするあいつの魂胆が読めず、俺を誘き寄せる罠ではないかとも勘繰(かんぐ)った。

しかし、名前の明かされていた土地へと実際に出向くと、そこに奴が住んでいるという事実が確認できた。少なくともあいつの密告には、小手先だけの嘘偽りは含まれていなかった。

 果たして、あいつが何を企んでいるのかは、今となってもようとして知れない。

 だがそれも、ここに至っては些細で微妙で瑣末な、道に突き出たほんの小さな出っ張りのような障害にしか過ぎなかった。

 正直、俺にとっては奴と同等に憎しみの対象であるあいつから、どのような形であれ助けられていると思うと、虫酸が走る。

しかし、俺の復讐の邪魔をしない限りにおいては、あいつからの援助を利用しない手はなかった。

 どうせ、加害者も被害者も内通者も傍観者も、関係者全てが同じ家系に名を連ねる者達なのだ。

 一悶着を起こすのならば、家族喧嘩は派手であればある程に、素晴らしいものになるに違いない。

                         

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