日月恍臨(にちげつこうりん)ノ章
緩く咥えていたシガレットに火を点け、胸いっぱいに吸い込んだ煙を蛍光灯の灯る天井へと吐き掛ける。ゆっくりと拡散する白い幕を浴びながら、彼は気だるそうな視線を前方へと降ろした。
「で、つまりはあれだな。いつまで経ってもこんなことばっか繰り返してるなんて、お前らはどいつもこいつも学習能力のない、ネジの緩んだ間抜け野郎ってことなんだな?」
「てめぇ、ふざけたことぬかし……はい、その通りです、すいません」
目を剥いて恫喝しかけた角刈りの男は、鋭い眼光に射竦められ、おとなしく相手の言い分を鵜呑みにする。
立てた膝を再び正座に戻す彼の周りには、同じような恰好をした強面の男達が、同じ姿勢で整然と並んでいた。
ダークグレイ系のスーツに身を包んだ彼らは、全員がフローリングの床に膝を折り、二列になって座っている。
屈強な体を悄然として委縮させている彼らの前には、黒革のソファーに腰を降ろして足を組む、二十歳前後の若者の姿があった。
衣服全てをイスに同化しそうな黒で統一している、まだ青臭さの残る顔立ちをしたその青年は、名を荒之音尊といった。
奇妙な外見をしている彼が、このマンションの一室に踏み入ったのは、ほんの十分程前のことだった。
その時ここでは暴力団構成員と闇ブローカーの間で、合成麻薬と拳銃の取引が行われていた。
当然、彼らは侵入者である尊を始末しようとした。
しかし、短刀や拳銃で武装していた彼らは、相手の徒手空拳に軒並み揃って瞬殺されていた。
体ひとつで百戦錬磨のヤクザ連中を封殺した尊は、ボコボコにやられていた彼らへと直に床へと座るよう命じた。そして、満身創痍のヤクザ達へと、彼は高い位置からの説教を始めていたのだった。
「おいそこ、こそこそ電話かけてんじゃねえ!! まだ俺が喋ってる途中だろが!!」
煙草を口から離した尊は、額へ青筋を立てて一喝する。
仲間の背に隠れてメールを打っていた細身の男が、手にしていた携帯を取り落とした。
尊は苛立たしげに舌打ちをすると、半分以上残っていた吸い殻をその男へと爪弾いた。
「話は聞かねぇし、勝手なマネはする。まったく、立派なのは見掛けだけで、頭ん中はガキのまんまじゃねぇか。もう、いっその事、小学生からやり直したほうが良いんじゃねぇか、お前!?」
辛辣に言い放たれる尊の言葉に、タバコの火が鼻先に直撃していた男は、目を血走らせ全身に殺気を漲らせる。
だが、彼は実際に行動を起こそうとはせず、皺が寄るほどに握り締めていた膝を崩すこともなかった。
血気盛んで怖いもの知らずであったはずの彼らは、この年下の青年にはどうやっても敵わないことを、ついさっき身を持って教えられていたのだった。
怒りの形相を浮かべながらも、神妙に姿勢を正している彼らに、尊はテーブルの上にあったトランクを引き寄せる。その中に詰められていた、白い粉の入ったビニール袋の一つを手に取り、見るからに嫌そうに顔を顰めた。
「金になるのか知んねぇけど、こんなクスリなんかバラまくなよな。これがいろんなとこで出回っちまうと、街が臭くなってしょうがねぇんだよ」
「てめぇ、何言って……ございますんでしょうか? こんなことして、タダで済むと……お思いになられてる訳ではございませんよね?」
表情を奇妙に引きつらせながら、チグハグな口調で喋るリーダー格の男に、尊は胡乱げに視線を向けた。
彼は口の端を微かに歪め、軽薄な笑顔を相手へと突きつけた。
「思ってるけど、それがどうした?」
スキンヘッドの頭へと血を上らせる彼を無視し、尊は百万相当の麻薬をぞんざいに箱へ戻す。
次に彼が手を伸ばしたのは、袋の隣にあった自動式拳銃だった。
尊は傷一つないメタルフレームの銃身を、トリガーガードの部分を摘み挙げながらしげしげと眺める。
「無登録のコルトの新品、か……。差し詰め、これで他の組の幹部でも、自分とこの下っ端に殺らせるつもりだったんだろうが……」
おもむろに尊はそれを上に放り投げ、薬室部分を片手で掴み取る。拳銃の中央部分を握っていた指に、強く力が加えられる。
真っすぐに伸びていたスライドがくの字に曲がり、グリップは根元からへし折れ、合金製のフレームは二つ折りに畳まれた。
無残に破壊された拳銃は、部品であるネジやバネを零しながら、尊の手より零れ落ちる。
床に散らばる幾つもの鉄屑に、ヤクザ達は呆然とした眼差しを集中させる。そんな彼らに尊は指を鳴らし、自分へと注意を引き戻した。
「ようし、こっちの用も大体済んだし、説教もこれくらいでいいだろう。最後にお前ら、財布を全部、俺に渡せ。札と五百円玉と百円、残らずいただくぜ」
「は? ええと……あちらの金は、どうするので?」
テーブルの上に乗せられていた、万札の束が大量に詰められているバッグを、前列の一番右端にいたブローカーの男が指し示す。
尊は横目でそれを見ると、軽く鼻で笑った。
「あっちは後でちゃんと処理しとくから、心配すんな。俺はああいった金じゃなく、お前らの持ち金の方を貰うのが流儀なんだよ」
「え……あっ! まっ、まさか、てめぇ、いやあなたが、あの『顔ナシ』……様なのですか?」
「んん? ああ、一部の奴らは俺のこと、そんな風に呼んでるみてぇだな」
財布を回収しながら事もなげに答える尊に、ヤクザ達の緊張感が一気に高まった。困惑と戦慄に揺れていた雰囲気に、驚愕と納得の空気が入り混じった。
『顔ナシ』。
この謎めいた呼び名は、主にこの町の裏社会で生きる者達の間で付けられた、謎の妨害者に対する通称であった。
この正体不明の人物は、ヤクザの裏取引から抗争、果ては地上げでの妨害活動の場などに頻出し、その活動を圧倒的暴力で阻害していくことで知られていた。
そして決まって毎回、叩きのめした相手の持ち金をほぼ根こそぎ奪っていくその者は、顔、声色、年齢、性別といった一切の情報を、当事者達の記憶に少しも残しはしていないという、奇怪な特徴を持っていた。
半ば都市伝説じみていながら、確かに存在するこの不可解な存在。
これに闇社会に生きる者達は、便宜上『顔ナシ』と名をつけ、恨みと嫌悪と恐怖を込めて呼んでいたのだった。
そんな出自不明の敵と多くの点で条件が合致し、更には本人であると自ら証言した尊を、ヤクザ達は食い入るように見詰める。
集めた財布を彼に手渡すリーダーのみならず、全員が眼をカッと見開き、彼の顔立ちから服装、口調から挙措動作に到るまでを、脳裏に刻み込もうと躍起になった。
鬼気迫る表情で自分を凝視する彼らに、集めた長財布から紙幣を抜き取っていた尊は、苦み走った笑みを洩らす。
「そんなに見るんじゃねえよ、暑苦しい。血の気臭え野郎共に熱い眼差しもらったって、気分悪くなるだけだろうが」
あくまで余裕を崩さない尊は、用の済んだ財布を持ち主に投げて返した。
太股の上や膝の横へと落ちる革の抜け殻に、ヤクザ達は目もくれない。
ただ一心に自分の容姿を覚えようとする彼らに、立ち上がった尊は緊張感に欠けた欠伸を見せつける。
「さあて、じゃあそろそろ、俺は退散させてもらうぜ。おっと、今日の商品とお遣いの金は、悪いが両方とも持ってくからな。壊しちまった銃の方は、そっちで片付けといてくれよな」
屈辱から歯噛みをする男達に構わず、尊は麻薬と金の収められていた二つのバッグを持ち上げる。
憎悪と復讐の念に濁った幾つもの視線に見送られながら、彼は通路奥の玄関へと足を向けた。
と、背中を曝した彼に数人が腰を上げかけた時、急に尊は素っ頓狂な声を放った。慌てて元の体勢へと戻るヤクザ達の正面に、彼は苦笑いを作りながら駆け戻る。
「危ねえ危ねえ、忘れるとこだった。もう何度もやってんのに、これだけは慣れねぇんだよな」
意味不明な独り言を口にしながら、尊は胸もとへと右手を差し込む。
不審感を顕わにするヤクザ達へと、彼は首に掛けていたペンダントを取り出した。
人差指と親指で摘み上げられたそれは、黒金の輝きを帯びた、古風な剣の形をしていた。鞘の部分には細やかな銀細工が施され、柄の中心には小さな赤い宝石が嵌め込まれている。
突如として掲げられた小さな装飾品に、ヤクザな男達は意図が分からずにたじろぐ。
呆然とする彼らに、尊はにやりと白い歯を見せ付けた。
「それじゃあ、用意はいいか? 悪くても遠慮は全くしねえから、そこんところ、よろしく」
直後、ペンダントの朱色を帯びた水晶体が、怪しく煌く。
その澄んだ赤い光は留まることなく広がり、尊とヤクザ達の全員を、マンションの一室ごと浸食していった。
第一部 日月降臨
陽もとっぷりと暮れた夜の街を、尊は数十枚の紙幣を扇に広げ、その表面を念入りに調べながら歩いていた。
彼は強奪した麻薬と札束の山を人気のない埠頭で焼却処分し、今はその帰りだった。狂気と暴力の権化は、錆びたドラム缶の中で良く燃え、鼻に着く腐臭を立ち昇らせていた。
どれも普通の紙幣であるのを確認し、彼は束にしたそれをジャケットの内ポケットに仕舞う。
最近は『顔ナシ』もそれなりに名を知られてしまったため、自分の金にボールペンなどで印を付ける輩も現れるようになっていた。後で使用者を割り出すためらしいが、よくもまあ、そんな根気のいることが出来るものだと、彼は秘かに感心していた。
上々の臨時収入を得た尊は足取りも軽く、煌びやかな街明かりの中を進んでいく。
繁華街を抜けた彼は、喧騒と猥雑さに満ちた大通りを逸れる。やや電光と人通りの乏しい道を進み、様々な商店が両脇に居並ぶ舗道へと着いた。
入口部分となるアーチ状の門の片隅には、『金天商店街』と彫り込まれた石柱が、ひっそりと立っていた。
ここは地元の人々から「金天街」と呼ばれ親しまれている、この街に古くからある商店街であった。
その通りには、食糧店から娯楽施設に到るまで多種多様な店々が軒を連ねており、休日などには多くの人々でごった返す、活気溢れる場所となっていた。
しかし、夜もとっくに更けた今はほとんどの店が営業を終え、金天商店街は正に眠りにつこうとしているところだった。
そんな中、大通り側に最も近い立地にあったパチンコ店は、煌々とした輝きとざわめきを未だに保っていた。
その前を通り過ぎようとする尊を、店先を掃除していた若い男が目に留める。けばけばしいデザインの制服を着ていた彼は、手にしたホウキを振って相手を呼び止めた。
「よお、尊じゃねぇか。どうして今日は、手伝いに来てくれなかったんだよ? おかげで俺がずっと球運びさせられて、もう腰の負担がハンパじゃねぇし」
気さくに話しかけてくるその若者は、尊と顔馴染みであったパチンコ店の店員だった。わざとらしく顔を苦痛に歪めて腰を擦る彼に、尊はすまなそうに顔の前で手刀を立てる。
「悪ぃ、どうしても外せない急用が出来てな。今回休んだ分は、次で取り返すからさ」
「ったく、絶対だぜ。で、急な用事ってなんだったんだよ? あ、もしかして、彼女が離してくれなかったからか? 『尊くん、私とお仕事どっちが大事なの~?』ってな感じで」
「俺に女がいるとか、お前に話した覚えはねぇんだが」
「いねぇ訳ねぇだろ、お前みたいなイケイケドンドンなパワフル野郎にさ。なあ白状しろよ、実はチョー綺麗なカワイコちゃんとかと付き合ってんだってさあ」
「さあ、どうだろな。会ったらお前がビックリして、痛めた腰を悪化させそうな、超絶可愛い女の知り合いならいるかもしれねぇけど」
「あ、遂に白状しやがったな!? んだよ、どんな彼女なんだよ? 今度一目会わせてくれよぉ、手は出さないって約束するからさ。な、な?」
麻薬と拳銃の密売を邪魔していたという事実は伏せたまま、尊はその軽薄な知り合いと他愛もない会話をする。
何の実もない雑談を終えた尊は、仕事中の彼に別れを告げ、タイル張りの舗道の先へと進む。
行く手にあった精肉店は、ちょうど店仕舞いの最中だった。
片付けを終えた店主の妻が、乳白色のシャッターを降ろしている。
と、彼女の顔が横に向けられ、近付いてくる尊の姿を視界に捉える。彼女の肉付きの良い顔に、瞬く間に笑みが広がっていった。
「あら尊君、いま帰るところ? 今日はどこかにお出かけだったのかしら?」
「まあ、そんなとこだ。ちょっとした野暮用があってな。おかげでさっき、昇の奴に仕事サボったのをボヤかれちまったぜ」
「たまにはあの子も、あなたに頼らずに頑張った方がいいのよ。あ、そうそう、ちょっと待って、渡したい物があるから」
彼女は恰幅の良い体を屈ませ、閉じかけのシャッターを潜って店内へと入る。すぐに戻ってきた彼女の手には、大量の自家製コロッケが詰められたビニール袋があった。
「はいこれ、今日の残り物の惣菜。残飯を処理させるみたいで悪いけど、夕飯まだなら貰ってくれる?」
「おっ、ありがとよ。ちょうど腹ペコなんだ。こういう処理係なら、喜んで引き受けるぜ」
通りがかった尊へと食糧を恵んだ彼女は、満面の笑顔で立ち去る彼を、手を振って見送っていた。
思わぬ形で今晩の食事を獲得した尊は、したり顔で袋を覗きながら帰り道を辿る。
そんな彼へと、不意に後ろから声が掛けられる。振り返ると、よれよれの寝間着を着た、中年の男性が立っていた。酒屋の主人だった。
「今日は助かったぜ、アラちゃーん。店の棚卸とか、俺と女房だけだったら午後までかかってたからよ。午前中で片付けてくれて、本当に助かったぜ」
「給料の分は働くさ。それよりそのゴミ、明日の分だろ? 夜の内から出したら、また注意されちまうんじゃねえか?」
尊は相手の両手にあった、空き缶や空き瓶で膨れたゴミ袋に目を落とす。
彼は剽軽な仕草でそれらを持ち上げ、仕方ないだろと肩を竦めてみせる。
「沢山あるから、全部運び出すのが大変なんだよ。今からやっとかないと、明日は朝からてんてこ舞いになっちまう」
「俺が朝一番にやってやるから、とりあえず戻しとけよ」
「おっ、言ったな!? ついでにそのまま、仕事の方も手伝ってくれよな!」
よたよたと危なっかしい足取りで店の中に消えて行く彼に、尊は軽い溜め息を洩らす。
彼の耳に、遠くから間伸びのする濁声が飛び込んできた。
「お~い、ミコっちゃん! 何そんなとこで、ぼやっと突っ立ってんだよぉ~!」
尊が声の方に視線を巡らせると、居酒屋の暖簾の下から見慣れた禿頭が突き出し、彼へと大仰な身振りで手招きしていた。
近くへと寄った尊に、へべれけに酔っ払っていたその中年男性は、アルコール臭い息を吐き掛けながら捲し立てた。
「んだよ、最近見ないと思ってたら、元気そうじゃねーかい、心配させやがってこのヤロウ~。どうだ、ついでだから飲んでけよ。みんなお前がいなくて、寂しがってたんだぜえ?」
赤みを増した頭皮越しに尊が店内を覗き込むと、焼き鳥の煙に燻されながら、いつもの飲み連中が酒宴に興じていた。
何度か共に飲み会をしたことのある彼らは、尊の顔を見ると驚き、そして喜んでいた。
執拗に誘いをかけてくる飲み仲間達に、尊はいかにも残念そうな顔を作る。
「いや、そうしたいところだが、これから用事があってな。急いで家に戻らなきゃいけねえんだわ」
実際はそんな予定などなく、彼には宴会に参加したい気分も少なからずあった。だが、焼いた麻薬の臭いが微かに染み付いた服で長居するのは、さすがに色々とまずかった。
「それじゃあ、これでも持ってけよ。どうせ家の方のストックは、全部尽きてんだろ?」
間口へと走ってきた開襟シャツの男性が、尊へとビール瓶を差し出した。
「おっ、いいのかよ? 勿論これ、そっちの奢りってことだよな?」
「ああ、感謝しろよ……と、言いたいとこだけど、ほんとは大将からのプレゼントさ」
「金は要らねぇから、その代わり明後日の夜は空けとけよ! 団体がくる予定になってるから、人出が必要なんだ!」
厨房で調理をしていた飲み屋の主が、顔を見せないまま大きな声で尊へと厳命する。座敷席へと料理を運んでいた彼の妻も、「お願いね、荒乃音君」と柔和な笑みで頭を下げる。
ここまでされると、尊としても断る訳にはいかなかった。
二日後の自由時間と引き換えに手に入れたビールの中瓶を片手に、尊は名残を惜しむ酔漢達を引き離して帰路へと着く。
予定外の晩酌とそのツマミを獲得した彼は、顔を綻ばせてほくそ笑む。空いた腹と乾いた喉に急かされるようにして、足早に帰宅の途を急いだ。
右手にコロッケ、左手にビールを携えながら、夜の商店街を独り突き進んで行く、黒づくめの青年。
彼こそが、商店街の様々な人々から親しまれ、闇社会の多くの人間から恐れられている、荒乃音尊その人だった。
そして、そんな彼の正体こそ、天上の破壊者であり天下の荒神、悠久から伝わる神話の世界においてその名を轟かせた、素戔嗚尊その神であった。
尊は商店街を通り抜け、街灯だけに照らされる物寂しい路地を進む。一方通行の狭い十字路を曲がると、闇の中に影を浮かべる雑居ビルが現れた。
彼は溝に埃の溜まっている階段を、軽やかに駆け上がる。塔屋から出た屋上には、雨ざらしのために風化が進んでいるタイルの床と、一軒の小屋があった。
その簡素で無骨で、味も素っ気もない外観の四角い箱が、尊の自宅だった。
この街へと流れ着いてから少しした頃、彼はこのビルの所有者である男性と懇意になった。
その男は尊が宿なしであると知ると、警護と管理の名目で、元々は多目的用の個室であった小屋を貸し出した。
もっとも、ここに居を構える事務所は皆無に近く、代理の管理人となった尊がすることもほとんどなかった。
潜り抜けたドアを後ろ手で閉め、尊は自分の家へと歩を進める。
と、彼は小屋の小さな嵌め殺しの窓から、明かりが漏れているのに目を留めた。
尊は今朝、金天街のパン屋での仕込みを手伝うため、まだ陽が昇り切らない内に出掛けていた。
家を出る時についうっかり、部屋の電気を消し忘れてしまっていたのだろうか。
曖昧な記憶に首を捻り、尊は小屋へと歩み寄る。玄関である薄いトタンのドアを引き、中へと入った。
天井の裸電球に照らされる部屋は、こぢんまりとして細長い形をしていた。
手狭な広さの室内は綺麗に整理整頓され、隅々まで掃除が行き届き、非常に清潔に保たれている。
板張りの床には塵一つ溜まっておらず、磨き上げられた表面は艶々とした輝きを帯びている。簡易な作りの台所も同様で、空拭きされたシンクは眩しいくらいの反射光を放っていた。
ゴミはきちんと可燃物と不燃物、リサイクル用に分別され、入口横に袋詰めにされて並べられている。
鏡のように磨き上げられた四脚机の台には、二つの洗濯籠が置かれていた。そこには折り目正しくたたまれた衣服が、隙間なくきっちりと収められていた。
消臭剤の臭いが濃く立ち込めた部屋の片隅には、きっちりとベッドメイキングされた尊の寝床がある。
その染み一つない純白の寝床には、幼い少女がぽつんとして座っていた。
ほっそりとして肉付きの薄い体には、赤を基調としたゴシック調の洋服が着せられている。
彼女は長い髪を背中へと流し、横座りをする体に添えてシーツへと投げ出している。まだあどけない丸みを帯びた顔には、現れた尊に対する不安と恐怖の色が、ありありと浮かんでいた。
偏執的なまでに清められた室内と、人形のような恰好をした幼気な女児。
尊は靴を脱ぎ、無言のまま部屋へと上がる。
近付いてくる彼の姿に、赤い服の少女は身を竦ませ、距離を取ろうと壁際にまで下がる。
手に持ったビールと袋を、尊はテーブルへと置く。
そして、彼は大きく息を吸い込み、身を固くしている少女へと向けて、大きな咆哮を轟かせた。
「何じゃあ、こりゃああああああああああああああ!? それから、誰だてめええええええええええええええええ!?」
この不自然さに満ちた状況に最も驚いていたのは、誰あろう家主である尊本人であった。
少なくとも彼が今日出掛けた際、ここには掃除など全くされていない、散らかり放題の雑然とした光景が広がっていた。
それが、彼の不在の間に全くの別空間へと変貌し、更には見覚えのない謎の少女まで出現していた。
これには、小一時間前に暴力的な男達を打ち倒してきた尊でも、さすがに驚愕を禁じ得なかった。
家の薄壁を揺らす程の怒鳴り声に、少女はか細い悲鳴を上げる。
息を乱して肩を揺らす彼を、彼女は小刻みに震えながら、涙の滲んだ目で窺っていた。
張り詰めた異様な緊張感が、長方形の手狭な部屋に充満していく。
やがて、尊の荒い呼吸音に、少女の啜り泣きが混じり始めた頃。
痛々しい沈黙へと、場の雰囲気に少しも似合わない、くぐもった軽い調子の声が割って入ってきた。
「やあスサノオ、やっと帰ってきたみたいだね。待っている間に君の部屋、ちょっとだけ綺麗にさせてもらったから。それにしてもあんな不潔極まる場所で、よく生活なんかできていた、ね」
声の方を振り向いた尊は、思わず小さく跳び上がった。
玄関の狭い土間には、蜂の駆除や研究施設で使われていそうな、白無垢の防護服が立っていた。
返答もせず身構える尊に、その白づくめな人型の物体は黒いカバーの付いた円柱型のヘルメットを横へと傾ける。
「おや? どうしたんだい、そんなに恐い顔をして? もしかして久しぶり過ぎて、僕を忘れちゃったかな?」
「久しぶりも何も、お前みたいな宇宙人に遭遇した覚えは、一度としてねーぞ」
親しげに話しかけてくる相手を、尊はつっけんどんな態度で突き離す。
戦闘態勢を解かない彼に、その白い人物は分の厚い手袋をパンと打ち合わせた。
「ああ、そうか。このヘルメットって、マジックミラーだったっけ。ちょっと、待っててよ」
防護服の人物は尊を制止しながら、頭に被っていた防具を持ち上げる。
そこから姿を見せたのは、端正な顔立ちをした、若い男の顔だった。
彼は、新鮮な空気を深く肺へと吸い込んだ後、呆然とする尊に涼しげな笑みを送った。
「どうだい? これでも僕に、見覚えはないかな?」
無駄に爽やかな笑顔と、耳に付く甘ったるい調子の声音。
そこでようやく相手の正体を知った尊は、身構えていた体から力を抜く。下げた手を腰へと当て、虚脱した笑いを浮かべながら彼を見遣った。
「はっ、お前か……。まあよく考えたら、俺の知っている限りでこんな風なお節介をしてくれるやつは、お前くらいなもんだよな」
「十年振りに再会した兄に、随分な言いようだなぁ。兄さん、悲しくなっちゃうじゃないか」
そう言いながら彼は、脱力している尊の前で、汗に濡れた前髪を華麗に掻き上げていた。
彼こそが尊の実の兄にして、夜の世界の支配者である神、月読命であった。
洗濯物をどけた卓袱台に、尊はビールを注いだグラスを置く。
クッションの潰れた座イスに腰掛けたまま、彼は向かいに座るツクヨミへと瓶の口を差し出した。
「お前もどうだ? あ、お前って下戸だったっけか?」
「いや、そんなことはないさ。たまには異国の麦芽酒を嗜むのも、悪くはないし、ねぇ」
白い防護服を脱ぎ捨てたツクヨミは、白染めのスーツ姿へと着替えていた。
彼は上着の懐をまさぐり、愛用の猪口を取り出す。手前に置かれたガラスのコップは、完全に無視していた。
潔癖症の彼らしい振る舞いに笑いを浮かべ、尊は兄の持つ日本酒用の杯に、黄色い炭酸水を注いだ。
そうして、久方振りに顔を合わせた兄弟は、二柱だけの飲み会を始めた。
胡坐をかいた尊は、Tシャツと半ズボンの軽装になっている。そのラフな部屋着もまた、黒々とした色味をしていた。
脚の短いテーブルを挟み、無造作な黒い服装の尊と、きっちりとした白い正装をしたツクヨミが対面している様は、ある種の芸術めいた神々しさを放っていた。
ガラスのコップと焼き物の猪口を軽く合わせ、彼らは酒に口を付ける。グラスを一気に空けた尊は、清々しい吐息を洩らした。
「ぷはぁ~、仕事終わりの一杯はたまんねぇぜ。ちょっと温めなのが、物足りないがな」
「ふぅん、そんなものなのかい? 僕はお酒を常温でしか飲まないから、良くは分からないけど」
ツクヨミは手袋を嵌めた手に持ったナイフとフォークで、皿に乗せたコロッケを丁寧に六等分していた。
当然、それらの食器類も、彼が自ら持参してきた物だった。
相も変わらず几帳面なツクヨミに、尊はコロッケに直に食い付きながら失笑する。
「全く、七面倒なことしてんなあ。そんなことやってて、肩が凝らねえのかよ?」
「こうした方が綺麗で、見苦しくないだろう? それに君こそ手掴みなんかで食べて、手が油塗れになってしまうのによく平気だね。僕には到底、信じられないなぁ」
「指先が少し、汚れるだけだろうが。拭けば済むだけの話なのによ。綺麗好きも度が過ぎると、気色悪いぞ」
遅い夕食を共にしながら、二人は棘のある言葉を互いに交わす。しかしどちらの顔にも、不機嫌や不愉快そうな表情はなく、むしろ悪戯めいた微笑さえ滲んでいた。
傍目には不仲そうなこうしたやりとりは、遥か昔から幾度も行われてきた、この兄弟における一種の戯れのようなものだった。
だが、今日のこの場には、いつもとは違う点があった。
衣のカスと食用油が付いた指をしゃぶり、尊は視線をツクヨミの後ろへと差す。そこでは、例の赤い服の少女が彼の背へと張り付き、身を隠していた。
スーツの白い生地を握り締め、彼女は恐る恐る尊の方を覗いている。彼と目が合うと、まるで野性の小動物のような素早さで、ツクヨミの陰へと引っ込んでいた。
「で、さっきからずっと気になってたんだが……そのガキ、誰だ?」
「ああ、そうだった。実は今日、君を訪ねたのも、それが理由なんだ」
「へえ……。もしかして、実はお前に子どもが出来て、叔父の俺に会わせに来たとかなのか?」
「いやいやまさかそんな、この僕が女性とチュッチュしてどうたらこうたらして、一子をもうけるなんてそんな、おうええええええ~~~~」
朗らかに尊の言葉を否定していたツクヨミは、急に口を片手で覆い、テーブルの横へと身を屈める。彼は自分が口にした場面を想像し、甚だしく気分を害してしまっていた。
低くなった目の前の壁に、少女も慌てて座り込み、身を隠す。
必死に尊の視線から逃れようとする彼女を、彼は二個目のコロッケを口に運びながら、じっと見詰めていた。
他の神や人との接触を極端に避けるツクヨミが子どもを作るはずもないと、尊は最初から分かってはいた。
一方で、この少女趣味な服装をした少女と自分の繋がりが、彼には全く思い当たる節がなかった。
彼女が纏う微かな霊気からして、恐らくはただの人間ではない。
誕生したばかりの新しい神か、それとも神霊の憑依者としての性質を持った巫女なのか。
しかしそのどちらかだったとしても、ツクヨミが彼女をわざわざ自分の所に連れてきた理由が、尊には判然としなかった。
小首を傾げる尊の前で、持ち直したツクヨミが体を起こす。
彼は純白のハンカチで口元を拭いながら、食事中の尊へと失礼を詫びた。
「いや、見苦しいところを見せてしまって、申し訳ない。でも出来るなら、僕の繊細な精神を逆撫でするみたいな発言は、極力控えてもらいたいんだけど、ね」
「ああ、悪い悪い。あんまり会ってなかったから、お前がそういうの苦手だって忘れてたわ」
非難の色をそれとなく示す彼に、尊はビールを注ぎながら素っ気なく返した。
確信犯めいた雰囲気を漂わせる彼に、ツクヨミは憤然とした鼻息を小さく吹き出す。少し苛立った様子で左の手袋を外すと、ハンカチと共に近くのゴミ袋へと放り込んだ。
注ぎ直したビールを半分程飲み下した尊は、新しい手袋を装着しているツクヨミに、再度謎の少女について質問を投げた。
彼は意外そうに片眉を吊り上げ、尊の目をぐっと覗き込む。
「あれ、本当に分からないのかい? さっき僕がゴミ出しに行っていた時に、君が彼女に怒鳴っているのが聞こえたから、とっくに正体を見破っていたんだとばかり思っていたけど」
「思わせ振りな言い方だな。変にはぐらかしてなんかいねえで、さっさと教えろよ。その貧相なガキと俺に、一体何の関係があるってんだよ?」
ツクヨミの婉曲的な発言に、気の短い尊は徐々に苛々が募っていった。
眉間の皺を深くする彼に、ツクヨミは背後の少女を横へと出す。
だだをこねる彼女を押し留めながら、彼は尊へと改めて紹介した。
「関係なら、僕も君も大有りだよ。だって、僕達の実の姉さんなんだからね」
「んだよ、そういうことか。それならそうと、早く言え│」
彼の回答に、尊はそんなことかと唇の端で笑い、コップに残っていた分を一気に空ける。一瞬の間を置き、口に含んでいたビールを盛大に宙へと吹いた。
突如として巻き上げられる毒霧に、ツクヨミは悲鳴を上げて遠くへと退避する。
赤い少女はいきなりのことに動けず、その場へと立ち竦む。
金縛り状態となる彼女へと尊は身を乗り出し、間近からまじまじと観察した。
小さな体躯からは想像も出来ないが、確かに顔のパーツ一つ一つを良く見てみると、あの女にとても似ている。更にこうして近くに寄ってみると、その少女が持つ霊気の質は、自らの姉と同一の物であると感じ取れた。
思い当たる一致点が次々と出てくる彼女の特徴に、思わず尊は呻き声を漏らした。
「はっ、え? はあああっ!? お前、マジで、あのアマテラスなのか!?」
呆然として呟く尊に、少女は答えようとはしなかった。
鬼気迫る表情で迫る彼の黒い影に、彼女は一歩も動けずに、半泣きとなって打ち震えていた。
尊の乱暴な雰囲気に怯え切り、悲鳴さえ発せないでいる、か弱く年幼い少女。
その彼女が、天上の神々が住まう高天原の主にして、八百万の神の頂点に座する総氏神。
そして、尊とツクヨミの実姉である太陽神、天照大神の今の姿だった。
『高天原』とは、人間界である『葦原中國』と別次元にある、天地開闢の時から存在していた、数多くの神が住む異次元空間のことである。
ここにいる多様な神々は、常に地上の人間の祈りや願い、行いなどを見守り、それに応じた様々な恩恵や罰を与えたりなどしている。
もっともそれも、悠久の長い時間を持て余した神達が気紛れに行っている側面もあり、相手によってある程度の差が生じる場合もあった。
そんな移り気な、しかし高次元の存在である神々の最上位に位置し、高天原の支配者として君臨するのが、太陽の権化である女神・アマテラスであった。
彼女は地上界を創造した父・伊邪那岐から高天原の全権を委任され、天上界と全ての神の上へと立った。
そうして天地万物の頂点となったアマテラスは、生まれ持った王としての資質と能力を遺憾無く発揮し、天上界・地上界の管理・運営にその辣腕を振るった。
統治における類い稀な手腕と、神としての圧倒的存在感に、他の神々は進んで彼女の前に膝を折り、恭順と忠誠の意思を示した。
こうして最上の統治者を得た天上界は、神同士による諍いや争いも滅多に起こらない、平穏で平和な世界として存在し続けてきたのだった。
そして、その第一の功労者であったアマテラスは、今は下界である人間界へと降り、街外れに建つ雑居ビルの屋上にある、みすぼらしい小屋の中にいた。
それも、神の片鱗も窺えない、年端もいかない一人の少女となって。
「いや、だがしかし……。これは、さすがに信じられないっつうか、何つうか……」
顎へと手を添えながら、尊は疑り深そうな目でベッドの上を睨む。
そこでは掛け布団の毛布に顔を埋めた少女が、僅かに覗かせた横目で彼の方を窺っていた。
背中を丸めて防御姿勢を取るその弱々しい見た目から、彼はどうしてもあの忌々しい程に泰然自若としていた、天敵である女の姿を連想できなかった。
「信じるも信じないも、あなた次第……と言いたいところだけど、そうじゃないんだよね、これが。彼女は間違いなく、あの天下無双のアマテラス姉さんなんだから」
机に肘を突きながら首を捻る尊に、ツクヨミが反響の混じった声で念押しする。
またしても防護服を着用していた彼は、消臭剤とタオルを手にしながら、床の一角を這いずり回っていた。尊が衝撃のあまり吹き散らした飛沫を、残らず拭き取っている最中だった。
目を皿にして拭き残しを探す彼に、尊は強張った笑みを向ける。
「そう言われてもなあ……。あいつのガキって方が、まだ真実味があるぞ」
「あはは、それも相当に可能性低いなぁ。でも、真実はいつも一つなんだよ、スサノオ君」
「そうかよ。だけど、なんでまた、あいつがこんなことになってんだよ? 一体上で、何が起こったってんだ?」
あらゆる物が千変万化な神の世界では、人間の世界では考えも及ばないような現象が幾つも起こる。
だが、神がその力のほとんどを喪失し、そして年齢を退行させてしまうなど、長い時間を生きてきた尊でも聞いたことさえなかった。
しかもそれが、神の中の神であるアマテラスの身に起こったとなれば、想像もつかない事態が発生していることは、彼にも容易に想像がついた。
あくまで軽い尊の口調には、しかし自然と不穏な気配が混ざり始めていた。
ようやく確認作業を終えたツクヨミは、億劫そうに腰を上げる。空気の抜ける音を立ててヘルメットを外し、「原因はここ、人間界なんだよ」とあっさり答えた。
「地上の人間達は、最近になって特に欲望や穢れが増大してきている。それが蓄積して悪しき瘴気となり、人間界だけでなく天上界にまで害を及ぼさないように、姉さんは今まで以上にその浄化に力を注ぎ込んでいたみたいなんだ」
「それで力を使い果たして、こうなったってか? でも、他の奴らも当然、手は貸してたんだろ? それがどうして、ここまでになっちまったんだよ?」
「僕達みたいな神様を熱心に信仰してくれる人って、近頃は減ってきているから、ね。だから高天原の多くの神に、ちょっとサボリ癖がついちゃっているみたいで、結果的にほとんど姉さんだけで頑張っていたみたいなんだ。ほら、姉さんって責任感が強くて、何事に対しても使命感に溢れたから」
暑苦しいあいつらしいと、尊は心の中で唾棄する。しかし何にしても、彼はその説明で大体の経緯を察した。
アマテラスはこの人間界から立ち昇る負の力を抑え込むことに、万物の支配者である天上界の主として心血を注いだのだろう。
結果、神にとって掛け替えのない力である霊力を極端に消費してしまい、自身を構成していた分まで失ってしまったに違いない。
アマテラスの奴は昔から、それこそ馬鹿が付くほどに真面目で、無用なお節介をしては恩着せがましく押し付けてくる、嫌味ったらしい女だった。
ツクヨミの話を聞いた尊は、健在であった頃の彼女と最後に会話をした時のことを、自ずと思い返していた。
「スサノオ! 貴方は自らの行いを、本当に反省しているのですか!?」
床から数段高い場所に設けられている玉座から、アマテラスが叱責を飛ばす。
薄絹の垂れ幕に覆われていて良くは見えないが、その顔は怒りに歪んでいるのだろう。
謁見の場の床へとだらしなく座っていたスサノオは、困っているであろう相手の様を思い浮かべ、隠そうともせずに嫌らしくほくそ笑む。
彼は荒縄で首を結んでいる徳利を持ち上げると、入っていた酒を直接喉に流し込んだ。
「スサノオ!! 私の話を、聞いているのですか!?」
「ああ聞こえているさ、うるせぇなあ。この不肖、素戔嗚尊は、姉上の有り難いお言葉を一字一句余すところなく、この不出来な頭と卑俗な心に刻んでおります。仮に、姉上の目に私の挙措が醜く不遜なものとお映りなられたとしても、これが私の精一杯の敬意なのであります。どうかお気を害されぬよう、平にお願い申し上げ奉ります」
形式張った面持ちを取り繕い、居住まいを正したスサノオは、玉座へと向かい深々と頭を垂れる。
しかし次の瞬間には、けたたましく耳触りな哄笑を上げ、彼は腹を抱えながら仰向けに寝転がった。
狂態を曝すスサノオに、アマテラスの殿舎に控えるお傍仕えの者達の、厳しい眼差しが集中する。だが、そうした無言の非難を少しも意に介せず、彼は床を転がりながら大笑いを続けていた。
辺り一面へと響く彼の笑い声に、アマテラスは思わず椅子から立ち上がる。辛うじて平静は保っていたが、幕に透けている彼女の影は、怒りに細かく肩を震えさせていた。
「何がそんなにおかしいのですか、スサノオ!! 貴方がこの高天原で犯してきた悪行の数々は、本来はいずれも咎を受けるべきであったものだったのです! それをこの私が、実の弟の行いであるために見逃していたという事実を、貴方は理解しているのですか!?」
「誰もそんなこと、頼んじゃいねぇだろうが!! 勝手なことやっといて、勝手なことほざいてんじゃねぇよ!!」
怒気に声を上擦らせるアマテラスに、スサノオは体を起こして怒鳴り返す。つい先程まで彼が浮かべていた下卑た笑みは、赤黒い憤怒の形相へと変貌していた。
「田んぼを稲ごと埋め立てたぁ? てめぇの神殿に牛のクソをばら撒いたぁ? 機織り場に死んだ馬を投げ込んだぁ? けっ、それがどうした!? ぬるま湯に浸っている腑抜け揃いの高天原には、こんぐらいの刺激があった方がいいんだよ!」
そう我鳴り立てたスサノオは徳利の酒を瞬く間に飲み干すと、空になった容器をアマテラスへと続く階段へと投げつけ、粉々に砕く。
胡坐をかいた彼は、酒臭い唾を忌々しそうに吐き捨てた。
「自分をどうにかしようって奴がいるなら、俺はいつでも相手をしてやるよ! それが怖いっていうんなら、そいつは家か洞窟の奥にでも隠れて、ガタガタ震えてりゃいいんだよ! そう、この間のてめぇみたいになぁ!!」
アマテラスはつい先日まで、山奥にある岩戸へと閉じこもっていた。それまで弟であるスサノオを庇い続けてきた彼女だったが、次第に程度の酷くなる彼の乱行に業を煮やし、衝動的に洞穴の中へと身を隠したのだった。
女王である彼女が消えたことに、高天原は一時大きな混乱へと見舞われた。
しかし、その数日後にはアマテラスの逆上せていた頭も冷め、彼女は他の神の説得に応じて岩屋から外へと出た。
その翌日に設けられたこの謁見の場は、騒ぎの元凶であるスサノオを、アマテラスが直に糾弾するためのものだった。
「へっ、何なら一生、あの薄暗くてジメジメした、陰気臭い場所で暮らしてればよかったのによ! そうすりゃ、俺もお前の高慢ちきな顔を拝まずに済むし、いちいち真面目ぶった小言なんて聞かされることなく、こっちも面白おかしく生活できてたのによぉ!」
スサノオは立て続けに彼女へと暴言を放ち、近くに置いていたもう一つの徳利に口をつける。
何ら憚ることない彼の様子に、アマテラスは強張っていた体から、すっと力を抜く。彼女は抑揚を欠いた、冷徹ささえ感じさせる声で、短くスサノオへと問う。
「……どうやら、貴方は、自らの行いを少しも悔いてはいないようですね」
「今更気付いたのかよ、この馬鹿女が。てめぇなんかに貸す耳なんか、俺にはひとつもな│」
口を拭ったスサノオは、再びアマテラスへと汚い言葉を投げつけようとする。しかし、捲し立てるはずだった彼の台詞は、言い切ることなくすぐに途切れた。
スサノオが話し始めた直後、彼を中心として、床に大きな穴が出現した。支える物を失ったスサノオの体は、一瞬宙に浮いた後、真下の何も無い空間へと引っ張られた。
「うっ、おあっ!?」
スサノオは反射的に腕を伸ばし、穴の淵を掴んで落下を防ぐ。
彼が持っていた徳利は緩やかに回転をしながら、黒く闇の溜まった深淵へと落ちていった。
スサノオは足場のない丸い壁を蹴りながら、どうにかよじ登ろうともがく。
ようやく上半身を穴の縁から出したところで、目の前に豪奢な衣裳を纏ったアマテラスが立っているのに気付いた。
彼を見下ろす彼女の表情は、逆光のために黒く塗り潰されていて判然としない。
スサノオは穴に下半身をぶら下げる不恰好な姿勢のまま、仁王立ちする彼女を睨み付けた。
「てめっ……!? いきなり、どういうつもりだ!?」
「貴方の願いを、叶えてあげようと言うのですよ。貴方はこれから人間界へと降り、二度とこの天上界へと戻って来ることを許しません。そうすれば、貴方は私ともう顔を合わせることもないでしょうし、下でも好き勝手できるのですよ。これはいわば、姉である私から不出来な弟への、最後の心遣いです」
「ふざけやがって、詰まるところは追放ってことだろうがぁ! てめぇの思い通りになんか、させてたまるかぁ!!」
額に筋と汗を浮かべ、スサノオはアマテラスの足首を掴もうと片腕を突き出した。
彼女の長い裳に包まれた足が上げられ、彼の右手は虚しく空を掴む。片足立ちのまま、彼女はスサノオへと冷たく笑いかけた。
「では、どうぞお元気で。我が愛する愚弟、スサノオよ」
口を開きかけたスサノオの顔面に、彼女の靴底が勢いよくめり込んだ。
真正面から蹴り付けられた彼は、堪らず後ろへと身を仰け反らせる。
空中へと蹴り出されたスサノオは、そのまま木の葉のように暗闇の底へと引き落とされていった。
重力に体を嬲られる彼の耳は、空を切る風音で満たされる。
白い光の漏れる真円が、濃密な黒の中で遠ざかっていった。
スサノオはそこからこちらを覗き込んでいる姉の影へと、激怒と憎悪に満ちた呪詛の言葉を叫んだ。
「こんの、クソ女があああああああああああぁぁーーーーーーーーーー!!」
彼の体は錐揉みとなりながら、遥かに遠い地上へと向けて、底知れぬ闇の中をどこまでも舞い落ちていった。
「……あん時の痛みと恨みは、今でもよーく覚えてるぜ」
アマテラスに蹴られた額を擦り、スサノオ、現在の尊は、苦々しい表情を浮かべる。同時に当時の怒りと屈辱が、つい昨日のことのように彼の中で生々しくぶり返してきた。
「兄さんが高天原から追い払われた時は、結構姉さん手酷かったからね。でも、僕の時は顔を合わせてもくれなかったけど、果たしてどっちの方が辛いんだろう、ね?」
脱いだ防護服を丁寧に折りたたみながら、ツクヨミは鼻歌交じりに尊へと質問する。
彼は以前、アマテラスの使いとして訪れた場所で、大立ち回りを演じたことがあった。彼を出迎えた神がもてなしとして出した料理が、汚い方法で調理されていたからというのが理由だった。
それ以後、アマテラスは失態を犯したツクヨミを毛嫌いするようになり、同じ天上界ではあるが高天原とは隔絶した僻地へと、彼を追いやっていた。
しかし楽天家の彼は、それもあまり気にはしなかった。最近などは、人間界からコンピュータなどの電子機器を持ち込み、ネットワーク世界の住人として充実した日々を送っているのを尊は知っていた。
しかし、そうした臨機応変さを持つツクヨミと違い、尊は受けた仕打ちはいつまでも根に持つ、執念深い性格の男だった。
尊は細めた眼に仄暗い光を灯し、ツクヨミに尋ねる。
「なあ、あの女が小さくなったのがこのガキってことだが、能力も失ってんのか?」
「霊力をほとんど枯渇させちゃっているから、当然。それから、こんなになっちゃう前の記憶も、ほとんど忘れちゃっているみたいだけど、ね」
「だが、こいつがアマ公なのには違いねえんだろ? なるほど、それは良いことを聞いたぜ」
不敵に微笑んだ尊はおもむろに立ち上がると、話題に上げられていた少女へと歩み寄る。
彼女は近付く彼の姿に、慌てて逃げ出そうとする。尊は素早くそれを捕まえると、彼女の両脇の下に手を差し込み、自分の方を向かせて持ち上げた。
自由を奪われた少女は、両手両足を懸命に振り回し、尊から逃れようともがく。だが、そのか細く短い四肢では、彼の手を振り解くことは不可能だった。
長い髪を振り乱し、いやいやと首を横に振る彼女に、尊はさも嬉しそうに笑いかける。
「昔っから仕返ししてやろうと思ってた奴が、こんな貧弱なただのガキになって現れるとは、俺にとっては正に好都合だぜ! あの蹴られた時の鬱憤を倍、いや十倍にして返してやる! さあ、どんなお仕置きをしてやろうかなあ!?」
釣り上げた憎っくき宿敵に対し、彼は狂喜に歪んだ笑みを突き付ける。
間近から照射される凶暴な眼光に、少女の緊張の糸は、たちまちの内に切れてしまった。
極度の緊張に硬直していた体から、少しずつ力が抜けていく。弛緩した足をぶら下げながら、彼女は悲愴な声で、実も蓋もなく泣き喚き始めた。
あられもなく号泣する彼女の目頭からは、大粒の涙が次から次に溢れてくる。
止めどなく流れる水滴は、赤く上気しているふくよかな頬を伝い、丸い顎の先から滴り落ちる。抵抗を諦めた少女は、自分を掲げている尊の手の上で、ただひたすらに泣きじゃくり続けていた。
甲高い泣き声が、尊の鼓膜を揺らす。しゃくり上げる度に走る震えが、細い肋骨から彼の手の平へと伝わる。
尊の顔が、ぎこちなく引きつっていった。
やがて彼は、無抵抗の相手をベッドへと落とし、がっくりと膝と両腕を床に突いた。俯いた顔は汗に塗れ、苦悶と疲労の色が濃く表れていた。
「くっ……だ、駄目だ、手が出せない……! 罪悪感が、ハンパじゃねえ、っ……」
どんなに姿が変わろうとも、彼女が不倶戴天の敵であるアマテラスであることは、尊は頭では理解していた。
しかし、相手が記憶を喪失していたのは、彼にとって最大の痛手であった。
相手があの不遜で高圧的な態度を取っていれば、尊としても手の下しようはあった。
だが当の本人は、今は彼を前にして泣き叫ぶような、純粋無垢で怖がりな少女となっていた。
その可哀想なまでに怯え切った姿を前にして、尊の怒りの矛先は向けどころを見失ってしまっていた。
幸か不幸か、彼は大の男達を蹴散らす程の乱暴者ではあったが、年幼い子どもに手を上げられるような鬼畜ではなかった。
開放された少女は、脱兎のごとく勢いで尊の前から逃げ出す。気落ちする彼から急いで離れると、遠くで傍観していたツクヨミの背後へと駆け込んだ。
彼女に取り縋られたツクヨミは、落ち込んでいる尊へと半笑いを浮かべる。
「ううん、見事なオー・ティー・エル(OTL)だねぇ。でも、黒づくめの男が幼女を捕まえて、『ゲヘヘ、これでお前は俺の意のままだぜ』と舌舐めずりする様は、この僕から見ても結構なエグさだったよ」
「言ってねえだろ、んなこと。まあ、そいつがまんまアマ公だったら、容赦なくあれこれできたんだがな。全く、非常に凄まじく、残念だぜ」
「まあまあ、落ち着いて。これから一緒に生活する者同士、仲良くしようよ。ね?」
快活なツクヨミの笑い声を聞きながら、尊はゆっくりと床に座り直す。黒々とした蓬髪を掻きむしり、鋭い眼差しで彼をゆっくりと顧みた。
「今、お前、何て言った?」
「薄着で肌を多めに露出している君が、幼くなった実の姉を羽交い絞めにして│」
「それは一つ前のだろうが! つうか、程度が酷くなってるし!! つーか、一緒に暮らすってどういうことだ!?」
尊は半狂乱となりながら、激しい怒号をツクヨミへと浴びせかける。彼は涼しい顔付きのまま、四つん這いでにじり寄る弟にスラスラと答えた。
「言葉の通りさ。今日から姉さんは、君と同居するんだよ。でも、いいだろ? 姉弟でのルームシェアなんて、今時珍しくもないしね」
「いや、あ……えっ、はっ!? 何で、どうして、そうなるんだよ!?」
「最初に説明した通り、姉さんは霊力が枯渇してしまって、こんな風になってしまった。だから元の姿に戻るには、失った分の霊力を外部から補うのが手っ取り早い。そう考えた高天原の神様達は、誰あろう君に白羽の矢を立てたのさ」
「な……!? 霊力を分けるんなら、上の奴らでも良いだろうが!!」
「姉さんがいなくなった穴を埋めるために全身全霊を傾けていて、そんな余裕はとてもないんだってさ。引退していた父さんも、姉さんの代理として一生懸命働いているみたいだよ」
「だとしても、どうしてよりによって俺なんだよ!? そいつと俺が犬猿の仲だってのは、全員が知っていることだろうが!?」
「理由は、主に三つ。一つ、人間界で活発に動き続けてきた君は、非常なまでに霊力に満ち溢れているから。二つ、波長が似ている姉弟の方が、赤の他神より霊力は効率良く伝わるため。そして三つ、君がとても暇そうだったので。と、僕に姉さんを預けた時に、父さんは言っていたよ。まあ、後ろの二つは僕にも当てはまるんだけど、ずっとヒッキーで運動してなかった僕は、役者不足なんだってさ」
「ふっ……ふざけんなあ!! 嫌だからな! 俺は絶対に、そんなの認めねえからな!!」
神にとっての根源的な力である霊力は、自らの意思で自由に行使できない。
なので、幼少化したアマテラスへと霊力を補給するためには、尊の体から放たれるそれと常に触れている必要があった。
言いかえれば、尊と彼女が即かず離れず、いつも行動を共にしなければならないということだった。
どんなに外見が変化して、例え記憶が白紙となっていたとしても、この少女があのアマテラスであるのに変わりはない。
そんな相手とひとつ屋根の下で過ごすなど、尊にとっては甚だしく願い下げしたい状況だった。
尊は頑なな自分の意志を、隙間のない腕組みで体現する。
拒絶の体勢を取る彼に、ツクヨミは噛んで含めるようにして言い聞かせる。
「駄目だよスサノオ、言う通りにしないと。これは、高天原からの命令でもあるんだから」
「はっ! 二度と戻れない所の事情なんか、俺が知ったことかよ!」
「もし姉さんがこのままだったら、浄化し切れなくなった瘴気に呑まれて、この人間界が消滅してしまうとしても? それにもし姉さんが完全復活したら、君の追放命令を取り消してくれるのかもしれないんだよ?」
あの退屈極まる高天原に帰りたいという気持ちは、尊には欠片もない。
だが、この人間界が影も形もなく消え去ってしまうのは、彼にとって避けなければならない事態なのには違いない。
もしそうなれば、ここにいる彼自身も必然的に消えてしまうのである。
「僕もサポート役として、君の手伝いをして上げるからさ。だからここはひとつ、二人で協力して、姉さんが元に戻れるように頑張ろうよ。ね?」
お前の方もどちらかと言えば面倒なんだよ、という言葉を、尊は口に出す寸前で飲み下す。
垂れた鼻を啜りながら自分を凝視している姉を眺め、彼は暗澹とした気分になっていった。
この日から、神話において三貴子として知られる三人兄弟の、奇妙な共同生活が始まったのだった。
「ありがとうございました。またどうぞ、お越しくださーい」
食事を終えたOL二人が、ガラス張りの両開きドアを空けて外へと出ていく。
ノースリーブのジャケットに包まれた背中を、白のコックコートに朱色のエプロン姿の八坂恵実は、ハキハキとした明るい声で送り出す。
彼女のお礼の言葉に気付くこともなく、二人は興奮した様子で話をしていた。
「ねえねえ、あの端っこに座っていた女の子、チョー可愛くなかった!? 最初見た時から、すごい胸がドキドキだったんだけど!」
「ほんと、真っ赤なお洋服で、まるでお人形さんみたいだったよね! でも、ちょっとオドオドしてたみたいだけど、もしかして迷子だったのかな?」
彼女達が通りを横切って行くのを、恵実は店名の印字された窓ガラス越しに見送る。テーブルの片付けに行こうとしたところで、別の客が入れ違いに入ってきた。
人の良さそうな顔立ちをした老婦人は、カウンターの内側に立つ彼女へと、にこやかに頭を下げた。
「こんにちは、恵実ちゃん。ショートケーキとチーズケーキを一つずつ、いただいてもいいかしら?」
「あ、こんにちは、清水のおばあちゃん。ごめん、ちょっと待ってて」
微笑みと共に挨拶を返し、彼女はキッチンにいる彼を呼ぶ。
少し遅れて、通路の奥から尊の顔が覗いた。男物のコックコートを着込んでいた彼は、袖を肘の上まで捲り上げていた。
濡れた手を青いエプロンで拭う彼に、恵実はOL達の使っていたテーブル席を指差した。
「悪いけど、さっきのお客様の食器を下げてきて。あなた洗い物をしてるんだし、手間が省けてちょうどいいでしょ?」
「おい、自分の仕事を押し付けてんじゃねえよ。そんなの、後でお前で出来るだろ」
「あら、雇い主である私の言うことが聞けないっていうの? 今日の分の給料、払ってあげないわよ」
「オーナーはお前じゃなくて、重夫の親父さんだろうが」
ぶっきらぼうに受け答える尊だったが、仕事中の彼女には、やはり立場として分が悪い。
雇われの身である尊は、結局は雇用主の娘である彼女に従い、使用済み食器の後片付けへと向かった。
彼が今働いているこの洋菓子専門店『穂恵味』は、店で買った商品をすぐに食べられる、軽食用のスペースが店内に設けられている。
ケーキの味も上々で値段もお手頃、更には特製ハーブティーでも評判のこの店は、昼下がりや休日にはちょっとした混雑にもなる人気店だった。
しかし、会社の昼休みも終わるこの時間帯となると、優雅にお茶をしているオフィスレディは誰もいない。
代わりにいたのは、店の一番片隅に置かれた椅子の上で膝を抱えて小さくなっている、赤い服の少女だった。
尊がトレイに汚れた皿やフォークを乗せている間、彼女はじっと彼の動きを見張っていた。組んだ腕の中に埋めている顔には、恐怖と敵意に険しくなっている両目が光っていた。
すぐにでも逃げ出せるよう身構えている彼女を、尊は視界の端に捉えながらもあえて無視する。
互いに言葉も視線も交わさないまま、用事を済ませた尊はさっさと相手のテリトリーから離れた。それでも少女は油断なく、立ち去る彼を目で追い続けていた。
そうした異様な緊張感を漂わせている彼らを、恵実は遠くでじっと眺めていた。
無言のまま戻ってきた尊に、彼女は潜めた声で問い掛けた。
「ねえ、前から思ってたんだけど……あの照子ちゃんって子、変にあなたを怖がってない?」
「ん? ま、見ての通りだ。少なくとも、友好な関係ではないな」
「親戚の子どもだって言ってたけど……。あの子のご両親、娘さんがあなたに懐いていないこと、知っていて預けたの?」
「さあ……な。少しの間だけってことで、俺も無理に押し付けられたからな。正直、こっちもあいつが来たんで迷惑してんだよ」
彼の明け透けな少女への文句に、恵実は顔を顰める。
だが、それこそが嘘偽りない、尊の全くの本音であった。
少女と化したアマテラスを連れ、ツクヨミが尊の家を電撃訪問してから、既に一週間以上経過していた。
そしてその間、彼がこうして金天街へと働きに出ている時も、彼女は常に尊の近くにいた。霊力を常時補給するため、というのがその理由だった。
自分の仕事場まで彼女を連れて行くことに、尊は当初、強く反対した。
しかし、「姉さんが早く元に戻れなかったら、その分ここに長くいることになるよ」というツクヨミの脅しめいた説得に、それを認めざるを得なくなったのだった。
尊は闇取引の現場を襲い、犯罪者達の所持金を残らず奪い去っていくという、裏の仕事を持っている。
しかし彼は、金天商店街の店々における便利屋という、全く毛色の異なる職も有していた。
長い歴史を持つ金天商店街には、昔からの老舗も数多く加盟している。また、そうした店は全て個人経営であり、経営者もほとんどが夫婦や家族単位だった。
大半が中年に達している彼らは、力仕事をする時や繁忙期において、臨時の働き手を必要とする。そうした時に、尊は臨時のアルバイトとして、その手伝いを行っているのだった。
腕力に優れ、意外と手先も器用である彼は、様々な仕事の対価として日給を受け取っていた。
内容としては、荷物の搬送から設備の移動といった力仕事から、店内の掃除といった雑務まで、数多くのものをこなしていた。
だが、言葉遣いが乱暴で人当たりも悪く、小さな子に対しても遠慮容赦のない尊は、カウンターなどの接客は滅多にやらなかった。
店の主人達も尊がそうした気質であるの知っていたため、例え必要に迫られていたとしても、彼に客の対応をさせることは極力避けていた。
なので、子ども嫌いだと思っていたはずの尊が、西洋人形のような美少女を伴って店を訪れるのを目にした彼らは、一様に状況が呑み込めず、呆気に取られてしまうことになった。
尊はそんな店主達へと、彼女は『親戚の家から少しの間だけ預けられることになった、照子という女の子』だと説明した。
そうした仮の名前と家族背景は、彼女が来た当日の夜に、彼とツクヨミで考え出したものだった。
「ちょっと向こうの家が、ゴタゴタなってるみたいでさ。落ち着くまで、俺が面倒見ることになったんだわ。だからあんまし、家のこととか聞いてやらないでくれよな」
彼女の紹介の最後に、決まって尊はそう釘を刺した。
『家庭的な問題を抱えている照子ちゃん』という設定は、一応ツクヨミの方から本人へと刷り込まれてはいた。
それでも、何度か同じような質問をされてしまったら、そこからボロが出てくる可能性もあった。
その対応策として、彼女の家族に関する問いをあらかじめ封じるのが、尊の目的だった。
彼の言葉を人の良い彼らは素直に信じ、照子の家庭事情に首を突っ込むことはしなかった。そして仕事の間、邪魔にならない場所で彼女を待機させておくことを、ほとんど全員が快く承知した。
彼のこれまでの地道な勤務実績のおかげか、尊が彼女を誘拐して連れ回しているのではと疑う人は、幸いにして誰もいなかった。
とにかくこうして、尊は商店街で仕事をしている最中でも、照子という名を与えられたアマテラスを同伴することが可能になった。
だが、本当の問題は、ここからだった。
照子が仮親である尊に対して、少しも懐こうとしなかった。と言うよりも、彼を恐怖し嫌悪し、口もきこうとしない程に毛嫌いしていたのだった。
照子は初対面の時に、尊に怒鳴られた上、力任せに押さえ付けられたことを、まっさらな記憶にまざまざと刻み付けていた。
なので、彼女は恐ろしい顔で自分を捕まえていた彼を、本能的に敵であると認識していたのだった。
臆病で人見知りでもある彼女は、外出時などは唯一の顔見知りである尊から逃げようとはしなかった。それでも、自分から彼へと必要以上に近寄ろうとすることは、これまで一度としてなかった。
家に作った照子の寝床は、尊のベッドから一番離れた、部屋の角に置かれている。彼が働いている時も、彼女は店内の片隅や物陰に身を潜め、四六時中尊の動きを監視していた。
外を移動する際は一定距離を保って尊の後ろを歩き、彼が足を止めれば同じく止まり、道を戻れば慌てて逃げ出す始末だった。
照子に嫌われることは、尊にとっては特に問題ではない。
だが、彼女が異様に自分を怖がっているのを商店街や町の人々に見られるのは、結構な問題となっていた。
まだ商店街の人々は、「厳つい見た目に慣れていないから」とする共通理解で、何とか誤魔化せてはいる。
だが、これ以上こうした状況が続けば、彼らも怪しく思うようになるかもしれない。場合によっては、彼が照子を虐待していると疑われる可能性もあった。
唯一、彼女を上手く扱えるツクヨミも、この時ばかりは頼りにはならなかった。
彼は、照子の分の夕食を作ったり家を掃除したりするなどしながら、尊と彼女の間を取り持つ役目も果たしていた。だが、天上界で長らく夜の世界に居座っていたために、今ではすっかり夜型となってしまっていた。
尊達が家を出る朝になって、ツクヨミはもぞもぞと寝袋に潜り込む。そして、昼過ぎには爆睡してしまっているために、尊は仕事の間、照子の傍に彼を付けることも出来なかった。
不要な誤解を生む前に、どうやってこの状況を打開するか。
ずっとそのことに尊は頭を悩ませていたのだが、有効な手段は一向に見付からなかった。
相変わらず敵意の眼差しを向けている悩みの種を見遣り、彼は重苦しい吐息を零した。
「ちょっと、溜め息をつきたいのはこっちなんだからね。あなた達がずっとピリピリしていたら、店の中の雰囲気まで悪くなっちゃうじゃない」
「だから、俺はなるだけずっと厨房にいて、あいつと顔を合わせないようにしてるんだよ。それでも気になるんだったら、お前が外にでも摘み出してきたらどうだ?」
「そんなの、できる訳ないじゃない! もう、そんなことが平気で言えるから、いつまで経っても照子ちゃんと仲良くなれないのよ! ちょっとは優しくしてあげようとか、考えたりはしないの?」
「努力はしているさ。でもやること為すこと、全部空振ってんだよ。あいつと親密になれる方法が他にあるってんなら、どうかこの俺にご教授いただきたいもんだな」
半ばヤケになりながら、尊はヤケクソ気味にアドバイスを求める。
照子との友好関係の構築策が軒並み不発に終わっていた彼は、その実お手上げ状態に追い込まれていた。
助言を請われた恵実は、首に掛けた緑のスカーフをいじりながら考え込む。やがて何かを思いついたように、彼女はあっと声を洩らした。
「そうだ、もしかしたら……。あなたは、ちょっとここで待ってて」
いぶかしむ尊にそう言いつけると、恵実はカウンターの外へと出る。向かった先は、照子の所だった。
いきなり接近してくる若い女性に、照子は膝を抱える腕に力を込め、怯えと不安に揺れる瞳で睨み付ける。
恵実は警戒する彼女の数歩手前でしゃがみ、相手よりも少し低い位置に目線を降ろした。椅子の上に蹲る照子に、彼女は柔らかく微笑みかけた。
「ねえ照子ちゃん、さっきから照子ちゃんは、他の人が食べてるケーキとか、ずっと見ていたよね? 照子ちゃんも、あの人達のと同じお菓子、食べてみたくない?」
店頭に出ていた恵実は、同じ室内にいた照子のことを、ずっと気に掛けていた。
その中で、一言も喋らず身じろぎさえしなかった彼女は、来店していた客のケーキを興味深そうに眺めていた。そのことを思い出した恵実は、照子がケーキを食べてみたいと思っているのでは、と考えたのだった。
目鼻立ちの整った顔を緩ませ、恵実は敵意のない笑顔を作る。害意のない彼女の表情に、照子も少しだけ緊張を解いた。
辛抱強く答えを待つ恵実に、照子は小さく一回だけ顎を引いてみせた。
「あ、やっぱりそうなんだ! あの人達が食べていたの、とても美味しそうだったもんね。よし、分かった! 今からお姉ちゃんが特別に、照子ちゃんにケーキをプレゼントしてあげる! 今日ずっとお利口さんにしてた、ご褒美だよ」
思わぬ申し出に、照子の顔に戸惑いと喜びが同時に広がっていった。
期待に瞳を輝かせている彼女に少し待つよう告げて、恵実はカウンターへと急ぎ足で戻る。
二人のやりとりを眺めていた尊に、彼女は有無を言わせない口調で厳命した。
「尊、大急ぎでショートケーキを二つ、今から作って持ってきて。ちゃんとあなたが練った生地を使って、自分で飾り付けをしたのをね」
「は? いや、そんな面倒なことしなくても、ショーケースにまだ余りがあるじゃねえか。こっちをやれば、すぐに済むだろ」
「あー、もういいから、早く持ってきなさい! これは、次期店長からの命令です!」
実効性の疑わしい指令を飛ばしながら、彼女は尊を無理矢理に奥の通路へと押し込む。
彼はしぶしぶその言葉に従い、納得のいかないまま店のキッチンへと戻る。
そこではちょうど、『穂恵味』の店主であり恵実の父親でもある八坂重夫が、焼き上がったケーキ生地をオーブンから取り出しているところだった。
彼は浅黒い額に吹き出した汗を拭いながら、戻ってきた尊に目配せする。
「よう、恵実の奴、お前に何の用事だったんだ? あっ、まさか俺の目の届かない所で、デートの約束でもしてきたんじゃないだろうな!? 俺の目が黒い内は、そんなの認めんぞ!!」
勝手な妄想で憤慨する彼をやり過ごし、尊は運んできた食器を流しに置く。
液体セッケンで手の甲から爪の間まで念入りに洗いながら、彼は冷めた声で答える。
「だとしても、こっちからお断りしているから心配すんな。それより俺の作った生地、ちゃんと焼けてるか?」
「当たり前だ。どうした、お前が仕上げをするのか?」
「ひとつだけ、俺がショートにする。よく分からねえが、あんたの娘さんからのお達しだ」
中途半端に納得している彼から、尊は自作のスポンジ生地を受け取った。焼き立て特有の香ばしい匂いを放つそれを、ケーキクーラーの網に、型ごと裏返して乗せる。生地が冷めるまでの間、彼は他の準備を進めることにした。
壁のラックにある片手鍋を、コンロに置く。注いだ水にグラニュー糖を入れ、中火にかけながら、鍋を軽く振って融かしていく。充分に混ざったところで濡れタオルの上に移し、余熱を取る。
シロップが冷めるまでの間、尊はホイップクリームの作成に取りかかる。
氷水を入れたステンレスのボウルに、ひと回り小さなガラスのボウルを付ける。しっかりと冷えたのを見計らい、生クリームとグラニュー糖を入れ、泡立て器で手早く撹拌した。
やがて、クリームに垂れない程度のとろみがつくと、業務用冷蔵庫に入れてこれも冷ます。
ついでに彼は、中にあったイチゴの箱を取り出す。果物ナイフでヘタを落としてから、縦に均等に切り分けていった。
『穂恵味』で使っているイチゴは、地元の農家から仕入れている『しずく姫』というものだった。程良い酸味と甘みがあり、切り口の色合いも綺麗なこの品種は、味でも見た目でもショートケーキと相性が良かった。
それを二十個程を切り終えた尊は、ペーパータオルに並べて余分な水分を除く。
そうした作業をしている間に、スポンジ生地の方も熱が抜けていた。
型とクッキングシートを外し、尊はケーキナイフで横に三等分する。回転台に乗せたその断面にシロップをはけで塗り、ホイップクリームをヘラで伸ばすと、その上に切ったイチゴを放射状に並べる。
同じ要領でもう一段やった上に、蓋になるスポンジを重ねる。
そこもシロップでコーティングしてから、クリームを全面に薄く伸ばし、彼はそれを再度冷蔵庫に入れた。
照子に与えるだけなら特に必要なかったが、店頭に出す分もあるので、仕上がりを整えなければならなかったからだった。
ややしてから外へと出したそれに、尊は余ったクリームを広げて凹凸を無くしていく。余った分をかき混ぜて固くすると、絞り出し袋に詰めて、上面に模様を描いていく。
最後に、シロップで艶を出したイチゴを均一に乗せ、ホールのショートケーキが完成した。
ヘラで切れ目を付けた尊は、真ん中にナイフの先端を差し込み、八等分に切り分ける。
その内の二ピースを上手くヘラで持ち上げ、用意していた白い皿に移す。フォークを添えてトレイに乗せた彼は、他のケーキを作っている重夫へと声をかけた。
「後の、よろしく頼むわ。俺はこれ、あいつんとこ持ってくから」
「ケースに運ぶくらいしてくれよ。こちとら、並列作業で忙しいんだからさ」
「文句なら、大事な娘さんに言えよな。じゃ、俺は急いでるんで、これで」
ぶうたれる彼を尻目に、尊はさっさと厨房を後にする。
店内へと戻ると、照子と同じテーブルに座った恵実が、彼女へと楽しそうに話かけていた。
恵実の斜向かいにいる照子は、抱えていた膝を降ろし、和らいだ表情となっていた。尊が菓子を作っている間に、彼女達は互いの距離を縮めていたようだった。
引き返してきた尊を、照子は警戒態勢となって出迎える。半径三メートルの線を越えないように気をつけながら、尊は要望の品を恵実へと手渡した。
「ほらよ、例のブツ。これで良かったでしょうか、お譲様?」
「うむ、苦しゅうないぞ、尊よ。はいお待たせ、照子ちゃん。どうぞ、召し上がれ」
恵実は受け取ったケーキ皿を照子の前へと置く。尊はトレイを片手に、レジへと戻る。彼が視界の端へと去っていったことに安心した彼女は、じっくりとケーキを見詰め始めた。
他の客が食事をしている時の様子を思い出しながら、照子はフォークを握り、ケーキの先端の方を切り取る。フォークに突き刺した欠片を、彼女は恐る恐る口へと入れた。
ゆっくりと咀嚼していた照子は、閉じていた目をぱっちりと開く。
隣に座っていた恵実を、彼女は驚きと興奮に満ちた表情で見上げた。
「エミ! これ、おいしい!!」
「そうなの? 口に合ったみたいで、良かった」
初めて歳相応の無邪気さを見せる彼女に、恵実は嬉しそうに微笑む。
すると彼女は突然、カウンターの陰から彼女達を窺っていた尊を呼び寄せた。近くに来た彼を、恵実は三度身を固くする照子へと示した。
「実はね照子ちゃん、その美味しいケーキ、この尊お兄ちゃんが作ったんだよ。照子ちゃんが食べたいって言ってるのを聞いて、あなたのために大急ぎで作ってくれたんだって」
彼女のいきなりの発言に、尊と照子は共に不意を突かれる。思わず二人は、お互いの顔を正面から見合わせた。
面食らっている照子に、恵美は穏やかな口調で諭した。
「ほら、ちゃんと尊お兄ちゃんに、ありがとうって言わなきゃ。お兄ちゃんは照子ちゃんのために、ケーキを頑張って作ってくれたんだから」
「…………ありが、とう……」
困惑の浮かぶ上目遣いで、照子はぼそぼそと尊にお礼を言う。
それが、彼女が尊に話しかけた、最初の言葉だった。
反応に困っている尊を横に、恵美はおもむろにイスから腰を上げた。
「さてと、私もそろそろ仕事を再開しようかな。じゃ、後は尊、よろしくね」
「あ? よ、よろしくって、どういうことだよ?」
「どうせ、後片付けもしてないんでしょ? 父さんの手伝いもしないとだし、私は裏に下がっとくから。この時間帯は少ないだろうけど、お客さんが来た時はちゃんと対応してよね」
「いや、だけど俺は│」
「休憩しなからでいいから、店の方は任せたわよ。あ、それから私の分のケーキ、あなたにあげるから。照子ちゃんと一緒に、ゆっくり味わって食べなさいよね」
作ったのは俺なんだが、と尊が反論する暇もなく、彼女は軽い足取りで去っていった。
尊は舌打ちを堪えながら、ちらりとテーブルに視線を向ける。
照子は相変わらず、彼を凝視していた。だが、心なしかその瞳の険は薄れ、尊を敵か味方か判断しかねているようだった。
なるようになれと思い切った尊は、手前の空いている椅子に腰を降ろす。
右隣に座った天敵に、照子は体を微かに縮ませるが、逃げることはしなかった。頻りに彼を見遣りながらも、彼女は黙々とケーキを口へと運んでいた。
尊は自作の洋菓子に手を付けようともせず、窓の外の通りを眺める。店内へと忍び込んでくる人声などの喧騒が、かえって室内の静寂を引き立てていた。
「……このケーキ、おいしい」
照子が前触れもなく、ぼそりと洩らす。
「……さっき、聞いた」
話しかけられたことへの動揺を抑え、尊は無愛想に返す。
「…ケーキ、ありがとう」
少しの間逡巡し、彼女は次の言葉を繋げる。
「…それも、聞いた」
こめかみを指で掻き、彼は籠った声で答える。
「そのケーキ、もらっていい?」
怖々とした面持ちで、照子は尊へと尋ねる。
「もう自分の分、平らげたのかよ!?」
食い気の強さに呆気に取られ、彼は彼女を眺めた。
おどおどとしながらも、必死にケーキを請い求める眼差しに、尊は困った風に顔を顰める。
やがて彼は自らの分を、照子へと乱雑に押しやった。
彼女は嬉々としてそれを引き寄せると、夢中になってがっついていた。
手の平を返したような照子の態度に、尊は肩を落として呆れ果てる。だが、自分が作った物が美味そうに食べられているのは、彼としても決して悪い気はしなかった。
口の周りをクリームでベトベトにしている彼女を、尊は口を噤んだままぼんやりと見詰める。
その心中を代弁するように、澄んだ高い声が言葉を紡いだ。
「よくもまあ、本当に美味しそうに食べるのう。わらわも一つ、ご馳走に与りたいものじゃ」
照子の細い肩が、びくりと跳ね上がる。取り落とされたフォークが、皿に当たって固い音を立てた。
正面に上げられた彼女の視線を追い、尊も素早く右を向く。
テーブルの余っていた席には、淡いピンクのワンピースに身を包んだ、妙齢の女性が腰かけていた。
肩に掛けた浅葱色のショールの下から伸びる白く細い腕は、テーブルの上で優雅に組まれている。
右腕で頬杖を突いている面は細く、顔形は無駄なくすっきりとしていて、まるで作り物であるかのように整っている。肌理の細かい肌は白く透き通り、対して肉付きの薄い唇は毒々しい程の赤みを帯びていた。
魔性の美貌の持つその女性は、艶のある長髪を揺らし、左へと頭を巡らせる。彼女は黒目がちな両目を細め、慄然としている尊へと怪しく微笑んだ。
「わらわの知らぬ内に、何やら面妖な技を手に入れておるみたいじゃな、スサノオ? 此度は、西洋の菓子の職人にでも鞍替えするつもりかえ?」
「っ……!? クソ、ババア……!? どうして、てめえがここに……!?」
「訳など要らぬであろう? わらわの可愛い子ども達が、この葦原中國に降りてきたというのじゃ。顔を見てみたいと思うのは、母としては当然であろうに」
敵意と動揺を露わにする尊に、謎の女性はにっこりと破顔する。
そのうら若く容姿端麗な外見をした彼女こそが、伊邪那岐を夫とし、アマテラス・ツクヨミ・尊の母親でもある、原初の女神・伊邪那美であった。
気配もなく現れた母親に、尊は視線の鋭利さを増す。
しどけない物腰で寛ぐ彼女を、親の敵でも見るかのように睨み付け、彼は唇を笑みの形へと無理に捻じ曲げた。
「母として当然、ねえ。その愛する子ども達を捨てたてめえから、そんな殊勝な言葉を聞けるとは夢にも思わなかったぜ」
「行いや身の振り方が、そのまま心根を映し出しているとは限らぬということじゃ。それを未だに解せていないとは、お主もまだまだ青いのう」
彼の露骨な嫌味にも、イザナミはさも嬉しそうに、飄々として答える。周囲へと振り撒かれるその華やいだ雰囲気は、見る者に彼女が死者の世界である『黄泉國』の住人だとは、少しも連想を許さないものだった。
イザナミは尊達三兄弟を産んでからしばらくした頃、自ら高天原を去り、悪と不浄に満ちた黄泉國へと降りた。
原因は、連れ合いであるイザナギとの、単なる夫婦喧嘩だった。
理由自体は些細なものだったが、彼女はそれを切っ掛けにして、兼ねてからの夫への不平不満を爆発させた。
そして遂には、理解を示さないイザナギを見限り、高天原と別空間にあった黄泉國へと移っていったのだった。
そこでイザナミは持ち前の女傑ぶりを発揮し、あっという間に黄泉國の王へと伸し上がった。
それからは、彼女はイザナギとの対決姿勢を鮮明化させ、彼が目を掛けている人間界の破壊と滅亡を、虎視眈々と狙うようになったのだった。
これまでにも彼女は、人間界に落とされた尊へと仲間になるよう、何度か交渉を持ち掛けていた。
だが、両親の諍いに巻き込まれるのを嫌った尊は、その度に彼女の誘いを断っていた。
最後に彼のもとをイザナミが訪れたのは百八十七年前であり、尊が彼女の顔を直に見るのは二世紀ぶりのことだった。
久しぶりの再会に母は曇りない笑顔を浮かべ、その息子は険しい表情を繕っている。
荒々しい感情を瞳に込めながら、尊は沈んだ声音で彼女へと探りを入れた。
「三文芝居は止めて、さっさと本音を吐いたらどうだ? おおかた今回は、こいつが目的なんだろう?」
隣で頼りなさげに震えている照子を、尊は顎で示す。
飾り気の無い直球な問いに、イザナミは形の良い眉を寄せ、さも不思議そうに首を傾げた。
「先から、そうじゃと申しておろうに。天上界よりやってきた我が娘と見えるために、はるばる黄泉國から登ってきたと」
「見え透いた嘘ついてんじゃねえよ。地獄耳のてめえのことだ、ガキになったこいつが人間界に来たのをどっかから嗅ぎ付けて、始末しようとでも考えたんだろうが」
照子、もといアマテラスは、太陽神である。
例え彼女がどんなに弱体化しようとも、本体である彼女自身が存在している限り、天体としての太陽はそこに在り続けることができる。
だが、それは裏を返せば、アマテラスが消滅してしまうようなことがあれば、同時に太陽も消え去ってしまうのを意味していた。
なので、アマテラスが力を失いきった姿である照子は、高天原と人間界の滅亡を企んでいるイザナミにとって、格好の標的に他ならなかった。
実母の狡猾さと冷酷さを知る尊は、彼女の顔を瞬きもせずに見据える。
真剣な面持ちとなっていた彼に、イザナミは小さく吹き出してしまう。彼女は顔の前で左右に手を振り、有り得ないことだと軽い調子で否定した。
「異なことを言うのう、お主は。我が腹を痛めて産んだ愛娘を、我が手で殺める訳などなかろうて」
「愛息子の俺には、何回か殺しにかかったことがなかったっけか?」
「あれしきの些事、手遊びのようなものではないか。それにしてもアマテラスは、ほんに愛い風体となったものよのう。幼き頃と、まるで瓜二つじゃ」
尊の言及を一方的に打ち切り、イザナミは視線をずらす。黒々とした眼の焦点へと、成り行きが呑み込めずに当惑していた照子が合わせられた。
見知らぬ女性の注意が自分に向いたことに、照子は痙攣するように息を呑む。三白眼となって必死に睨み返す彼女に、イザナミは釣り上げた口角の隙間から白い歯を覗かせた。
「ほれ、そんなに怖がらずとも良い。主の顔を、もっとようわらわに見せてくれ」
椅子を僅かに引き、彼女は軽く腰を上げる。右腕を挙げると、向かいの席に座る照子へと手を伸ばした。
白魚のように細く長い指が、整えられた爪を光らせながら彼女へと迫る。
恐怖に凍り付く彼女の鼻先で、その幽鬼じみた肌色の手が止まった。
イザナミの右手首を、尊の筋肉質な右手が掴み取っていた。
照子の傍らに立ち、自分の腕を締め上げる彼に、イザナミは意外そうな表情となる。
「ほう、お主がこの子を守ろうとするとは……。わらわはてっきり、あの偏屈な老いぼれに無理強いされ、致し方無く面倒を見ているのかと思っておったのじゃが」
「勘違いしてんじゃねえよ、クソババア。こいつが消えでもして、人間界がお前の世界みたくなっちまったら俺が困るんだよ。別にこっちも、やりたくてやってるんじゃねえ」
「ふふっ、素直でないのう。相も変わらずお主の性根は、童の頃より変わっておらぬわ」
「は? 意味の分からねえことを│」
掴んだ腕に力を込める尊に、イザナミは悪戯っぽく含み笑いを洩らす。次の瞬間、彼女の腕を拘束していた尊の左手に、針山でも押し当てられたかのような激痛が走った。
堪らず尊は手を離した。彼の手の平は赤みを帯び、火傷に似た痕が残されていた。
苦悶に小さく呻く尊を前に、イザナミはゆるゆると腰を上げる。
「さて、用も済んだことであるし、わらわはそろそろお暇するとしようかの」
「な!? てめ、このままとんずらするつもりかよ!?」
「言うておろう、用は済んだと。それに、ここも俄かに騒がしくなってきおったようじゃからな。積もる話は、またいずれとしようではないか」
イザナミは目付きを険しくする尊に対し、通りに面した窓へと目配せする。
彼は警戒を緩めずに、そちらへと視線を反らす。そこにあった光景に、尊は驚きの声を上げて仰け反った。
店のガラス戸には、近くの店で働いている男連中が、ベッタリと体を張り付かせていた。
彼らは妙に浮足立った様子で、押し合い圧し合いしながら立ち位置を奪い合っている。
どうやらイザナミの姿を見付け、その美しさに続々と引き寄せられてきていたようだった。
「これでは、ゆっくりとできそうにもないからの。では、また近い内にの、二柱とも」
最後に涼しげな笑みを尊達に送り、イザナミは颯爽とした足取りで店を後にしていった。
外へと出てきた謎の美女に、光に群れる羽虫のように集まっていた男達は、慌ててそれぞれの持ち場へと逃げ帰っていく。
カラフルなシャツに黒のベストを着ていた青年がすぐに舞い戻り、店の中へと駆け込んできた。
派手な服装をしたその男は、パチンコ店の店員であり、尊とも顔馴染みでもある昇だった。
彼は息急き切った声で、イザナミを見送っていた尊に問いかける。
「な、なあ、何だよ、あのすげえ美人さんは!? まさかあれが、お前の言ってた彼女なのか!?」
「違えよ、タコ。……ただの腐れ縁な、迷惑な知り合いだ」
「そっ、そうか、そうなのか……。名前は、あの人のお名前は、何ていうんだ!?」
「あっ、と……ナミ、だったかな。だが、あいつにはちょっかい出さない方が身のため│」
尊はそれとなく忠告をするが、当の本人は少しも聞いてはいなかった。
美女の名前を手に入れたことで彼は有頂天となり、「ナミさんか、素敵なお名前だぁ~」と呟きながら、自分の体を抱き締め悶えていた。
夢見心地となっている彼に、尊は呆れ果ててしまう。
目障りな彼を追い出そうと歩を進めたところで、尊は何かが足へとくっついているのに気付いた。
下を向いた彼の目に、尊のエプロンの端を手繰り寄せている、照子の頭頂部が映った。
照子はいつの間にか床へと降りて、尊へとしがみ付いていた。
余程イザナミが怖かったのか、彼女の体は尊にも伝わる程に、ぶるぶると強く震えていた。
尊はどうしてよいか分からず、そんな照子を持て余して困り果てる。
やがて、彼はおずおずと左手を彼女の頭へと乗せ、ぎこちなく数回だけ撫でた。
照子の髪はほんのりと冷たく、熱を帯びた手の平を冷ますのにはお誂え向きである。
怯える彼女を宥めながら、彼は誰にともなく、そんな言い訳を心中で洩らしていた。
イザナミの予期せぬ来訪は、尊の周辺に微妙な余波を残していった。
母親の来襲を尊から伝え聞いたツクヨミは、「あの母上であれば、在り得ることですね」と、あっけらかんとして答えるに留まっていた。
「でも、スサノオが姉さんを守ってくれると信じていたから、全然心配はしていなかったよ。実際、ちゃんと君はそうしたんだろ? いやはや、姉弟の絆って良い物だよ、ね?」
勝手に当てにされていたらしい事実に、それを聞いた尊は良い気分はしなかった。
だが、本心の読めないツクヨミらしい発言に慣れきっていた彼は、怒る気さえも湧かなかった。
あまり興味を示さなかった彼に対して、金天街の店主達は、イザナミのことを執拗に尊へと尋ねた。
彼ら独自の連絡網は、イザナミが姿を見せた翌日までに、その末端に到るまで情報を伝達させていた。
しかも、幾つかの余計な尾ひれを付けて。
店へと働きに出る度に、尊は様々な人から根掘り葉掘り質問を浴びた。
その調子はからかうものから親身なものまで、相手によってまちまちだった。
どちらにしろ、浮ついていて興味津々な問いの数々に、彼は昇にしたのと同じ答えで押し通した。尊の交友関係を巡る彼らの関心は、数日の内に下火となり、次第に自然消滅していった。
そうして、イザナミが置き土産にしていった彼の面倒事は、時間と共にひとつ解消された。
だが、尊にとってのもうひとつの懸念は、なかなかに解決されなかった。
あの日以来、照子が頻りに尊へと纏わり付くようになり、彼の行動を今まで以上に束縛し出していたのだった。
イザナミの一件を経て、照子は尊に対する態度を軟化させていた。
まだ完全に壁を取り払ってはいないものの、自分から彼へと近寄っていったり、言葉数は少ないながらも口を利いたりなどするようになっていた。
これを機に、尊は照子から剥き出しの敵意を向けられはしなくなった。
代わりに、彼は生活のほぼ全ての場面において、鬱陶しいくらい彼女に付き纏われてしまうようになってしまっていた。
照子は臆病で、人見知りの強い性格をしていた。
なので、見知らぬ人ばかりの街の通りや、まだ慣れていない人の多い金天街でも、彼女は盛んに尊を頼りとした。
事ある度に跳び付いてきて、しばらくは離れようとしない照子を、邪魔をされ通しとなった尊は煙たく感じていた。
だが、そんな彼女を放り出す訳にもいかず、預けられる相手もなかなかいない彼は、ほとほと困り果ててしまっていた。
そして、互いの距離が縮まり始めて数日が経過したこの日もまた、彼は離れようとしない照子に悪戦苦闘していた。
「やだぁ、行く! 照子も、一緒行くぅ!!」
駄々をこねる照子は、珍しく大きな声を出して、尊の黒いジーンズを力いっぱいに掴んでいる。
彼は苦み走った表情を浮かべ、真向かいの恵実を見上げる。
救いを求める尊の眼差しに、彼女はお手上げとばかりに肩を竦めた。
「こうなったら、もう一緒に連れて行ってあげたら? 別に、照子ちゃんがいたら、絶対に駄目ってことでもないし」
「簡単に言ってくれるなよ。こいつ連れて銭湯に行くとか、絶対に嫌だからな、俺は」
足を掴んで放さない照子に、尊は顎を伝う汗を拭いながら溜め息を零した。
この日、尊は重い荷物の運び入れや、調理場での火を使った業務などを、いつもより多めにこなしていた。
なので、一日の仕事が全て一段落した頃には、彼はかなりの汗だくとなってしまっていた。
そこで、風呂無しの家に帰る前に、尊は近所の銭湯に寄って行こうと考えた。
そのために彼は一旦、照子を比較的彼女と仲良くなっている恵実に預けようとした。
しかし照子は、尊と離れ離れになるのを、頑なに拒んでいたのだった。
しがみ付く彼女を押し退けようとしている彼に、恵実は力無い笑みを向ける。
「そんなに邪険にしなくてもいいじゃない? それともひょっとして、照子ちゃんと一緒にお風呂入るのが、尊お兄ちゃんは恥ずかしいのかしら?」
「がっ!? んっ、んな訳ねえだろが!! 入浴中でまでこいつの世話するとか、いい加減にお断りしたいだけだっつうの!」
「そう言えば、照子ちゃんって普段はお風呂どうしているの? 今まで銭湯に行ったこともないんでしょ?」
「そういえばこっちに来てから、一回も入れてないな。まあ、体が汚れる機会もほとんどなかったし、そんな必要もなかったしな」
身体が強靭な神は、人間に比べてあまり汗をかかない。
そしてそれは、紛いなりにも神である照子も同様である。
なので、いつもはツクヨミが調達してきた新品の衣服や下着に、定期的に着替えさせるだけで済ませていた。
尊が照子を一度も入浴させなかったのには、そういった裏事情があった。だが、それを知る由もない恵実は、彼の答えを耳にした途端、凄まじい形相で尊へと詰め寄った。
「ちょっと、嘘でしょ!? 服を変えてるだけなんて、信じられない! あんた一体、何を考えてんのよ!?」
「い……いや、だけど、全然汗臭くもねえし│」
「この年頃の子どもは、何もしてなくても汗を沢山かくの!! ああもう、あなたってば、そういったのにホント疎いんだから! だから知り合いの女性のことも、変にみんなの噂になったりしちゃうのよ!」
「あまり関係ないんじゃねえか、それ? つうか、たがが風呂程度で、そんなにカッカすることないだろ」
「屁理屈言ってるんじゃないの! いいから今日は、照子ちゃんを銭湯に連れて行きなさい!!」
顔を真っ赤に高揚させ、彼女は有無を言わさずに彼らを送り出す。
取り付く島のない彼女の剣幕に、尊は仕方なく照子を引き連れ、『穂恵味』を後にした。
夕方の金天街は、買い出しの主婦達や帰宅途中の学生などで、ちょっとした混雑を起こしている。
ごったがえしている人通りの中、尊は換えの下着やタオルを詰めた手下げ袋を持っているのとは反対の手で、照子の手を引いていた。
「ここで迷子にでもなられたら面倒だからな」と、彼は後ろにいる照子に、口を酸っぱくして何度も言い聞かせていた。
商店街の通りを抜け、尊達は夕日に赤く染まる住宅街を歩いて行く。
間もなく彼らの進む先に、大きな平屋が現れる。
総瓦の屋根越しに煙突を覗かせているその建物が、『三島銭湯』だった。
表玄関である古風な対の引き戸を、尊はガタつかせながら片方だけ開く。下駄箱へと靴を入れた彼は、青い暖簾を分けて中を覗き込む。
仕切りの間に設けられた台の上には、もんぺ姿のよく似合う、小柄な老女が正座をしていた。
「よう、三島の婆さん。ちょっと訊きたいんだが、こいつ男湯に入れても大丈夫か?」
尊は後ろに引っ込んでいた照子を、彼女に見えるように前に出す。
古びた文庫本に目を落としていた彼女は、身を固くする少女を老眼鏡越しにちらりと確認する。再び本の文字列を目で追いながら、ぶっきらぼうな声で彼に問い返した。
「もし駄目だって言ったら、そのおちびさんを一人で女湯に入れるつもりなのかい?」
「そんなつもりは、さらさらないが……。だがここでも、年齢制限とかあったりすんじゃねえのか? 今まで気にしたことなかったんだけどよ」
「特にないさ、そんなもの。それでも気になるっていうんなら、あんたが女湯に入ればいいんじゃないかい?」
尊にとってはある意味で魅力的な申し出だったが、現実問題として乗る訳にはいかなかった。
ともかく女主人の許可を得た彼は、二人分の料金を払って畳敷きの脱衣所へと入る。
尊は服を脱ぎ、棚の竹カゴへと放り込む。
照子も彼を真似て、一番下のカゴに自分の服を収めていた。
持参したハンドタオルを腰に巻いた尊は、『三島銭湯』の主人から借りた分を彼女に渡し、浴室へと向かった。
曇りガラスを開けると、そこは蒸気によって一面が白く煙っていた。
蛇口や鏡がずらりと並ぶ列の間には、ちらほらとしか人の姿はない。夕食前に当たるこの時間帯は、通常時と比べて利用者は少なめであった。
後ろから尊を、しわがれた声が呼び止める。定位置である台から降りた三島婆が、せかせかと足を動かして彼らを追ってきていた。
「あんた、その子をそのまま入れるつもりだろ? こっちとしちゃあ、それは困るんだよ。ちょっと待ってな」
尊へとそう捲し立てながら、彼女は照子へと素早く歩み寄る。タオルで体を隠していた照子が抵抗する間もなく、彼女の長い髪を頭上で一括りにした。
「これなら、髪が浴槽に落ちることもないね。この子の髪を洗った後も、あんたが同じようにしてやるんだよ、いいね?」
そうして三島婆は、さっさと元の場所に戻っていった。
尊や照子に反応する暇を与えない、見掛けからは想像もできない身軽さだった。
突然重くなった頭に、照子は戸惑いを隠せないでいる。団子となった髪を解こうとするのを止めさせながら、尊は彼女と共に浴室へと足を踏み入れた。
室内の空気はじっとりと重く、タイル張りの床はしっとりと濡れている。
水が溜まった場所が滑りやすくなっているのに気付いた照子は、こっそりとスケートの真似事をして遊んでいた。人見知りをする反面、彼女は何気に好奇心が旺盛だった。
滑る感覚を楽しんでいる照子を捕まえ、尊は温度を調節していたシャワーを首筋から掛ける。体を流れ落ちるお湯に、彼女はビクリと震え上がった。
「ふわうっ!? このお水、温かいよミコト!」
「冷たいよりかはマシだろ。いいから、暴れねえでじっとしてろ」
彼女を簡単に洗い終えた尊は、自分の汗と埃を流し、浴槽の方へと足を向けた。
壁際に置かれた湯船には、溢れんばかりの湯が湛えられている。
シンプルな形をした注ぎ口の近くには、三人の中年男性が並んで座り、反響を効かせた声で雑談に興じていた。
その内の一人が尊に目を留め、小さく驚きの声を上げた。
「おう、ミコっちゃんじゃねえか!? お前もひとっ風呂浴びに来てたのか?」
「あ、本当だ。こんな所で会うなんて、奇遇だなぁ」
それは、尊の飲み仲間である男達だった。
彼らの中には、自営業を行っている者もいれば、特定の職を持たない者もいる。比較的時間に余裕のある三人は、その空いた時間を使い、連れ立って銭湯にやって来ていたようだった。
適当に挨拶を返し、尊は抱え上げた照子を浴槽にゆっくりと浸ける。
足先から伝わる熱と水の感触に、彼女は最初びっくりとしていた。
だが、縁に沿って一段高くなっている場所に座り、肩までじっくり浸かっている内に、彼女もだんだんとお湯の熱さに慣れていった。
人心地つき落ち着いた照子は、湯気の立つ水面を手で切って遊び始めた。そんな彼女を横目に、飲み仲間の一人が、湯船に身を沈めた尊へと質問する。
「なあ。この子が噂の、ミコっちゃんが世話してるっていう女の子か?」
「まあ、な。つうか、お前らまで知ってんのかよ、こいつのこと」
「金天街の常連なら、ほとんどの人が耳にしているぞ。君の所に凄いべっぴんさんな女の子が来て、どんな時もいつも一緒にいるってな」
尊と会話をしながら、彼はおもむろに噂の当人を指す。
自分が話題に上げられている雰囲気を察知し、彼女は水遊びを止める。注目する男達を心細そうな面持ちで窺いながら、照子は隣にいる尊へと擦り寄っていった。
そんな彼女の様子に、一番奥にいた男性が快活な笑い声を響かせる。
「ずいぶんと懐かれちゃってるみたいじゃないか、尊。こうして見ると、仲良しな兄弟か親子そのものだよ」
「あっ! まさかその子、実はてめえの娘なんじゃねえか!? そういや二人とも、顔がどことなく似てっしな!」
「そういえば、そうだね。ひょっとしてお母さんは、八坂さん家の恵実ちゃんだったりするのかい? 尊君、彼女と確か付き合ってたよね?」
彼らは身内で盛り上がり、話を勝手な方向に飛躍させていく。
反対に半ば白けながら、尊は淡々とした口調で切り返す。
「楽しんでいるとこ悪いが、色んな意味でそれはない。第一、俺がここに来たのは二年前だぞ。こいつ、何歳に見える? 物理的というか現実的に、無理があるだろ」
「そこはさ、紆余曲折あって別れざるを得なくなった恵実ちゃんを、数年の歳月を経て君が訪ねてきて│」
「そういった系のメロドラマの見過ぎじゃねえのか、お前?」
彼らはその後も、中身のないやり取りをダラダラと続けた。
その内、尊の傍にいた照子の顔の赤みが増し、クラクラと頭を傾け出す。早くも彼女は、お湯の熱さに逆上せ始めていた。
尊は、彼女を急いで外へと引き上げる。飲み仲間達に断りを入れると、彼は少し足元の覚束ない彼女を支えて、洗面台の方へと戻った。
尊はぼんやりとしている照子をイスに乗せ、底に頭痛薬の名前が書かれた黄色い桶へとぬるま湯を注ぐ。人肌ぐらいの温度に調節した水を、彼女の頭から一気に被せた。
「わぷっ!? ぷふううっ、冷たあい!?」
突然浴びせられたぬるいお湯に、照子は小さく跳び上がる。
纏められた髪が解けるまでに頭を振り、彼女は眼元を慌てて擦っていた。
「おっ、ちょっとは復活したか。良かった良かった」
「良かったじゃない、お水が目に入ったあっ! ミコトのバカあっ!!」
「おっと、分かった、俺が悪かった。謝るから、こんなとこで騒ぐな」
浴場内に甲高い声を響き渡らせながら、照子は両の拳を尊へと振り回した。
顔を怒りに上気させる彼女を、尊はどうにか宥めて落ち着かせる。彼女の騒ぎ声は、他の利用客の目を集めていた。
どうにか照子を落ち着かせ、尊は自分も腰掛けへと座る。
彼は背を向けている彼女を前に、ある難問に直面した。
彼女の髪をどうやって洗うべきかが、彼には今ひとつ分からなかったのだった。
腰の辺りまで伸びている照子の長髪は、肩の近くから先端にかけては、見よう見まねで洗髪できる。だが問題は、地肌を直接シャンプーで洗う時だった。
彼女は頭から水を掛けられただけでも、慌てふためき大激怒していた。
これが目に染みる泡の混ざった物となれば、彼女が前にも増して大騒ぎするであろうことは、尊にも容易に想像がついた。
しかし、もし洗い方をなおざりにしてしまえば、恵実の臭いチェックに引っ掛かる恐れもある。
彼としては、これ以上の余計な面倒事は、可能な限り避けたかった。
髪を洗って流すまで、ずっと目を閉じさせていれば良いか。
そう簡単に見切りをつけると、彼は持参していたシャンプーの容器へと手を伸ばす。
その時、浴室と脱衣所の境にある引き戸が、音を立てて開かれる。そこには、三島婆が微かに前屈した姿勢で屹立していた。
彼女は細めた両目で、男湯の一帯を見渡す。
鋭く圧の強い彼女の眼光に、客の男達は思わず下半身を覆い隠していた。
間を置かず、三島婆は白く煙ったレンズ越しに、尊の姿を発見した。
彼が照子の髪を洗おうとしているのを確認し、彼女は耳をつんざかんばかりのしゃがれ声で叫ぶ。
「荒之音、受け取りな!!」
そう言うが早いか、三島婆は腰に回していた右手を振り払う。同時に、高速で回転する円盤が、彼女の腕から発射された。
空気と湯気を裂いて、放たれた飛行物体は尊の眼前へと迫る。
彼はその軌道上から身をかわし、頭を掠めた飛翔物を掴み取った。
ピンク色の傘の、シャンプーハットだった。
「それがあった方が、やりやすいだろう? 後で綺麗にして、ちゃんと返しなよ」
三島婆は遠目からそう尊に告げると、返事を待たずに戸を閉めた。
彼は投擲された入浴用品と、彼女が消えた先を見比べる。
見計らったようなタイミングの良さに、尊の顔には自然と苦笑が浮かぶ。照子はそんな彼を、不思議そうに見上げていた。
彼女を前へと向き直させると、彼は渡された道具をその頭へと嵌めた。
額を締める帽子状の物体に、照子は驚き、外そうとしてもがいた。
むずかる彼女の機嫌を繕いながら、尊は波打つツバの間に生えた頭に、手早くシャンプーの泡を立てる。
「わひゃあ!? あははっ、くすぐったいよぉ!」
頭皮にまんべんなく加えられる刺激に、照子は笑いながら身を捩る。尊はふらつく彼女を固定しつつ、ボディソープを含ませたタオルを渡し、自分で体を洗うように言い付けた。
照子は言われるまま、自分の腕や足をタオルで擦る。生地から止めどなく溢れる白い泡に、彼女は楽しそうにはしゃぎながら、それを体へと塗って遊んでいた。
長い髪を苦労しながら先端まで洗い終え、尊は遊び道具にされていたタオルを取り上げる。彼は仕上げとして、彼女の薄い背中の洗い残しを隈なく片付けた。
最後に、尊は照子の目を閉じさせると、調度良い温度にしたシャワーで全ての泡を洗い流す。
シャンプーハットを外し、水気をきった髪を一纏めにして、彼女の洗浄は完了した。
慣れない作業に従事したことで、尊は若干くたびれてしまっていた。気だるそうにタオルを濯いでいる彼に、照子は怪訝そうに首を傾げる。
「ミコトは体、キレイにしない? もう白いの、ジャブジャブしてる」
「あ? んにゃ、……もう一回使う前に、洗い直してるだけだ」
「じゃあ、今度はテルコがミコトの背中、ゴシゴシする! それ、テルコにちょうだい!」
彼女は尊の手から、洗濯中のタオルを強引に奪う。彼の後ろに回ると、照子はビショビショに濡れそぼったそれで、背骨の上を乱雑に擦り始めた。
彼女は両手を大きく上下に動かしながら、「ごーしごーし」などと即興のリズムを口ずさんでいた。
止めるように言っても無駄な雰囲気に、尊は肩を落とし、彼女の好きなようにさせる。
広い背中を一通り洗って満足した照子は、彼の洗髪も自分がすると言い出した。
「お前じゃ、届かないだろうが。お前は風邪ひかねえように、先に風呂に戻ってろ」
「っん……ヤダ。熱いし、大きい人いるし……」
「あいつらならさっき外に出て行ったし、誰もいねえよ。俺もすぐに行くから、大丈夫だ。それに、あんだけ広い場所にたった一人だ。今なら、泳いで遊べるぞ」
そんな彼の言葉に、照子は期待に目を輝かせる。
彼女はやや躊躇いながらも、小走りでその場から去っていった。
どうやら当の本人は、水遊びが思いの外、気に入っていたようだった。
彼女が無人の湯船へと控えめに跳び込むのを、尊は遠くから眺める。おとなしめに遊泳しているのを確認してから、頭を洗いにかかった。
「子どもに公共のマナーを破るよう勧めるとは、いかにもお前らしい教育方針だな。反面教師としては合格だが、里親としては失格だぞ」
髪に洗髪剤を掛けたところで、不意に尊は野太い声を聞く。彼のすぐ左側の席にはいつの間にか、がたいの良い五分刈りの男が現れていた。
揶揄と非難を器用に表しているその顔に、尊は見覚えがあった。
曇りの浮いている鏡面へと視線を戻し、彼は軽く鼻で笑った。
「なら、それで充分だ。悪いが俺は、模範的な親になんてなるつもりはないからな」
「ふん、だろうな。全く、お前のような無精者に幼い娘を預けた親の顔を、一度で良いから見てみたい。よっぽど、人の見る目がない顔をしているんだろうな」
「どんなツラだよ、それ? まあ、せいぜい勝手に想像してろ。関係のないお前とは、絶対に会う機会もないだろうからな」
「そうかもな。だが、次に話をすることがあったら、俺の寺のことを伝えておけ。不規則で無軌道な生活を送っている奴より、よっぽど整った環境で娘さんの世話をしてやるとな」
頭を洗いたてる尊に、男は冗談めかした口調で告げる。
だが、彼が本気でそう言ってもいることを、尊はそれとなく把握していた。
浅黒く屈強な体付きをしたその男は、ここからそうは離れていない場所にある、とある寺の住職だった。
そして彼は、多くの身寄りのない子ども達を育てている人物としても、町では少し名の通っている人物だった。
彼は児童保護施設などで持て余しているような、癖のある児童をあえて引き取り、身元請負人となっていた。
そんなことから、彼は人格者であると同時に、ある種の変人という認識が一般には定着していた。
尊はこの町に来てからすぐの頃、彼からの訪問を受けたことがあった。金天街に度々出現しては、日給を稼いでいく少年の噂を聞き付け、その正体を見定めようとしたのだった。
家出少年だと決めてかかる住職に、尊は膝を突き合わせて、相手の誤解を解こうと懸命に説明した。
結果、場合によっては寺に引き立てようとしていた彼を、尊は半日以上の時間を費やして説き伏せた。
以来、尊と住職は顔見知りとなり、今では不定期にお互いを訪ねる仲となっていた。
もっともその大半は、住職が監視の意味合いも込めて、尊の家へと偵察に行く回数で占められていた。
そんな、友好的な関係とは言えずとも浅くはない間柄の彼に、尊は愛想もなく尋ねる。
「それはそうと、どうしてお前がここにいんだ? 家の風呂でも壊れたか?」
「こっちの方に、少し顔を出さなければならない用事があってな。近くに来たものだからという訳で、ついでに汗を流していこうと思っただけだ」
「家のガキ達、放っといていいのか?」
「あいつらの中には、面倒見の良いしっかり者もいるから、問題ない。だが、俺の子どもの心配をしてくれるなんて、お前もすっかり親目線が板に付いているみたいじゃないか」
住職の軽い嫌味に、尊はむっと顔を顰める。
視線を合わせないまま、彼は不機嫌そうな低い声を洩らした。
「あのな、お前があいつのこと、どれだけ聞いてるかは知らねえが、俺は親代わりになるつもりはさらさらねえんだよ。無理矢理押し付けられて、仕方なく面倒見てるだけだ」
「そうだろうな。だが、それでもお前は、あの子を受け入れた。そうだろう?」
思わせ振りな相手の言葉に、思わず尊は頭上の手を止めた。
返す答えを考えあぐねている彼をよそに、住職は蛇口の栓を閉め、億劫そうに腰を上げる。
タオルを肩に掛け、彼は傍らの尊を見下ろす。その眼には、かつて尊を初めて訪ねた時と同じ、深い真剣な光が宿っていた。
「不本意でも預かったのなら、最後まで責任を持って守ってみせろ。それが、彼女やお前自身に対する、筋の通し方というものだ。とにかく頑張れよ、新人パパさん」
最後にそう言い残して、住職は外へと引き上げていった。湯煙の中を遠ざかる大きな背に、尊は「誰がパパだ」と苦々しく呟いた。
反感を顕わにしていた尊の胸中には、彼の姿が見えなくなると同時に、様々な思いが沸き起こってきた。
あの男は、自分や照子の正体どころか、本当の事情さえ知りはしない。
単に彼は、自らの感覚に照らし合わせて、こちらの状況を判断したに過ぎない。
だからこそ、ただの人間である彼の助言は、神である自分には取るに足らないものである。
そうであるに、違いないはずだ。
ぼんやりとそんな考えを紡いでいた彼は、右目に染みる泡の痛みに我に返った。
手の甲で目頭を拭い、壁に掛けてあるシャワーヘッドへと手を伸ばす。そこで、床に落ちているシャンプーハットが、彼の霞んでいる左目へと映った。
尊はタイルの上にへばり付いていたそれを手に取り、しげしげと眺め回す。ふっと、彼は自嘲めいた笑いを浮かべた。
「なあ。あいつを守る方法、俺にも教えてくれよ」
尊の軽口での問いに、柔らかい樹脂性の先輩は、ただ沈黙を貫いていた。
湯船で体を温め直した後、尊と照子は脱衣場へと出た。
風呂から上がった後も、照子にリンスを使わなかったことを三島婆から責められたり、照子の髪をドライヤーで乾かしたりするなど、尊は多忙を極めた。
ようやく彼が一段落ついた頃、先に身支度を終えていた飲み仲間達が、「これからいつもの店に行かないか?」と誘ってきた。
彼らの行き付けである金天街の居酒屋は、『三島銭湯』のすぐ近くにあった。
緊張しいの照子を一緒に連れて行くのは、尊にもさすがに抵抗があった。だが、雰囲気的にも断り辛く、夕食もまだ済ませていなかった彼は、同行することに決めた。
銭湯から出た彼らは、連れ立って馴染みの飲み屋へと向かった。
時々尊も働きに来ているそこは、やや早い時間帯ということもあって、席は空いていた。
顔見知りの店主夫婦と挨拶を交わしてから、彼らの宴会は始まった。
早速数人はタバコを取り出していたが、店主の妻の「照子ちゃんがいるでしょう!」という叱咤が飛ぶ。
愛煙家達は不承不承ながらも従い、その日は全面禁煙となった。
こうした飲み会が催された際は、もっともらしい政治批判から仕事の愚痴、灰汁の強い下世話な話などが取り交わされていた。
だが、この夜の彼らの注目は、飛び入りの参加者に集中していた。
「しっかし、ミコっちゃんが子どもの世話してるとか、改めて考えてみたら信じられねーことだよな。どんだけ職業スキルが豊富とはいっても、保育士的な仕事とか絶対似合わねーし」
「似合わなくて、結構。こいつを預かってるのも、本当は渋々なんだからな」
「とか何とか言って、なかなかに良いお父さんっぷりじゃないか。少なくとも、うちの娘がそれくらいの年頃だった時の自分よりかは、子どもに懐かれていると思うけどな」
「その時のツケで、今では口も利いてくれない程に嫌われてしまっているんだろ? お前んとこの娘が照子ちゃんくらい可愛かったから、お前もちゃんと相手をしてたんだろうけど、な?」
「おいおい、今のは聞き捨てならないなあ! いつまで経っても一人身なお前には、娘を持つ大変さが分からないんだよ!」
酒も回って饒舌になった男達は、音量の増した声で叫び交わす。
時折響くような笑い声も上げる彼らに、照子はすっかり委縮してしまい、ずっと尊の脇へと張り付いていた。
それでも、彼女は運ばれてくる焼き鳥や枝豆への興味は失わず、尊の分まで食い尽くしそうな勢いで口へと運んでいた。
尊はジョッキのビールに口を付けつつ、照子へと料理を取ってやったり、飲み仲間の会話に相槌を打ったりなどしていた。
しかし彼の思考は、今いる居酒屋の座敷席から離れ、遥か彼方へと飛んで行っていた。
照子を受け入れた自分には、彼女を守り通す責任があると、あのお節介坊主は言っていた。
だが、随分と長い間風来坊を続けてきた身としては、誰かを守ることの責任や義務というものが、今ひとつ理解できない。
第一、この照子の正体は、あの憎んでも憎み切れないアマテラスなのだ。
自分で手を下すのは無理だったが、もし照子が何か危険な目に遭いでもしたら、自分はどう行動するのだろう。
便利な人間界が滅亡するのを回避するため、迷わずに彼女を助けるのだろうか。
それとも、ざまあみろと舌を突き出しながら、見て見ぬ振りをするのだろうか。
そして、坊主の言っていた照子に対する責任というものは、その時の自分をどう動かすのだろうか。
尊の脳裏には取り留めのない考えが入り乱れ、答えのない一人問答を延々と繰り返していた。
と、珍しく悩みに沈んでいた彼は、左腕にかかる重さが増しているのに気付いた。隣に座っていた照子は、食べかけの串焼きを手にしたまま、ウトウトと船を漕いでいた。
眠りに落ちかけている彼女に、追加のビールを持ってきた居酒屋のおかみさんは、あらあらと声を上げる。
「照子ちゃん、もうおねむみたいね。お腹いっぱいになっちゃったのかな?」
瞼を閉じる寸前で止めている照子の口を、彼女は優しくナプキンで拭う。唇を強めに擦られた彼女は、寝ぼけたままそれを払おうとしていた。
「荒之音君、照子ちゃんもこんなになっちゃってるし、今日は早く帰った方が良いんじゃない? 今夜は、これから雨が降るみたいだし」
「そうなのか? じゃあ、俺はそろそろお暇させてもらうとすっかな」
「何だよ、もう帰んのか? もうちょいゆっくりしてけよ、ミコっちゃん」
「まあ、しょうがないじゃないか。照子ちゃんを無理に引き止めとくのも、悪いしね」
尊はおかみさんに手伝ってもらい、寝ぼけている照子を背負う。厨房の中にいた割烹着姿の主人が、店のビニール傘を持って行くよう声をかけた。
「ちっとだが、雨もパラついてるからよ! その子が濡れちまったら可哀想だから、余ってるやつをどれでも使えよな!」
照子を起こしそうな大声を出す彼に、尊は潜めた声で手短に礼を言う。
彼は入口脇の傘立てから適当に引き抜くと、居酒屋夫婦と飲み仲間達に別れを告げ、店を後にした。
夜空には月や星の光はなく、肌には細かい雨粒の感触があった。
尊は照子を担ぎ直すと、彼女を支えているのとは逆の手で傘を開き、自宅へと急いだ。
小雨混じりの夜の空気は、季節外れの肌寒さを帯びていた。寝息を立てている照子の体温が、尊の背には熱い程に感じられた。
街灯の明かりが冴え冴えと光る街路を歩きながら、尊は奇妙な感慨へと浸っていた。
まさか、あのアマテラスをおんぶして帰路へとつく日がくるとは、つい先日まで尊は思いもしていなかった。
結果的に彼女の存在は、尊を酒宴から早めに引き揚げさせる原因となった。
思い返してみれば今日という日は、彼は終始照子に振り回され通しだった。
そのはずなのに、不思議と尊には怒りの感情が湧いてこなかった。
それどころか、彼は知らず知らずの内に、帰宅してからの彼女の世話について考えを巡らせてさえいた。
「……少し、おかしくなってるか、俺?」
徐々に照子への世話が定着しつつある自分の考え方に、我に返った尊は苦み走った表情となって呻く。
少し前なら、子どもの、しかもあの姉の面倒を見るなど、死んでもお断りする事柄だった。
だが、半ば押し付けられるように彼女を預けられてからというもの、尊は少しずつだが確実に、照子がいる生活に馴染んでいってしまっていた。
果たして、自分がここまで変わってしまった理由は、何なのだろうか。
自分は未だ、アマテラスを許した訳ではない。
だとすれば、これは一種の諦めからくる、忘我の境地というものなのだろうか。
だが、照子を疎ましく思う気持ちは、今でも確かに残っている。
では、なぜ自分は、こうも甲斐甲斐しく彼女の子守りをしているのだろうか。
再び思考の無限ループに陥ったまま、尊はビル屋上の自宅へと到着した。
ツクヨミの姿は、部屋にはなかった。おおかた、漫画喫茶やネットカフェにでも行っているのだろうと、尊は大して気にもかけなかった。
尊は照子を起こし、歯を磨かせてからパジャマに着替えさせる。
ようやく彼女を寝かしつけてから、彼も寝支度を整える。
電気を消してベッドへと入ったところで、ようやく尊は一息つくことができた。
尊は固い寝具に仰向けになり、三角形の屋根の裏をぼんやりと見上げた。
じわじわと眠気を覚えながら、彼は今しがた寝かせた照子について考える。
彼女が来てからというもの、今までの日常は悪い意味で変わってしまった。
なのに、自分はそれを何だかんだで受け入れてしまっている。
加えて、七面倒な面倒見まで、自発的にしている始末だった。
そこに、特別な『理由』などありはしなかった。
ただ単に、照子としての彼女がそこにいて、相手が必要とすることをこなしていく。反感を抱くよりもまず、自分がやれることをやっていく。
もしかしてこれが、彼女に対する、自分なりの『責任』なのだろうか。
その自問への回答を、彼は持っていない。
疑問を抱かせたあの住職も、ここにはいない。
そうした思い付きが正解かどうか分からないまま、尊は雨音のノイズに誘われるように、夢の底へと落ちていった。
誰かに揺り起こされたような気がして、尊は目を覚ました。
辺りはまだ、深い暗闇に覆われていた。街灯の明かりが滲む小窓には、激しい風の音と共に大粒の雨が叩き付けている。
どうやら夜の内に、外は嵐となっていたようだった。
尊はあくびを噛み殺しながら、枕元の時計を確認する。
二つの針は深夜の時間を指していたが、彼は別に喉の渇きもなく、尿意を催してもいなかった。
なぜ自分が目を覚ましたのか、尊は戸惑いを抱く。
その時、彼はふと胸の辺りに違和感を抱き、薄手の毛布を捲って中を覗いた。
布団の陰になっている暗がりには、彼の体にしがみ付き、尊をじっと見詰め返す子どもの目が光っていた。
「うおわっ、とぉ!?」
驚きの声を上げた尊は、相手を蹴り飛ばそうとするのを寸前で堪える。
そこで上目遣いに彼を見詰めていたのは、照子だった。
その正体を知ってほっとした尊は、彼女が勝手に自分の寝床へと潜り込んで来たことを怪訝に思った。
彼女の寝る場所は部屋の片隅であり、トイレに行った際に場所を間違えたとも考え辛かった。
「どうしたんだよ、おい? どうしてお前が、こっちに来てるんだ?」
強い口調で尊が問いかけると、彼女は毛布の中からのそのそと出る。ベッドの上にペタンと座ると、怯え切った顔で彼を見上げた。
「だって、お外がビュウビュウなってるんだもん……。だから、照子、怖かったから……」
その言葉少なな説明で、外のけたたましい風音で起きた照子が、恐怖のあまり自分の寝床に来たことを尊は理解した。
早く戻れ、と尊は口にしかけるが、不安を湛えた円らな瞳に視線がぶつかる。
照子は彼の反応を恐る恐る窺いながら、膝もとのシーツを握り締めている。また独りで寝なければならないのを嫌がっているのは、分かりやすい程に明らかだった。
彼女の切実な眼差しに、尊は気まずそうにうなじを擦る。
彼は少しの間逡巡した後、再び寝床へと横になり、体を少しずらして壁際へとスペースを空けた。
「今日だけ、特別だからな。明日からは絶対に、自分だけで寝ろよ」
譲歩を含めた彼の言い付けに、照子は顔を輝かせて頷いた。
彼女は毛布の下へと跳び込むと、尊の頭の辺りまで這い上がっていく。
照子は尊にぴったりと身を寄せ、彼の投げ出されている二の腕に頭を乗せた。 鼻先が触れそうな近さにある彼の顔に、彼女はくすぐったそうな、あどけない笑いを零した。
使っていたシャンプーは同じはずだったが、照子の長い髪からは、ほんのりと良い匂いが漂ってきていた。
よく分からない内に気恥しくなった尊は、彼女から目を反らして天井を向いた。
尊の傍らでしばらくもぞもぞと動いていた照子だったが、次第にそれもおとなしくなっていった。腕枕をしている彼女の顔では、とろとろとして瞼が閉じかけ出していた。
やがて規則正しい寝息が聞こえ始め、尊は彼女が眠ったことを知った。
彼はやれやれと嘆息しながら、右へと頭を傾ける。目と鼻の先にある小さな寝顔は、安心しきったように、安らかな表情になっていた。
静かに熟睡する照子を見ながら、尊は脱力した笑みを浮かべる。
行き掛かりとして仕方がなかったとはいえ、彼女に添い寝まで許すとは、我ながら甘いとしか言いようがなかった。
こうなったのも自分が少し前まで、照子を守るということについて考えていたからかもしれない。
だからこそ、風の音に怯え震えている彼女を、何となく放ってはおけなくなったのだろう。
尊はそんな自己反省をしながら、彼女に倣って両目を閉じる。
腕にかかる圧迫感は若干鬱陶しかったが、別に我慢できない重さではなかった。
照子の体温と香り、そして頭の重みを感じながら、尊は彼女と同じく、深い眠りの世界へと沈んでいった。
話は、金天蓋の居酒屋を尊達が後にした、数時間前に遡る。
眠りこける照子を背負い、通りを歩いて行く尊。
それを遠く後方から眺める、ひとつの影があった。
物陰に身を隠していた男は、充分に互いの距離が開いたのを確認し、潜んでいた脇道から出る。
街灯に黄色く照らされる二人を遠望し、彼は丸みのある肉付きの良い顔を失笑に歪ませた。
中年にはまだ若い風貌のその男は、右の手に奇妙な形をした大振りの杖を持ち、恰幅の良い体を支えている。
豊かな髪は七三に分けて整えられ、魚柄の千鳥模様がプリントされたシャツや金のラメが入った上着を、やや着崩しながら身に付けていた。
異様な風貌の男は、尊と照子が通りの角に消えるのを見届ける。それから彼は、杖の固い音を辺りに響かせながら、彼らが出てきた居酒屋へと足を向けた。
暖簾を潜り店内に入った彼を、焼き鳥の煙と、酔客達のざわめきが出迎える。
「いらっしゃいませ。お一人さまでしょうか?」
男に気付いた店のおかみが、食器を下げながら男に尋ねる。
彼はにっこりと笑みを浮かべ、彼女へコクコクと顎を引いた。
「ああ、そうや。せやから、こんカウンターの端っこの席、わいが座ってもええか?」
「え、ええ、大丈夫ですよ。どうぞ」
訛りの強い関西弁を返され、おかみは少し戸惑いながらも、彼を希望の席へと案内する。
客の足が悪いと見て取った彼女は、椅子を引いて男が座り易いようにする。
彼は「えろう、すんません」と頭を下げ、腰を降ろした。
愛用の杖を台に立て掛け、男は「とりあえずビール貰おか」と行きがけのおかみに注文する。
一息を入れて寛ぐ男に、カウンターの内側で調理をしていた店主が声をかける。
「お客さん、ここら辺じゃあ見ない人だね? 喋り方からして、関西の人かい?」
「残念やけど、外れやで大将。まあ、自分の出身はそことちゃうけど、やっとる会社があんのはそっちの方やから、そういった意味では正解かもしれんけどな」
「へぇ、あんた社長さんかい!? 道理で、随分と羽振りが良さそうだ!」
「社長言うても、しがない会社のやで。せやから、今回ちっとばかしこっちに用があっんやけど、わい自ら出てきたっちゅー訳や」
「こっちって、この商店街にですかい? もしかして、何か店を新しく開かれるとか」
「うーん、それは半分当たりで半分外れやな。ま、どうせ近い内に分かるやろから、楽しみにしとき」
持って回った彼の言い草に、店主はおかしそうに笑いを返す。
おしぼりで顔を拭いていた男は、彼へとすまなそうな調子となって質問をした。
「悪いんやけど大将、こん商店街で一番偉い人の連絡先、知らんか? わい、商売のことについて、そん人と話がしたいんやけど」
「会長さんですかい? 取次なら、まあ、俺でも出来ますけど……」
突拍子のない問い掛けに、焼き鳥を焼いていた店主は、ちらりと男を見遣る。
微かに疑いの表れていた彼の視線に、突然男はおかしそうに笑い始めた。
「せやったせやった、そういや自己紹介がまだやったなぁ! そらあ、どこの馬の骨ともしれん奴に、自分とこの身内の個人情報なんか教えられんわなあ!」
そう独りで納得していた男は、懐から銀色のケースを取り出す。
そこから彼は名刺を一枚引き抜くと、カウンターの上へと差し伸べた。
身を乗り出してそれを読む店主に、男は飛びきりの笑顔を作り、丁寧に会釈をした。
「わいは、Yeviss Corporationちゅう会社の最高経営責任者をやっとるもんで、西宮一三郎と言いまんねん。どうぞ今後とも、よろしゅうお願いしますわ」