夜
空が暗くなったころ、電話が鳴った。不吉な予兆のような音で。
りりり、りりり。
そして、冒頭に戻る。
すでに相手のいない受話器を置いて、あたしは無造作に束ねていた髪を解いて、手櫛を入れる。そうしたところで、何かが変わるとは思えないけれど。すぐに玄関のチャイムが、ピンポーンと間抜けた音を立てた。
「ゲン…」
ドアを開ければ、ヤツは何でもないような顔でよっと言って片手を上げる。あたしの口は、ヤツの名前を呼んだだけで正常作動を停止してしまった。うまく息ができているかもよく分からない。後ろ手で、玄関のドアを閉めた。
東京どう?こっちは相変わらず。大学どんな感じ?楽しい?あたしは結構楽しんでる。友達できた?あたしはできたよ。おしゃれで可愛い女友達と、それから男友達も。
ねぇ、カノジョは?
「ほら、土産。」
手渡されたのは、どこの駅でも売っていそうな箱入りのお菓子。爪の先程の期待が、ふっと掻き消えた。
ああ。あたしに、じゃないのね。
「あり、がと」
「雛子、元気そうだな。相変わらず…」
「ゲンこそ、都会に染まっちゃって!」
切られた言葉尻はなんだったんだろう。
名前に合わず、すらっと細身で整った顔立ち。うらやましいほどまっすぐで黒光りしていた髪の毛は、いつの間にか栗色に染められて、パーマがかかっている。こんな田舎じゃなくて、ちゃんと東京に馴染んでいるんだろう。
さっと全身に走らされた視線に痛んだ胸は、見ないふりをした。
「大学、どう?」
「ん、まぁまぁ。」
「俺は楽しい。」
「それは見りゃわかる。」
話しはじめてしまえば、さっき感じた気まずさは徐々に霞んでいく。一年と半年、会っていなくても。いつの間にか、オトナになっても。
そうか?と言ってふんわり笑ったゲンは、やっぱりおばさんの息子だった。
決まりきったように自然に、あたしたちは連れ立って家の前の寂れた公園へ向かう。ペンキの剥げたブランコに腰かけて、ゆっくりと空を見上げて緩くこぐ。
きーこ、きーこ。
変わらないな、とゲンは吹き出した。
「友達、できた?」
「できた。いっぱい。」
「女の子?」
「可愛い女の子。なに、紹介してって言ってもダメだからね」
「いわねーよ。」
「言えよ!」
けらけら、ブランコの上で笑いあう。
あたしは今更、ヤツの前で可愛くはなれない。女の子らしくもなれない。だったら?だったら、いつも一番近くにいたいと思う。幼馴染でいいから。
「さてはトウキョウで、可愛いカノジョでもできたな!」
「さあねぇ」
懐かしい音だった。おばさんの口調と同じだ。
「ゲンの癖にナマイキ!」
「そういう雛子はどうなんだよ?」
「これでカレシいたら、あたしがびっくりだよ…」
振り切るように、笑う。ゲンも笑うのかな、と思ったら、ヤツは意外にも興味なさそうな顔でふぅん、と言った。
「ほんと、女子力落ちてないかな。」
女子力ぷりーず、と言って笑ってやれば、ヤツはやっとくすりと笑った。
きーこ、きーこ。
ブランコは音を立てて、楽しげに揺れる。やっと肩下まで伸びたあたしの髪も揺れる。
沈黙を避けるように、あたしはまた口を開く。
「もうオトナになったんだね。」
ん?とヤツが聞き返してくる。あたしはおもむろに、ブランコの上に立ち上がる。
「だって、結婚できる年だよ?」
「雛子、それ16の時も言ってたよ」
「違うよ、親の承諾なしに、ってこと」
「結婚にこだわるなぁ」
こだわってないってば、と言ったら、はっと乾いた笑いがあたしの口から飛び出した。
ぐん、とブランコを大きくこぐ。きぃぃ、と錆びた鉄が軋んだ。
顔の横で髪の毛がなびいて、あたしとゲンを遮った。
「好きな人でもできた?」
好き、じゃない。
「いつ、また東京に戻るの?」
「明々後日。」
ふぅん、とあたしが言う声は、きぃっと鳴るブランコの音に紛れた。
「また夏休みに帰ってくるよ、今年は。」
「なんで?」
なんで?ってなんだよ、とヤツは笑う。
笑うと昔の面影が濃くなって、少しだけ安心する。それに、武田のおばさんにも似ている。
「去年は帰ってこなかったでしょ、だって」
「車校行ってたんだよ。車さえあれば、ドライブいける」
「え、怖い」
まだ夜風は冷たい。太ももまでむき出しの足に、鳥肌が立つ。
なんでジーンズにシャツに、ジャケットなんか着ているんだ。なんで綺麗な革靴なんか履いているんだ。ここには不釣り合いなのに。
あたしが、不釣り合いなのに。
「雛子、寒くなってきたから帰ろう」
ヤツの顔も見られずに、足元に視線を落とす。
うん、と頷いて、あたしは揺れるブランコから飛び降りた。足の裏を殴られたように、固い地面の衝撃を感じる。
あたしの横に、ヤツが並ぶ。
あたしの歩調に、ヤツが合わせる。
ゲンの手を、あたしが引いて歩いたあの日は遠い。
無言のままで、あたし達は公園の出口に向かう。そこからヤツは右へ、あたしは左へ。
「じゃあ、また明日」
じゃあヒナちゃん、また明日ね。
小さなゲンがダブって見えた。
あの頃とは違って、また同じ明日が来ないことを、あたしはもう知っている。
あたしも、じゃあねと言う。また明日、とは言わない。
ん、と軽く返事を返したヤツは、くるりとあたしに背を向けて自分の家の敷地に入っていく。
トウキョウになんて、行くなよ。
いつの間にかあたしよりも大きくなった背中に、あたしは口だけを動かしてそう言った。
一粒だけこぼれた水滴は、地面の色さえ変えることはない。
ぐっと口を引き結んで、あたしもくるりと踵を返した。
お読みいただき、ありがとうございます。
ちょくちょく短編らしきものを投稿していきます。また気が向きましたら、いらしてください。
ちなみに、雛子も玄一郎も4月生まれで、雛子が数週間先という裏設定がありました。またも、物語への反映はできていません…泣
基本的に、「何も始まらない」「終わらない」お話しを書くのが好きです。




