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extra edition side 郁  作者: 宇部松清
6/13

♯6 パンプスと涙

 翌日、うきうきと待ち合わせ場所に向かうと、約束の20分前だというのに(かおる)はいた。

 ただ立っているだけなのに、何となく元気がないように見えた。

「郁ちゃん! 俺より先に来てくれてるなんて~」

 そう言って抱き付くと、郁は鬱陶しそうにそれを跳ね除ける。

「行きましょ」

「ちょっとぉ~。今日の郁ちゃん、いつにも増して素っ気なさすぎ~」

 郁を元気づけようと精一杯明るく振る舞うが、今日はにこりとも笑ってくれない。

 どうしちゃったんだろう、郁ちゃん……。

 後ろを歩く千尋を一度も見ることもなくすたすたと歩き続け、目的地に着いたのかぴたりと止まった。「郁ちゃん、ここって……」

「ホテルよ」やっと後ろを振り向いて、表情を変えずにさらりと言った。

「いや、見ればわかるけど……」

「何よ、したくないの?」

 私が(あきら)に勝てることなんて、これしかない。

 いままで付き合ってきた男達はすぐに誘ってきた。

 私から誘っているのよ? ありがたいでしょう?


「したくないよ。そんな郁ちゃんとは」


 千尋はそう言うと、その場にしゃがみ込んだ。

「どうしちゃったんだよ、郁ちゃん。俺がそんな男に見えてたの?」

 両手で顔を覆っている。泣いているのだろうか。

「郁ちゃんのことは大好きだし、そりゃしたい気持ちもあるよ。でも、そんな郁ちゃんとは嫌だよ」

 小柄な千尋はしゃがんで背中を丸めると、何だか少年のようにも見える。その背中がかすかに震えていることに気付き、自分は大変なことをしてしまったと感じた。

「ごめんなさい……」

 そう言うと、自分の意思とは裏腹に涙が零れた。

 

 違う、泣くほどじゃない。

 泣くほど千尋のことを好きになった覚えなんてない。


「ごめんなさい……」

 もう一度だけそう言って、走り出した。

 泣いているところなんて見せたくない。私はそんなに弱くない。


 近くの公園まで走って、ベンチに腰掛ける。

 踵の低いパンプスで良かった。

 千尋よりも背が高いから、付き合ってからずっと踵の低い靴ばかりを履くようになった。

 別にそうしてなんて頼まれたわけでもない。むしろ千尋は背が高い郁ちゃんが好きなんだから、ハイヒール履きなよ、と言ってくれていた。

 それでもこういう靴を自然と選んでしまう自分がいる。

 

 スカートの上にぽつぽつと涙が落ちる。

 私は、泣くほど千尋のことが好きだったのだ。


「……やっと見つけたぁ~」

 その声で顔を上げると、真っ赤な顔でぜぇぜぇと荒い呼吸をしている千尋の姿がある。

「ちょっと……、座っていい? 隣……」額に汗を浮かべてベンチを指差す。

「どうぞ」郁は隣に置いていたバッグを膝の上に乗せた。

「郁ちゃん、足速いなぁ。びっくりしたよ、俺……」

 そう言いながら鞄をあさり、綺麗に折りたたまれたハンカチを取り出して郁に渡す。「はい」

「え? 千尋にじゃないの? そんなに汗かいてるのに」

 びっくりしながらもそれを受け取ると、千尋はニヤリと笑って再度鞄の中に手を入れる。取り出したのは少ししわの寄ったハンカチだ。

「へっへ~、2枚持ち~。そっちはね、郁ちゃん用だよ。涙、拭きなよ」

 そう言って、額の汗を拭う。郁はその言葉で自分が泣いていたことを思い出し、慌ててハンカチを押し当てた。

「郁ちゃん、俺さ、ぜんぜん男らしくないし、頼りないと思うけどさ。さすがに、何の相談もしてくれないのは、寂しいよ」

 下を向いて足をばたつかせながら、ぽつりと言う。

「ごめんなさい」

「話、ここで聞く? それとも、さっきのホテル行く?」

 そう言って郁の顔を覗き込む。

「……したくないって言ったじゃない」

 郁の顔は真っ赤になっている。

「しないよ。しないけど、話の内容によっては、ぎゅーってしたくはなるかもでしょ?」

 千尋はニィっと笑うと、郁の頭を優しく撫でた。


 ……何よ。上に立っただなんて思わないでちょうだい。


「……千尋なんて、嫌いよ」

「ざーんねん。俺にはちゃんと『好き』って聞こえてるんだよなぁ」

 千尋は赤い顔で笑った。


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