♯6 パンプスと涙
翌日、うきうきと待ち合わせ場所に向かうと、約束の20分前だというのに郁はいた。
ただ立っているだけなのに、何となく元気がないように見えた。
「郁ちゃん! 俺より先に来てくれてるなんて~」
そう言って抱き付くと、郁は鬱陶しそうにそれを跳ね除ける。
「行きましょ」
「ちょっとぉ~。今日の郁ちゃん、いつにも増して素っ気なさすぎ~」
郁を元気づけようと精一杯明るく振る舞うが、今日はにこりとも笑ってくれない。
どうしちゃったんだろう、郁ちゃん……。
後ろを歩く千尋を一度も見ることもなくすたすたと歩き続け、目的地に着いたのかぴたりと止まった。「郁ちゃん、ここって……」
「ホテルよ」やっと後ろを振り向いて、表情を変えずにさらりと言った。
「いや、見ればわかるけど……」
「何よ、したくないの?」
私が晶に勝てることなんて、これしかない。
いままで付き合ってきた男達はすぐに誘ってきた。
私から誘っているのよ? ありがたいでしょう?
「したくないよ。そんな郁ちゃんとは」
千尋はそう言うと、その場にしゃがみ込んだ。
「どうしちゃったんだよ、郁ちゃん。俺がそんな男に見えてたの?」
両手で顔を覆っている。泣いているのだろうか。
「郁ちゃんのことは大好きだし、そりゃしたい気持ちもあるよ。でも、そんな郁ちゃんとは嫌だよ」
小柄な千尋はしゃがんで背中を丸めると、何だか少年のようにも見える。その背中がかすかに震えていることに気付き、自分は大変なことをしてしまったと感じた。
「ごめんなさい……」
そう言うと、自分の意思とは裏腹に涙が零れた。
違う、泣くほどじゃない。
泣くほど千尋のことを好きになった覚えなんてない。
「ごめんなさい……」
もう一度だけそう言って、走り出した。
泣いているところなんて見せたくない。私はそんなに弱くない。
近くの公園まで走って、ベンチに腰掛ける。
踵の低いパンプスで良かった。
千尋よりも背が高いから、付き合ってからずっと踵の低い靴ばかりを履くようになった。
別にそうしてなんて頼まれたわけでもない。むしろ千尋は背が高い郁ちゃんが好きなんだから、ハイヒール履きなよ、と言ってくれていた。
それでもこういう靴を自然と選んでしまう自分がいる。
スカートの上にぽつぽつと涙が落ちる。
私は、泣くほど千尋のことが好きだったのだ。
「……やっと見つけたぁ~」
その声で顔を上げると、真っ赤な顔でぜぇぜぇと荒い呼吸をしている千尋の姿がある。
「ちょっと……、座っていい? 隣……」額に汗を浮かべてベンチを指差す。
「どうぞ」郁は隣に置いていたバッグを膝の上に乗せた。
「郁ちゃん、足速いなぁ。びっくりしたよ、俺……」
そう言いながら鞄をあさり、綺麗に折りたたまれたハンカチを取り出して郁に渡す。「はい」
「え? 千尋にじゃないの? そんなに汗かいてるのに」
びっくりしながらもそれを受け取ると、千尋はニヤリと笑って再度鞄の中に手を入れる。取り出したのは少ししわの寄ったハンカチだ。
「へっへ~、2枚持ち~。そっちはね、郁ちゃん用だよ。涙、拭きなよ」
そう言って、額の汗を拭う。郁はその言葉で自分が泣いていたことを思い出し、慌ててハンカチを押し当てた。
「郁ちゃん、俺さ、ぜんぜん男らしくないし、頼りないと思うけどさ。さすがに、何の相談もしてくれないのは、寂しいよ」
下を向いて足をばたつかせながら、ぽつりと言う。
「ごめんなさい」
「話、ここで聞く? それとも、さっきのホテル行く?」
そう言って郁の顔を覗き込む。
「……したくないって言ったじゃない」
郁の顔は真っ赤になっている。
「しないよ。しないけど、話の内容によっては、ぎゅーってしたくはなるかもでしょ?」
千尋はニィっと笑うと、郁の頭を優しく撫でた。
……何よ。上に立っただなんて思わないでちょうだい。
「……千尋なんて、嫌いよ」
「ざーんねん。俺にはちゃんと『好き』って聞こえてるんだよなぁ」
千尋は赤い顔で笑った。




