♯3 子羊と犬
業務を終え、重い足取りで待ち合わせの場所へ向かう。時計を見ると、8時45分である。約束の時間は9時だったが、やはりまだ来ていないようだ。周りには自分と同じように待ち合わせをしているのだろう、時折、時計をちらちらと見ながら辺りをキョロキョロと見回している人がちらほらいる。
「あ、いたいたぁ~」
明るい女性の声がして、自分の隣に立っていたサラリーマン風の男に笑顔で手を振ると、腕を絡めて仲睦まじく去って行く。
何度か似たような光景を見送って、郁はため息をつきながら腕時計を見る。8時55分。まぁ、まだ遅刻ではないけど……。
「ごめ~ん、待ったぁ?」
そう言って、息を切らせながら可愛らしいワンピースに身を包んだ女の子が走ってくる。
いかにもデートという恰好なのに、あんなに走ったらヘアースタイルも乱れてしまう、と郁は他人事なのに気が気ではない。しかも、アレはウチの新作ワンピースだ。
その女の子はぜぇぜぇと荒い呼吸をして、郁の前に立った。
「ごめ……っ。ちょ……っと、時間……配分……、失敗しちゃって……」
下を向いて呼吸を整えながら一生懸命話しているが、明らかに人違いだ。郁は首を傾げて彼女の顔を覗き込みながら、「人違いではありませんか?」と優しく声をかける。
「え?」
そう言って、その子は慌てて顔を上げたが、郁の顔を見るなり安堵の表情を浮かべた。
「間違ってないよ。俺だよ」
「え……?」
そう言うと、ウィッグを外してニィっと笑った。
「あ……っ、小林様……」
「千尋でいいよ。俺、いまお客じゃないし。待たせてごめん。行こ、飯田さん」
「千尋さんは、いつもはこういう恰好なんですか?」
落ち着いた雰囲気のステーキハウスで、向かい合って座っている。
「敬語止めてよ~。たぶん飯田さんより年下だよ。まだ18なんだからぁ」
「でも……、お客様ですし……」
「んーじゃ、もうお客さん止めるっ! ……これならいい?」
「それは……」店の売り上げが……。
「うそうそ! 脅してるわけじゃないよ。だってぇ、飯田さんと仲良くしたいんだもんっ、私!」
「私って……。あの、失礼ですけど……」
「え? あー、そうだよね。私ね、いわゆる『男の娘』ってやつ。好きなのは女の子だから、安心して」
そう言って千尋は可愛らしくウィンクをしてきた。
いっそ、恋愛対象が男であってくれた方が安心できたのだが……。
「こういう恰好してるのに『俺』なーんて言ったら変でしょっ?」
「そうかもしれませんが……」
「もー、なかなか敬語が取れないなぁ~。こっちの方が飯田さんも話しやすいかと思ったんだけどなぁ……」
千尋は口をとがらせて視線を逸らした。
「私のために、わざわざ……ですか?」
「そうだよぉ~。だって、ご飯だけって言ってるのに、なかなかOKくれないんだもん……。警戒されてるんだと思ってさ……」
「それは……、たしかに……」
「男が皆、狼だなんて思わないでよね……」
たしかに目の前にいるのは、狼というよりは、子羊だ。
男の恰好の千尋も言動こそやや軽い印象はあったものの、意外と礼儀はしっかりしていたし、いまもお互いに『未成年』ということをわきまえて居酒屋に誘ったりはしなかった。このステーキハウスも閉店時間は10時半で、終電にも余裕がある。
口をとがらせて足をばたつかせながら拗ねているこの男の娘が何だか可愛らしく見えてくる。もちろん、すべて演技という可能性は捨てきれないが。
「……郁よ」
「へ?」
「下の名前」
呆れた顔でそう言うと、千尋はぱぁっと明るい顔になった。
「お店の外で会う時だけよ。敬語じゃないのも、千尋って呼ぶのも」
首を傾げてたしなめるように言うと、千尋は何度も大きく首を振った。
この子、子羊じゃなくて犬みたいだわ。




