光の中で、キスを頂戴
午前零時を回ったファミリーレストランで、莉沙は山盛りのフライドポテトを食べていた。
こんな時間に油物を食べると胃がもたれるぞ、と以前忠告したことがある。
返ってきたのは「おっさんじゃん」の一言だった。それ以来、彼女の食生活については余計な口を挟まないことにしている。
「ねえ、直人。あんたさ、太陽って知ってる?」
唐突な質問だった。
「……太陽?」
「そ。朝になると昇ってくるやつ」
「さすがに知ってる」
「へえ、よかった。あたしの彼氏、吸血鬼かと思ってたわ」
莉沙はそう言って、ストローでメロンソーダをかき混ぜた。グラスの底から細かな泡が浮かび上がり、店内の白い照明を受けて、妙に鮮やかな緑色が揺れている。
俺たちが付き合い始めてから、もう七か月になる。
莉沙は二十三歳。駅前の商業施設に入っているアパレルショップで働いていて、金色に染めた髪と、季節ごとに変わる派手なネイルが自慢らしい。俺より六つ年下だが、その態度から年齢差を感じたことはほとんどなかった。
一方、俺は二十九歳の会社員で、服装にも髪型にも大したこだわりがない。学生時代から人付き合いは得意ではなく、休日は自宅で映画を観るか、積んだままの本を消化して過ごしていた。
共通の友人を通じて知り合ったとき、莉沙には「葬式帰りみたいな服だね」と笑われた。もちろん、その日は葬式などなかった。
どういうわけか、それから何度か食事をするようになり、気がつけば恋人になっていた。
「で、なんで太陽?」
「だってさ、うちらのデートって夜ばっかじゃん。しかも毎回こんな時間」
「仕事があるからな」
「知ってるし。別に責めてないじゃん」
そう言いながら、莉沙はフォークでポテトを一本突き刺した。
「たださ、たまには普通のデートしたくない?」
「普通のデートって?」
「水族館とか、映画とか、昼間のカフェとか。あと公園でアイス食べるとかさ」
「公園でアイスは今でもできるだろ」
「夜中の公園でアイス食べる二十九歳と二十三歳、普通に不審者じゃね?」
「二十三歳のほうはともかく、二十九歳のほうは通報されそうだな」
「そうそう。あたし、巻き添え食らいたくないし」
莉沙はけらけらと笑った。
この女は、よく笑う。
それも、口元を上品に隠すような笑い方ではなく、面白ければ遠慮なく声を上げるし、つまらなければ露骨に顔をしかめる。感情が表情に出やすいというより、隠す必要を感じていないのだろう。
俺には少し羨ましい性質だった。
「まあ、仕事が落ち着いたらな」
そう答えると、莉沙は露骨に唇を尖らせた。
「それ、何回目?」
「……三回目くらいか」
「残念、六回目でーす」
「数えてたのか」
「そりゃ数えるでしょ。彼氏が全然遊んでくれないんだもん」
文句を言うわりに、莉沙は本気で怒っている様子でもなかった。
俺の皿に残っていたハンバーグを見つけると、何の断りもなく一切れ切り取って口へ運び、満足そうに頷いている。人の料理を勝手に食べるのも、この七か月ですっかりお馴染みになった。
「ね、次の休みいつ?」
「まだわからない」
「出た、社畜の常套句」
「悪かったな」
「別に。じゃあ、今日も夜景でも見て帰ろっか」
莉沙はあっさりと話を切り替え、スマートフォンで近くの展望スポットを探し始めた。
こういうところにも、俺はずいぶん甘えていたのだと思う。
彼女はいつも、俺の都合に合わせてくれた。昼間に会えないなら夜に会い、遠出ができないなら近所を歩き、食事の途中で俺が眠そうにすれば、さっさと会計を済ませて帰ろうと言ってくれた。
そのくせ、感謝の言葉を口にすると「じゃあ今度なんか買ってよ」と笑うものだから、こちらも必要以上に気負わずに済んでいた。
「直人、聞いてる?」
「ああ。夜景だろ」
「そ。めっちゃ綺麗なとこ見つけた」
差し出されたスマートフォンには、高台から見下ろす街の写真が映っていた。
暗闇の中に無数の明かりが散らばっていて、確かに綺麗だったが、俺にはその一つ一つが、まだ働いている誰かの職場のようにも見えた。
「いいんじゃないか」
「でしょ? じゃ、行こ!」
莉沙は嬉しそうに立ち上がり、椅子に掛けていた小さな鞄を肩に掛けた。
金色の髪が、蛍光灯の下でさらりと揺れた。
俺たちのデートは、いつだって夜だった。
夜景の綺麗な場所なら、いくつも知っていた。
けれど、太陽の下で笑う莉沙がどんな顔をしているのか、その頃の俺はまだ知らなかった。
◇
仕事ができなくなったのは、それから三週間ほど経った頃だった。
俺の勤める会社は、広告や販促物の制作を請け負っている。俺は制作進行を担当していて、取引先との調整や納期の管理、時には自分で資料を作ることもあった。
特別に優秀な社員だったわけではないが、頼まれた仕事を断るのが苦手で、面倒な案件を引き受けているうちに、いつの間にか担当する仕事が増えていた。
毎日、終電の時刻を気にしながら働き、帰宅してからも翌日の予定を考える。休日には寝溜めをして、起きた頃には夕方になっているから、結局どこへも出かけられない。
そんな生活を何年も続けていた。
自分が疲れていることくらい、わかっていたつもりだ。
ただ、それが普通になりすぎていて、どの程度まで疲れたら休むべきなのか、判断できなくなっていた。
異変は、案外あっけなかった。
ある朝、いつものように出社して、取引先から届いたメールを開いた。
内容はごく簡単な修正依頼だった。画像を一枚差し替え、見出しの文字を少し大きくする。それだけのことで、普段なら五分もあれば制作担当者へ指示を送れるはずだった。
ところが、何度読み返しても文章が頭に入ってこない。
文字の意味はわかるのに、それをどう処理すればいいのかがわからなかった。
画面の右下に新しい通知が現れ、電話が鳴り、隣の席から誰かが話しかけてくる。ひとつひとつは日常の些細な出来事なのに、それらが同時に押し寄せてくると、何も考えられなくなった。
「佐伯さん、大丈夫ですか?」
後輩に声をかけられて顔を上げたとき、自分が三十分近く同じメールを眺めていたことに気づいた。
大丈夫だ、と答えようとした。
けれど、声が出なかった。
その日の午後、上司に付き添われて会社を出た。
後日、医師から休養が必要だと告げられ、診断書を提出して休職することになった。
これまで何度も休みたいと思っていたのに、いざ仕事から離れると、妙な現実感のなさだけが残った。
最初の数日は、ほとんど眠って過ごした。
朝起きても身体が重く、食事を済ませればまた横になる。テレビをつけても内容が頭に入ってこないので、部屋には冷蔵庫の低い唸りと、時折通りを走る車の音ばかりが響いていた。
窓の外では、何事もなかったように日常が続いている。
通勤する人々、犬を散歩させる老人、買い物袋を下げた主婦。俺が会社に行かなくなったところで、世の中は少しも困らないらしい。
それはどこか寂しくもあり、同時に、ありがたいことでもあった。
莉沙には、休職が決まった日に電話で伝えた。
もっと驚かれると思っていたが、返ってきたのは「あー、やっぱり?」という、拍子抜けするほど軽い返事だった。
「やっぱりって、なんだよ」
「いや、最近のあんた、マジで顔死んでたもん」
「そんなにひどかったか」
「うん。ゾンビのほうがまだ元気そうだった」
「それは相当だな」
「相当だよ。てか、ちゃんと病院行ったんだ?」
「ああ」
「じゃ、先生の言うこと聞きなよ。あたしより賢いんだから」
「比べる相手がお前だと、あんまり説得力がないな」
「は? 今のケンカ売ってる?」
電話の向こうで、莉沙が笑った。
その笑い声を聞いているうちに、俺も少しだけ笑っていた。
彼女は俺を励まそうと、立派な言葉を並べたりはしなかった。
ただ、いつもと同じ調子で話し、職場であった面白い出来事や、最近買った服の話をしてくれた。会話の途中で何度か体調を尋ねてきたが、俺が疲れたと言えば、無理に引き留めることもなかった。
休職して十日ほど経った頃、莉沙からメッセージが届いた。
『ねえ、明日デートしよ』
昼過ぎに起きて、それを見た。
『明日?』
『そ。あたし休みなんだよね』
『俺、まだあんまり調子よくないぞ』
『知ってるよ』
少し間を置いて、次のメッセージが届いた。
『だから近場にしよーよ。疲れたら帰ればいいし』
そのあとに、妙な顔をした猫のスタンプが送られてきた。
俺はしばらく画面を眺めていた。
正直、外へ出るのは面倒だった。人混みに入ることを考えただけで疲れるし、平日の昼間に遊びに行くというのも、何となく落ち着かない。
だが、断る理由を考えているうちに、もう一件メッセージが届いた。
『てかさ、初めて昼デートできるじゃん!』
最後には、両手を上げて喜んでいるキャラクターのスタンプまで添えられていた。
なるほど、そういう考え方もあるのか。
俺は思わず笑ってしまい、しばらく考えてから返信した。
『わかった。どこ行く?』
既読がつくまで、三秒もかからなかった。
『やった!!!!!』
『駅前集合ね! 12時半!』
『寝坊すんなよ、おっさん!』
相変わらず、遠慮というものを知らない女だった。
◇
翌日は、朝からよく晴れていた。
十月も半ばだというのに、窓を開けると少し暖かい風が入ってくる。空には薄い雲がいくつか浮かんでいて、近所の小学校から運動場を駆け回る子どもたちの声が聞こえた。
久しぶりに、昼前から身支度を整えた。
鏡の前に立つと、思っていたより顔色が悪かった。目の下には薄い隈が残り、頬も少しこけたように見える。もっとも、これは以前からだった気もするので、どこまでが仕事のせいなのかはわからない。
クローゼットを開け、無地のシャツと黒いパンツを取り出した。
地味だと言われるだろうが、俺の服装に急激な変化を期待されても困る。ひとまず寝癖を直し、いつもより少し丁寧に髭を剃って家を出た。
駅までの道は、見慣れているはずなのに、どこか別の街のようだった。
普段は早朝か夜にしか通らない道である。閉まっているところしか見たことのなかった小さなパン屋が営業していて、店先には焼きたてのクロワッサンが並んでいた。
道端の植え込みには、小さな黄色い花が咲いている。
こんな場所に花があったのか、と妙に感心した。
駅前の広場に着いたのは、約束の十分前だった。
改札の横にある柱へ寄りかかり、スマートフォンを取り出そうとしたところで、遠くから聞き慣れた声がした。
「直人ー!」
顔を上げると、莉沙がこちらへ走ってくるところだった。
白い短めのカーディガンに、淡い水色のデニム。肩には小さなバッグを掛け、足元には厚底のスニーカーを履いている。
普段なら大して気にも留めない格好だったのに、その日は妙に目を引いた。
特に髪だった。
いつも夜の街灯や店内の照明で見ていたせいだろう。金色だと思っていた髪には、蜂蜜のような柔らかな色が混じっていて、毛先のほうは少しだけ明るく透けていた。
駆け寄ってきた莉沙は、俺の顔を見るなり眉を上げた。
「ちゃんと起きれたじゃん!」
「お前こそ遅刻しなかったな」
「失礼すぎ。あたし、こう見えて時間には厳しい女なんで」
「この前、待ち合わせに二十分遅れたのは誰だったかな」
「あれはメイクに時間かかっただけ!」
「それを遅刻と言うんだよ」
「細かい男は嫌われるよ」
悪びれもせず、莉沙は笑った。
いつもと変わらないやり取りだったが、ひとつだけ気になることがあった。
「……髪、染め直した?」
「え?」
「いや、なんか色が違う気がして」
莉沙は一瞬きょとんとしたあと、俺の顔をまじまじと見つめた。
「は? 染めたの先月なんだけど」
「そうだったか」
「そうだったか、じゃないし! てか、今さら気づいたの?」
「夜だとよくわからなかったんだよ」
「いや、普通わかるでしょ!」
莉沙は呆れたように肩を落としたが、すぐに自分の髪をひと房つまみ、得意げに笑った。
「でも、いい色っしょ?」
「ああ。似合ってる」
「……へえ」
「なんだよ」
「いや、なんでも」
この女は直接の誉め言葉に弱い。口元を緩ませた莉沙は、俺の腕を取って歩き始めた。
「ほら、行こ! 今日は予定ぎっしりだから!」
「近場で、疲れたら帰るんじゃなかったのか」
「大丈夫大丈夫。全部近場だし」
「本当だろうな」
「疑り深いなあ。彼女を信用しなよ」
この女の言う大丈夫は、あまり信用できない。
もっとも、今日ばかりは多少振り回されるのも悪くない気がしていた。
最初に連れていかれたのは、駅から歩いて十分ほどの場所にある、小さな喫茶店だった。
古い建物の一階に入っている店で、入り口には木製の看板が立ち、窓際には小さな鉢植えが並んでいる。
店内にはコーヒーの香りが漂い、窓から差し込む陽射しが、磨かれた木の床に細長い四角形を作っていた。
「ここ、ずっと来たかったんだよね」
莉沙は席に着くなり、嬉しそうにメニューを開いた。
「有名なのか?」
「インスタで見つけたの。ここのフレンチトースト、めっちゃ美味しそうでさ」
「へえ」
「でも夕方には閉まっちゃうから、今まで来れなかったんだよね」
そう言われて、俺は窓の外を見た。
店の前を、自転車に乗った学生が通り過ぎていく。向かいの花屋では、店員が店先の鉢植えに水をやっていて、散った雫が歩道に小さな染みを作っていた。
昼間にしか見られない景色というものが、思っていた以上にたくさんあるらしい。
「直人は何にする?」
「オムライスかな」
「えー、フレンチトースト食べないの?」
「甘いものだけじゃ腹が減るだろ」
「じゃ、あたしがフレンチトースト頼むから、一口あげる」
「ありがたいな」
「代わりにオムライスちょーだい」
「結局そうなるのか」
注文を済ませると、莉沙はスマートフォンを取り出し、最近買った服の写真を見せてきた。
どれも俺には似たようなものに見えたが、莉沙に言わせれば、丈の長さや襟の形、袖の膨らみ方にそれぞれ違った良さがあるのだという。
俺が曖昧に相槌を打っていると、彼女は不満そうに頬を膨らませた。
「絶対わかってないっしょ」
「正直、あまり」
「もー。じゃあこれは? どっちが可愛い?」
画面には、よく似た二着のカーディガンが並んでいた。
しばらく見比べて、俺は右側を指さした。
「こっちかな」
「お、なんで?」
「莉沙が着てそうだから」
彼女は少し驚いたように瞬きをした。
「……何それ」
「変なこと言ったか?」
「いや、別に」
そう言いながら、莉沙はスマートフォンを伏せてしまったが、耳のあたりが少し赤くなっているように見えた。
料理が運ばれてくると、彼女はすぐに元の調子に戻った。
フレンチトーストには粉砂糖がたっぷりとかかっていて、横にはバニラアイスと色とりどりの果物が添えられている。
「やば、めっちゃ可愛い!」
莉沙は皿を様々な角度から撮影したあと、ようやくフォークを手に取った。
一口食べると、目を大きく見開いた。
「うっま!」
「よかったな」
「直人、これ食べて!」
差し出されたフォークには、大きめに切り分けたフレンチトーストが刺さっていた。
俺は少し身を乗り出して、それを口に運んだ。
外側は香ばしく、中は驚くほど柔らかい。卵と牛乳の風味が広がり、後からメープルシロップの甘さが追いかけてきた。
「……うまいな」
「でしょ!? あたしの選んだ店、天才じゃん」
「天才だな、お店の人」
「ねえ! そこは私を褒める流れでしょ!」
莉沙は笑いながら、今度は俺のオムライスを一口もらっていった。
食事を終えるまで、俺たちは他愛のない話を続けた。
彼女の職場に妙に厳しい客が来たこと、新しく入った後輩がなかなか仕事を覚えないこと、それでも最近は少しずつ成長してきたこと。
莉沙は愚痴を言うときでさえ、どこか楽しそうだった。
もっとも、仕事が楽であるはずはない。
立ち仕事で足は疲れるだろうし、客商売なら理不尽なこともあるだろう。店の売上や人間関係に悩む日だって、当然あるに違いない。
それでも、彼女は自分の仕事を嫌いだとは言わなかった。
「今度さ、店のディスプレイ任されるかもなんだよね」
「ディスプレイ?」
「そ。入り口のマネキンとか、飾りつけとか。店長が一回やってみる? って」
「へえ、すごいじゃないか」
「でしょ! あたし、そういうの結構好きなんだよね。服ってさ、置き方で全然違って見えるじゃん?」
莉沙はそう言って、店内を見回した。
「あそこの棚とかも可愛いよね。木の色と壁の色が合ってるし、観葉植物の置き方もいい感じ」
彼女の視線を追うと、壁際の棚には古い本と小さな花瓶が並べられていた。
俺は店に入ってから、一度もそこに目を向けていなかった。
「よく見てるんだな」
「そりゃ見るっしょ。仕事に活かせるもん」
得意げに胸を張る莉沙を見て、思わず笑った。
彼女の世界には、俺が知らないことがたくさんある。
それは当たり前のことなのに、深夜のファミレスで会っていた頃には、あまり考えたことがなかった。
俺が仕事をしている間も、莉沙は自分の毎日を生きている。
好きな服を選び、仕事で新しいことを覚え、誰かと笑ったり、腹を立てたりしながら、俺の知らない時間を過ごしている。
そんなことを、今さらながらに実感した。
「……なに?」
気づけば、莉沙がこちらを見ていた。
「いや、なんでもない」
「絶対なんか考えてたじゃん」
「お前、案外ちゃんと仕事してるんだなって」
「はぁ!? 案外ってなに!?」
店内に響くほどの声を上げた莉沙に、隣の席の老夫婦が微笑ましそうな視線を向けてきた。
俺は慌てて彼女をなだめたが、莉沙はしばらく「失礼すぎる」と文句を言い続けていた。
それでも会計を済ませる頃にはすっかり機嫌を直し、店を出ると当然のように俺の手を握ってきた。
指先に触れたネイルが、思っていたより小さかった。
派手な色ばかりだと思っていたが、よく見ると透明な部分には細かなラメが散らされていて、薬指には小さな星が描かれている。
「ネイルも変えたのか」
「え、気づいた?」
「さっきから目に入ってた」
「ふーん?」
莉沙は俺の手を握り直した。
「今日の直人、なんかいいじゃん」
「何が?」
「ちゃんと見てくれる」
そう言って笑った彼女に、俺はうまい返事を思いつかなかった。
代わりに握り返した手は、ほんの少しだけ強くなった。
◇
昼食のあとは、駅前の商店街を歩いた。
莉沙は服屋を見つけるたびに立ち寄り、気になる商品を手に取っては、俺に似合うかどうかを尋ねてきた。
途中、黒いシャツを勧められたので、今着ているものと大して変わらないと言ったところ、「同じ黒でも全然違うんですけど」と、五分ほど講義を受ける羽目になった。
結局、服は何も買わなかった。
代わりに、古い雑貨屋で莉沙が気に入った小さな髪留めを買った。
銀色の金具に青いガラスが嵌め込まれたもので、彼女は店先でそれを見つけてから、何度も手に取ったり戻したりしていた。
「欲しいなら買えばいいだろ」
「いや、今月ちょっと買いすぎたし」
「いくら?」
「千八百円」
「じゃあ、買ってやるよ」
「え、マジ?」
「今日、店を選んでくれた礼」
「やった! 直人、好き!」
「現金な女だな」
莉沙は嬉しそうに髪留めを受け取ると、その場で髪につけようとして、うまくいかずに苦戦していた。
見かねて手伝おうとしたが、俺にも髪留めの扱いなどわからない。
二人して店先でしばらく格闘した末、ようやく留まった頃には、莉沙の髪が少し乱れていた。
「どう? 似合う?」
「ああ、似合う」
「ほんと?」
「本当だよ」
今度は素直にそう答えると、莉沙は満足げに笑った。
そのあとも何軒か店を回ったが、午後三時を過ぎたあたりから、少しずつ身体が重くなってきた。
足が痛いわけではない。ただ、人の声や車の音がいつもより大きく感じられ、頭の奥に薄い膜が張ったような感覚があった。
商店街の向こうから、スーツ姿の男たちが歩いてきた。
一人が電話をしながら、何度も頭を下げている。
何気なく耳に入ってきた「本日中に」という言葉に、胸のあたりが少し硬くなった。
気づけば、ポケットの中のスマートフォンを握っていた。
休職中の連絡は人事担当を通すことになっているし、仕事用の通知も切ってある。それでも、確認しなければならない何かが残っているような気がして、無意識に画面を開きかけた。
「直人?」
莉沙に呼ばれ、顔を上げた。
「ん?」
「ちょっと休憩しよっか」
「……いいのか?」
「いいよ。あたしも足疲れたし」
彼女はそう言って、近くの公園を指さした。
商店街から少し外れたところにある、小さな公園だった。
木々の葉はところどころ黄色く色づき始めていて、砂場のそばでは、小さな子どもが母親と一緒に遊んでいた。
俺たちは空いているベンチに腰を下ろした。
莉沙は買ったばかりの髪留めを外し、バッグから手鏡を取り出して、もう一度つけ直している。
俺は背もたれに身体を預け、ゆっくりと息を吐いた。
騒がしかった頭の中が、少しずつ静かになっていく。
「疲れた?」
鏡を覗いたまま、莉沙が尋ねた。
「ちょっとな」
「そっか。じゃ、しばらく休も」
「ああ」
それだけだった。
彼女は理由を聞かなかったし、俺も何か説明しようとは思わなかった。
しばらくすると、莉沙は鏡をしまい、俺の肩に頭を預けてきた。
「ねえ、直人」
「ん?」
「今日、楽しい?」
その声が、いつもより少しだけ静かだった。
「楽しいよ」
「ほんとに?」
「ああ。久しぶりに外で飯食ったし、知らない店にも行けた」
「そっか」
莉沙はほっとしたように笑い、足を軽く揺らした。
「実はさ、ちょっと迷ってたんだよね。今日誘うの」
「そうなのか?」
「うん。あんた、まだ本調子じゃないじゃん。外出んのしんどいかなーって」
「まあ、多少は」
「だよね。でも、ずっと家にいるのも暇かなって思ったし。何よりあたしがデートしたかったからさ」
そこまで言って、彼女は少しだけ顔を上げた。
「……あたし、ちょっと自分勝手?」
「今さらだろ」
「おい」
「冗談だよ」
莉沙は肘で俺の脇腹を小突いた。
たいして痛くはなかったが、大げさに顔をしかめてみせると、彼女は楽しそうに笑った。
「でもさ、あんたが休みになって、もちろん心配はしてるよ? それはマジで」
「ああ」
「けど、昼間に会えるの、ちょっと嬉しかったんだよね。これ言っていいのかなーって思ってた」
莉沙はそう言って、視線を自分の足元に落とした。
厚底のスニーカーのつま先が、地面を軽く叩いている。
「別にいいんじゃないか」
「え?」
「嬉しいことは、嬉しいでいいだろ」
そう答えると、莉沙は目を丸くした。
それから、ふっと表情を緩めた。
「……そっか」
「ああ」
「じゃあ、嬉しい!」
実に簡単な女だった。
けれど、俺はこういうところが好きなのだ。
複雑なことを複雑なまま抱えていても、目の前にある小さな喜びまで手放す必要はない。彼女はそれを理屈として知っているのではなく、ごく自然に実践しているように見えた。
俺には難しいことだったが、少なくとも、彼女の喜びをわざわざ曇らせる理由はなかった。
「直人さ」
「なんだ?」
「今度から、疲れたらちゃんと言ってね」
「今日も言っただろ」
「うん。だからよかった」
莉沙は満足そうに頷き、俺の肩にもう一度頭を預けた。
しばらく、二人で公園を眺めていた。
子どもが転び、母親が駆け寄っていく。木の枝から一枚の葉が落ち、風に流されて、俺たちの足元を通り過ぎた。
何をするでもない時間だった。
こうしてベンチに座り、隣にいる恋人の体温を感じながら、ただ時間が過ぎていくのを眺める。
以前の俺なら、何か有意義なことをしなければと思ったかもしれない。
けれど、その日の午後は、何もしないことが少しも惜しくなかった。
「……もう少し、ここにいようか」
俺がそう言うと、莉沙は肩に頭を預けたまま頷いた。
「うん。あたしも、もうちょいこうしてたい」
風が吹いて、彼女の髪が俺の頬に触れた。
柔らかいシャンプーの匂いがした。
◇
公園を出た頃には、午後四時を過ぎていた。
二人とも、すっかり元気を取り戻し、買ったばかりの髪留めを何度も触っては、スマートフォンの画面で自分の姿を確認している。
「そんなに気に入ったのか」
「うん! めっちゃ可愛くない?」
「さっきから十回くらい聞いたぞ」
「じゃあ十一回目。可愛い?」
「可愛いよ」
「髪留めが?」
「お前が」
言ってから、少し気恥ずかしくなった。
莉沙は歩みを止め、ぽかんとした顔で俺を見つめていた。
「……え、なに?」
「何って、聞かれたから答えたんだろ」
「いや、そうだけど」
「嫌なら撤回するぞ」
「ダメ! 撤回禁止!」
彼女は慌てたように俺の腕を掴み、そのままぎゅっと抱きついてきた。
「今日の直人、どうしたん? なんか優しくない?」
「いつも優しくないみたいな言い方だな」
「いつもはもっと素っ気ないじゃん」
「そうか?」
「そうだよ。ま、そこも好きなんだけどさ」
何のためらいもなく、そういうことを言う。
付き合い始めた頃は、そのたびにどう返せばいいのかわからなくなっていた。今では多少慣れたつもりだったが、昼間の往来で言われると、やはり少し落ち着かない。
俺たちは駅へ向かって歩き始めた。
夕方の商店街は昼間より人通りが増えていて、買い物袋を提げた人々や、学校帰りの学生たちが行き交っている。
莉沙はその間を器用に歩きながら、次に行きたい場所の話を始めた。
「今度さ、水族館行こーよ。あと映画も観たいし、動物園とかもよくない?」
「ずいぶん欲張りだな」
「だって、今まで行けなかったとこいっぱいあるじゃん」
「全部一日で回るつもりか?」
「さすがに無理っしょ。何回かに分ければいいじゃん」
当たり前のようにそう言われて、俺は少し驚いた。
彼女の中では、今日という一日が特別な思い出として終わるのではなく、これから何度も続いていく日常のひとつになっているらしい。
もちろん、次のデートがいつになるのかはわからない。
体調のいい日もあれば、朝から起き上がれない日もあるだろう。仕事に戻る時期も決まっていないし、以前のように働けるかどうかも、今はまだ考えられなかった。
けれど、それらを今日すべて決める必要はなかった。
「……海」
「ん?」
「次は、海に行かないか」
莉沙は驚いたように俺を見上げた。
「え、海?」
「ああ。久しぶりに見たくなった」
「いいじゃん! でも、もう十月だよ?」
「海って、夏しか行っちゃダメなのか?」
そう返すと、莉沙は一瞬黙り、それから声を上げて笑った。
「なにそれ! あたしみたいなこと言うじゃん!」
「影響されたのかもな」
「うわ、やば。直人がギャルになっちゃう」
「それは困る」
「えー、いいじゃん。おそろで金髪にしよーよ」
「絶対に嫌だ」
「ちぇー」
莉沙は不満そうに唇を尖らせたが、すぐに楽しそうな顔へ戻った。
「でも、海いいね。あたし、冬の海も好きだよ」
「行ったことあるのか?」
「あるよ。高校んとき友達と行った。めっちゃ寒かったけど、誰もいなくて気持ちよかったな」
「じゃあ、今度は二人で行こう」
「うん!」
莉沙は大きく頷いた。
その返事を聞いて、俺は何となく嬉しくなった。
自分から次の予定を立てるなんて、ずいぶん久しぶりのことだった。
それも仕事の予定ではなく、ただ恋人と海を見に行くための約束だ。
考えてみれば、そんなことすら長い間していなかった。
商店街を抜けると、駅へ続く大通りに出た。
西へ傾いた陽射しが建物の壁を橙色に染め、歩道には街路樹の長い影が伸びている。昼間にはあれほど賑やかだった通りも、夕方になるとどこか落ち着いた雰囲気をまとっていた。
俺はふと足を止めた。
莉沙も、それに気づいて立ち止まる。
「どした?」
「いや……」
少し考えてから、俺は口を開いた。
「今日、ありがとうな」
莉沙はきょとんとした。
「何が?」
「誘ってくれて」
「えー、今さら?」
「今さらだな」
「別にお礼とかいいし。あたしが遊びたかっただけだもん」
彼女は照れくさそうに笑い、俺の手を握り直した。
「でも、楽しかったっしょ?」
「ああ。かなり」
「でしょ? あたしとデートして、つまんないわけないじゃん」
「すごい自信だな」
「当然!」
胸を張る彼女があまりにも得意げだったので、俺はまた笑ってしまった。
すると莉沙は、急に何かを思いついたような顔をした。
「あ、そうだ」
「今度はなんだ」
「写真撮ろ、写真!」
彼女はバッグからスマートフォンを取り出し、俺の腕に身体を寄せた。
「せっかく昼デートしたんだし、記念にさ」
「今さら撮るのか?」
「いいじゃん。ほら、もっと寄って」
莉沙は画面をこちらへ向け、器用に角度を調整した。
映っている俺は、相変わらず冴えない顔をしていた。隣の彼女は満面の笑みを浮かべていて、同じ写真に収まっているのが不思議なくらい対照的だった。
「はい、チーズ!」
シャッター音が鳴った。
莉沙は写真を確認すると、すぐに吹き出した。
「ちょ、直人! 顔!」
「なんだよ」
「証明写真じゃん! もっと笑ってよ!」
「笑ってるつもりだったんだけどな」
「全然笑ってないし。ほら、もう一回!」
仕方なく、俺はもう一度画面に顔を向けた。
今度は莉沙が俺の頬を指で押し上げてきたので、思わず顔をしかめた。
「やめろ、変な顔になる」
「元からじゃん」
「ひどいな」
「うそうそ! あたしの彼氏、イケメンだよ!」
そう言って笑う莉沙につられ、俺も声を出して笑った。
その瞬間、彼女がシャッターを切った。
「よし! 撮れた!」
画面を覗くと、そこには少し間抜けな顔で笑う俺と、満足そうに頬を寄せる莉沙が映っていた。
お世辞にも格好のいい写真ではない。
俺の髪は風で少し乱れているし、莉沙は笑いすぎて目が細くなっている。それでも、最初の一枚よりずっといい写真に思えた。
「送ってくれよ、それ」
「え、欲しいの?」
「ああ」
「へえー?」
莉沙は妙に嬉しそうな顔をした。
「なに、待ち受けにする?」
「そこまでは言ってない」
「してよ! あたし、めっちゃ可愛く撮れてるし!」
「自分で言うか」
「言うよ。事実だもん」
まったく、敵わない女だった。
スマートフォンに写真が届いたのを確認し、俺はポケットへしまった。
莉沙はまだ名残惜しそうに画面を眺めていたが、やがて思い出したように顔を上げた。
「ねえ、直人」
「ん?」
「キスして」
あまりにも自然に言うので、一瞬意味がわからなかった。
「……ここで?」
「うん、ここで」
「人がいるだろ」
「いるねえ」
「恥ずかしくないのか」
「なんで? 彼氏とキスすんのに?」
莉沙は不思議そうに首を傾げた。
そういう問題でもない気がしたが、彼女にとっては大したことではないらしい。
「てか、あたしたち、外でキスしたことないじゃん」
「あるだろ。何回も」
「夜じゃん、全部」
言われてみれば、そのとおりだった。
深夜の公園、人気のない路地、終電間際の駅のホーム。
今まで交わしてきたキスは、どれも暗い場所でのことだった。
「たまには昼間でもよくない?」
莉沙はそう言って、一歩だけ近づいた。
俺の胸元に手を添え、少し背伸びをする。
普段はあれほど威勢がいいくせに、こういうときだけ、妙に素直な顔をする。
俺は周囲を一度だけ見回した。
通りを行く人々は、それぞれの用事に忙しそうで、俺たちのことなど誰も気にしていなかった。
考えてみれば、当然のことだった。
誰もが自分の人生を生きている。
その中で、俺たちが少しくらい幸せそうにしていたところで、誰かに咎められる理由などない。
「……仕方ないな」
「なにその言い方。めっちゃ嫌そうじゃん」
「嫌じゃないよ」
「じゃあ、早く」
莉沙は目を閉じた。
金色の髪が頬にかかり、買ったばかりの青い髪留めが、耳の上で小さく揺れていた。
俺は彼女の肩にそっと手を置き、ゆっくりと顔を近づけた。
唇が触れたのは、ほんの短い間だった。
それでも、莉沙は満足したらしく、離れるとすぐに笑みを浮かべた。
「へへ。やっと昼間にキスできた」
「そんなにしたかったのか」
「そりゃね。あたし、ずっとしたかったもん」
「いつでもできるだろ」
「そうだけどさ」
莉沙は俺の手を握り、指を絡めてきた。
「なんか、今日のほうがいいなって」
「……そうか」
「うん。顔がちゃんと見えるし」
俺は少し笑って、彼女の手を握り返した。
確かに、今日はよく見える。
髪の色も、細かな化粧のラメも、笑うと頬にできる小さなくぼみも、今まで気づかなかったものばかりだった。
彼女はいつもと同じ莉沙のはずなのに、昼間の街で見ると、何もかもが少し違って見える。
いや、違っていたのは俺のほうかもしれない。
目の前のものを、こんなふうにゆっくり眺める余裕がなかっただけなのだろう。
「ね、直人」
「なんだ?」
「次のデート、楽しみだね」
「ああ」
「海、ちゃんと連れてってよ?」
「わかってる」
「約束だからね!」
莉沙はそう言って、小指を差し出してきた。
俺が小指を絡めると、彼女は嬉しそうに指を揺らした。
明日の朝、また気分が沈むかもしれない。
今日の疲れが残って、しばらく外に出る気になれないかもしれないし、仕事へ戻るまでには、まだ長い時間が必要なのだと思う。
それでも、次に行きたい場所ができた。
それだけのことが、今の俺には十分だった。
「ほら、帰ろ!」
莉沙は俺の手を引き、駅へ向かって歩き出した。
この女は、本当に騒がしい。
思いついたことはすぐ口にするし、食べたいものがあれば遠慮なく人の皿から奪っていく。気に入った服を見つければいつまでも眺めているし、可愛いと言えば調子に乗るくせに、言わなければ言わないで文句を言う。
おまけに、こちらが考え事をしているときほど、くだらない話を持ちかけてくるのだから始末が悪い。
けれど、俺が足を止めれば、彼女も立ち止まる。
歩くのが遅くなれば、何も言わずに隣へ戻ってくる。
自分のやりたいことをいくつも抱えながら、それでも俺と過ごす時間を、まるで大切な宝物でも見つけたかのように喜んでくれる。
今日だって、彼女はずっと楽しそうだった。
初めての喫茶店でフレンチトーストを食べたときも、髪留めを買ってもらったときも、公園のベンチで肩を寄せ合っていたときも。
そして今も、次のデートで何を食べようかと、早くも予定を考え始めている。
「ねえ、海行くならさ、帰りに美味しいもの食べたい!」
「まだ行ってもいないのに、帰りの話か」
「だって楽しみじゃん!」
莉沙は振り向いて、屈託なく笑った。
その笑顔が好きだった。
気の強そうな眉も、大きな瞳も、生意気なことばかり言う唇も。笑うたびに揺れる髪も、俺の手を握る細い指も、何もかもが愛おしく思えた。
彼女はきっと、これからも好き勝手に笑い、怒り、泣き、時には俺を困らせながら生きていくのだろう。
その隣に、できれば俺もいたかった。
「……莉沙」
「んー?」
「俺も楽しみだよ」
そう言うと、莉沙は今日一番の笑顔を見せた。
見慣れた街が、よそゆきの装いをしたように思えた。古びたビルの壁も、歩道に伸びる街路樹の影も、足早に家路を急ぐ人々も、昨日までと何ひとつ変わっていないはずだった。それなのに、彼女が笑うと、ありふれた帰り道にさえ、今まで知らなかった美しさがあるように思えてくる。
まったく、不思議な女だ。
何でもない一日を、何でもないままで終わらせてくれない。くだらない話で笑わせて、勝手に次の約束を取りつけて、こちらが忘れていた楽しみまで、当たり前のように見つけてしまう。
莉沙はまだ笑っていた。買ったばかりの青い髪留めが揺れ、柔らかな金色の髪が、その頬をくすぐっている。
俺は少しだけ目を細めた。
夕日がいつもよりも眩しかった。




