最近の中國人は
娘がコンビニでバイトを始めたのは、高校二年の春のことだった。
部活を引退して少し時間ができたから
「社会勉強になるかな」と自分から言い出した。
普段はのんびり屋で、どちらかというとおっとりした性格の娘が
レジに立ってお客さんとやりとりしている姿を想像するだけで
親としてはちょっと誇らしく、そして少し心配でもあった。
そんなある日、夕方のことだった。玄関のドアが開き
「ただいま〜」と娘の声が響いた。
「おかえり。今日も中国人、中国語うまかった?」と
妻が台所から顔を出して言った。
「やめてよ、その言い方!」と、娘が顔をしかめる。
「もう、店長にもいじられたんだから…」
「ん?中国人が中国語うまいって、どういうこと?」と
私が首をかしげると、娘は恥ずかしそうに笑いながら言った。
「いや、私がうっかり言っちゃったの。
“最近の中国人って中国語うまいな〜”って」
その場が一瞬、静まり返った。
「そら中国人やもん、中国語うまいのは当たり前やろ」
と妻が吹き出す。
「中国人が中国語うまいのは普通やろ。
むしろ日本語がうまいって言うべきやろ!」
「もう〜、わかってるよ!でも、なんか
自然に出ちゃったんだもん!」
「中国人の日本語に感心してる場合ちゃうで!
アンタ、日本語ヘタやで!」
「……それを言うか」と、私は思わず口にした。
娘は昔から、ちょっとした言い間違いや勘違いが多い。
中学の英語の授業で「I have a pen」を「I am a pen」と言ってしまい
クラス中が爆笑。先生に「それじゃあ、君はペンになっちゃうよ」
なんていう話は、私の世代では“あるある”の定番ネタだった。
まさか自分の娘がそれをやるとは思わなかったが
血は争えないということか。
でも、そんな娘の言葉のチョイスには
どこか素直さと優しさがにじんでいる。
今回の「中国人って中国語うまいな〜」発言も
決して悪気があったわけではない。むしろ
きれいな日本語を話すお客さんに感心して
思わず口をついて出た言葉だったのだろう。
「そのお客さん、どんな人やったん?」と私が聞くと
娘は少し照れながら話し始めた。
「若いカップルでね、観光で来てるって言ってた。
レジで袋いりますかって聞いたら、すごく流暢な日本語で
“いりません”って言われて、びっくりしちゃって。
それで、つい“日本語うまいですね”って言ったら
“ありがとうございます”って笑ってくれて…」
「ええやん、ちゃんと褒めてるやん」と私が言うと
娘はさらに続けた。
「でも、そのあとに“最近の中国人って中国語もうまいな〜”って
つい言っちゃって…」
「それはアカンわ」と妻が笑いながらツッコミを入れる。
「店長にも“お前、何言ってんの?”って言われてさ〜。
もう、恥ずかしかった〜!」
娘はソファに倒れ込みながら、枕で顔を隠した。
でも、私はその話を聞いて、なんだか嬉しくなった。
言葉の間違いは、誰にでもある。でも
それを笑い話にできる家族の空気が、私はとても好きだ。
それにしても、言葉って本当に不思議だ。
正しいかどうかだけじゃなくて、その裏にある気持ちや
背景が大切なんだと思う。娘の日本語は
たしかにちょっと不自由かもしれない。でも
その不自由さの中に、彼女らしい感性や世界の見方が詰まっている。
最近では、娘がバイト先で出会った外国人のお客さんとのやりとりを
よく話してくれる。中国から来たおばあちゃんが
スマホの翻訳アプリを使って「このお菓子、孫が好きなんです」と
伝えてくれた話。台湾から来た学生が、レジで「ありがとう」と
言ってくれたときの嬉しさ。そんな話を聞くたびに
言葉の壁を越えて人と人がつながる瞬間の尊さを感じる。
「でもさ、私も中国語、ちょっと覚えようかなって思ってるんだ」と
ある日娘が言った。
「お、ええやん。どんな言葉覚えたん?」と聞くと
娘は得意げに言った。
「ニーハオ!」
「……それだけかい!」
家族全員で大笑いした。
言葉は、時に人をつまずかせる。でも、同時に人と人を
つなぐ橋にもなる。娘のように
間違いながらも前に進もうとする姿勢は
私たち大人が忘れがちな大切なことを思い出させてくれる。
きっと娘は、これからもたくさん間違えて
たくさん笑われて、でもそのたびに少しずつ
言葉を覚えていくんだろう。私たち家族もまた
そんな彼女の成長を見守りながら
言葉の奥にある気持ちを大切にしていきたい。
今日も、明日も、きっと笑い声の絶えない食卓が続いていく。




