5.激震
東の空が白んできた頃、寝所の外の廊下で男の声がした。その声は、低く小さな声だった。
「御休みのところ申し訳御座いません。緊急事案で御座います」
声の主は惟光様だった。
何事? と、思った瞬間、既に光様は上掛けを羽織り、その声のする方に向かっていた。
扉の向こうで話す男達。
──「何事ぞ?」
「申し訳御座いません。安岐様が危篤状態で御座います」
男は淡々と、情報を上司に伝える事だけに専念していた。
「は? もしかして……」
一瞬彼は顔を歪め、その後の言葉を続けることはしなかった。
「親王は?」
惟光が首を横に振る。
「何と言う愚かな……」
「今際の際で御名を呼び続けております。……最期に情けを掛けてやってはくれませぬか?」
彼が自身の身内や自分のことで、親友とも言えるこの男に願い事をすることは一度もなかった。
それは彼の身分をわきまえていたからだ。臣下と主との境界線を決して超えたことはなかった。
惟光は、主に震えながら頭を下げる。その床には雫がポツポツと続いていた。
目の前の男は、無言で寝所の扉を少しだけ開けた。
「皇后が自害を図った。最期を看取ってくる。後を頼んだぞ凛花。夜には帰る」
私は一瞬言葉を失ったが、彼の力強い声に彼の決意を感じた。そして全てを隠さず私に伝えた。
その意味とは。
「承知しました。精一杯御勤め下さい」
一瞬、俺はギョッとした。何と彼は愛妻に、かつての恋人の旅立ちに付き添うと宣言したのだ。
本来は親族でもない、結婚した男性が他所の女、しかも人妻の臨終に付き添うことは絶対にない。
それでも俺は姉のいや、彼女の哀れな人生の最期の夢を叶えてやりたかった。
彼女はずっと彼を想い続けていたから。
そして、それを待つ。と彼の愛した女性は気丈にも答えた。
利発で笑顔が可愛く、時に少女のような彼女に俺は敬意を表した。
「紀恵、仕度を!」
主が急ぎ着替えを終え、奥の離宮へ急いだ。
──考えなかった? と言えば嘘になる。頭の何処かで予感はあった。彼女の性格なら……
でも、その予感を自分の都合の良いように勝手に捻じ曲げて肯定化していた。今の自分の立場を守る為に。いや、守りたかったのは立場ではない。ただの自分の理だ。
逃げたのだ。昔置いた自分の責任から。
自分の幸せの為に俺は逃げた──
彼は、失った過去の清算に懺悔するかのように、騒ぐ胸の鼓動と共に急いだ。
◇
「殿下!」
既に支宣と、父上が付き添っていた。
部屋は独特の臭いに包まれていた。何度も嘔吐した後があり、彼女の顔面は既に青白く、目は剥き出しになり苦しむ姿は狂気とも言える様相だった。
皇后が最期を迎えるには、あまりにも質素な部屋だった。
日の当たらない部屋で老女が一人付き添っているだけで調度品も殆どなく、質素を通り越して仏の道に入った者の部屋のようだった。
敢えてこの部屋を選んだかのように。
「殿下! このような所へお越し下さって、しかし!!」
父上が礼を言う。だが、直ぐに退出を促す。
「いや、構わん。奥も承知だ」
主は低い声で、父上を制した。
「どうだ?」
彼は支宣に目を向けた。
「今夜まで持つか……」
──グホッ。ゲホッ。ゲホッ。
もう何度目になるだろうか? 中にはもう胃液しか残ってないが、彼女は嘔吐を繰り返す。時に血が混ざっていた。
その様相は命を粗末にした者へ、まるで神が罰を与えているかのように壮絶を極めていた。
「安岐! 気をたしかにせい!」
主が、妄想の中苦しみ狂気する女を床から抱いて声を掛けた。
「殿下!! 汚れます!!」
父上が殿下を止めようとするが、気にせず彼は彼女を抱きしめた。
嘔吐で汚れた口元を拭き、咳き込む女の背中をさすってやり、彼は精神誠意、女の最期に尽くしていた。
「で、殿下……」
その姿に部屋にいた者は皆涙した。
いつしか、支宣は部屋を後にしていた。
その後を追うかのように兄惟光も静かに退出していた。
──どうか安らかに召されますように。
──そして後生だから、その呪縛からもう親愛なる友を解放してやって下さい。
惟光は神に祈りを捧げることしか出来ない非力な自分に涙した。
かつては永久の愛を誓った二人。
その約束は歪んだ愛によって手折られた。
運命のいたずら? によって無理矢理引き裂かれた彼女の想いを、男はこのとき贖罪の気持ちで? それとも自己肯定で? それは誰にも分からなかった。
でも、そこにいる男の目は真剣に彼女を慈しんでいた。
その後も何度も部屋の中から聞こえる金切り声と、狂気の叫び。
部屋は二人だけの世界になっていた。
東の空がほんの少し紫色に変わる頃、部屋が静かになる。
「光綬、幸せになってね」
まるで菩薩のような笑顔を、女は愛した男に向けて逝った。
それが彼女の最期の言葉だった──
男はそっと女を抱きしめた後、静かに寝床に下ろし布団をかけてやった。
布団の上にそっと自分の短剣を置いた。
それはかつて、元服前に彼が身に付けていた幼刀であった。その鞘には幼名「光綬」と刻まれてあった。
部屋の襖を静かに開けた主は、たった一言だけ告げて静かに去った。
「立派な最期であった」
◇
──殿下は結局、昨夜は帰って来なかった。
広すぎる寝室で眠れぬ夜を過ごした彼女もまた、複雑な気持ちだった。
気にならないと言えば嘘になる。
でも、それは自分と出会う前の話だ。
しかもこの世界にすら自分がまだ居なかった時の話。
頭では理解している。
しかも相手は死の淵に立っている。
もし彼が拒んでいたとしても、私は彼を向かわせたはずだ。
当時の愛は、それが本当の愛であったのか? 両親の愛を知らずに、一度も両親に抱かれることもなく育った彼の幼少期から、ずっと近くにいた姉のような存在、妹のような存在を、単純に愛情、家族愛と思っていただけなのかも? 自分でも今だに分からないと彼は正直に言った。
それでも、彼女が父によって手折られたと知った時、彼を本気で殺そうと思ったことも。
それが彼女への愛でだったのか? 狂気に歪んだ彼への憎しみだったのかは? 分からないと。
彼の言う「もう過ぎ去った過去の話だ」はどこまでが本当かは分からないが、彼の言葉を私は信じることにした。
──ギィー
寝所のドアが半分だけ開いた。
「遅くなった」
私は声の主の方に走って行く。
だが、彼はそれを制した。
「流してくる。直ぐ戻るからそのまま待ってろ。良いな?」
そう言った彼の顔は、清々しく綺麗な顔をしていた。
長年の想いにきっと終止符を打つことが出来たのだろう。
私は寝台から起き上がり、簡単に着替えを済まし台所へ向かう。
「おはよう御座います。朝餉の時間ですよ? 貴方」
そう言って彼の好物である砂糖が入った甘めの卵焼きと、炊きたての「ご飯」を椀に盛り、食卓に並べる。
「打ってよいぞ」
そう言って彼は私の目の前に、その美しい顔、いや頬を突き出した。
「浮気ですか?」
私はわざと聞いてみる。
「いや、だが心配させれば同じことだ」
そう言って彼は私に促した。
──パチン
「ちょ、ちょっとは手加減するとかはお前には無いのか?」
殿下は私を少し睨んだ。
「手加減したら、御自分を赦せましたか?」
私は彼に問う。
「──ありがとう。これで全て終わりだ」
暫くの沈黙の後、彼はいつもの優雅な笑みを浮かべた。
「お! 今日は大福が二つもあるではないか!!」
少年のように嬉しそうな顔をする彼の笑顔を、私はもう決して奪わないで欲しいと神に願った。
「今日だけですからね? 貴方?」
「あ! その貴方って呼ぶの良いなぁ」
かつての両親、母親が父親を呼んでいた時の呼び方だった。
いつか私もそんな家族が欲しいと思っていた。
私はにっこり微笑みながら言う。
「早く仕度をしないと、遅れますよ? 貴方?」
私は知っていた。こんなことがあった後でも、彼はちゃんと仕事に行くことを。
何事もなかったかのような顔をして、颯爽と皆の上に立つ。
そんな強い彼を、少しでも傍で支えれる女性で在りたいと私は願う。




