夜の贈り物
夜の静寂で、梓は目を覚ました。襖の隙間から差しこんだ月明かりが、畳の目を一本ずつ銀色に染めていく。青い夜気がまだ残っていて、寝返りを打つと髪にまで冷たさが染みこんでいるように感じられた。
ここは、母が残していった家。柱の節の黒ずみ、鴨居の塗りの剥げ、障子紙の薄い黄ばみ――どれも初めて見るはずなのに、月光に浮かび上がると、どこか懐かしい。
玄関先に人の気配がした。
布団から起き上がり、窓辺に向かう。薄いカーテンを開けると、夜風が頬をかすめ、遠くで梟がひと声だけ鳴いた。澄んだ夜気に湿った土の匂いが混じり、胸の奥までゆっくりとしみてくる。
玄関へ回ると、月明かりで上がり框の影が長くのびていた。戸を引く。木と木が擦れる低い音のあと、土と野菜の匂いがふっと立ち上がる。軒先に、籠が二つ置かれていた。ひとつには米袋、もうひとつには菜っ葉と茄子、それから赤い小さな実がいくつか。葉の裏には夜露が宿り、泥もしっとりと湿っている。指で触れると、冷たい湿りがそのまま指先に移った。縄の結び目には手慣れた癖がある。けれど、どこにも名前はない。
ありがたい、と梓は思った。
誰かが、持ってきてくれたんだ。その重みは確かで、そこに込められた労力も気持ちも、月明かりの下で籠を持ち上げただけで伝わってくる。けれど同時に、胸の奥で小さな棘が動いた。頼む前に親切がやって来る。そんなふうにして、この家にいる自分の居場所までも、外から決められてしまう気がしたのだ。
居間の本棚に目が止まる。母の古い日記帳が置いてある。村へ来る前に一度手に取り、震える文字を見たきりになっている。母を思い出すのがつらくて、まだ通しては読めていない。それでも気持ちが揺れると、つい頁を開いてしまう。亡き母の足跡をなぞるように。
今夜は春の欄に目が止まった。短い一文が挟まれている。
――笑顔で与えるのが、この村の礼儀。
与える側の笑顔は、どんな形だったのだろう。受け取る側の自分は、どんな顔をすればいいのか。
籠を抱えて台所に運びながら考える。菜っ葉を水に浸け、茄子の表面をなぞると、紫の皮に月光が淡く反射した。米袋を持ち上げると、肩に落ちてくる重みが体の芯まで届く。その重みも匂いも、ぜんぶ本物だ。だからこそ、胸の奥にざわめきが残った。
土間に、湿った足跡のようなものがふたつ続いていた。よく見ると、それは夕方、梓が外に出たときの自分の跡で、脇に落ちた泥が広がっているだけだ。胸の棘はそこへすっと収まる。そういうことだ、と梓は思う。知らない何かではなく、知っている自分の跡。気のせいは、丁寧に確かめれば、たいてい気のせいのまま片づけられる。
机にノートを広げ、鉛筆を削る。削りかすの匂いが、夜気に混じった。家の中は静寂に包まれ、紙の上を行き来する自分の手の音だけが聞こえる。
――親切=義務? 喜びか? 受け取らない、という選択は、あるのかな。
書いた文字を見つめ、梓は鉛筆を置いた。窓の向こうに星明かりがちらめいている。
明日は学校の前に診療所に行かなければならない。
転校生である梓は定期検診を受けていないため、午前中に診療所で診察を受けるように指示されていた。
梓の脳裏に、あの若い医師の顔が浮かぶ。通学路で見かけた吉川先生。村の人たちに慕われている様子だった。
怖い人じゃなさそうだったけれど、やっぱり少し緊張する。
でも、その後は学校だ。
新しい友達ができた初めての一日を振り返りながら、梓の心は静かに躍っていた。美穂の頼もしさ、健太の不器用な優しさ、あゆみの屈託のない笑顔。そして、清音。
清音の横顔を思い浮かべると、また胸がどきどきした。あの澄んだ声、氷が溶けるような微笑み。母親を失って凍りついていた心が、少しずつ溶け始めているのを感じる。
この村で、本当に新しい人生が始まるのかもしれない。
そんな希望を胸に、梓は再び布団にもぐりこんだ。夜風が障子を揺らして、どこか遠くで水の流れる音が聞こえる。安らかな眠りへと誘われながら、梓の唇にはかすかな笑みが浮かんでいた。
◆◆◆
あとがき。
心傷ついた少女が、優しい村の人々と自然に癒されて再生するお話でした。
スローライフいいですよね!
断片も掲載してますので、そちらと合わせてお楽しみくださいませ。