祝祭/祝災(上)
日が落ちていた。
山の端に沈んだ太陽の残光が、わずかに空の輪郭を染めている。
村の中央にある広場では、無数の松明が焚かれ、赤い炎が夜風に揺れていた。
昼間の静けさは跡形もなく、村はざわめきに満ちていた。笛の音、太鼓の音、鈴の音。どこか懐かしいはずの音色が、今夜だけは異様に聞こえる。
梓は、白い着物の袖を握りしめて立っていた。
布地は薄く、夜気を通して肌に張り付く。その冷たさのせいか、心臓の鼓動がやけに大きく響いた。
着物の胸元には愛用のメモとちびた鉛筆。
自分に何かあっても、記録があれば吉川先生がなんとかしてくれる。
鼓動だけが、周囲のすべてと違うリズムを刻んでいる気がする。
広場の中央には、木を組み合わせて作られた舞台のような祭壇が作られていた。
幾重にも注連縄が張られ、榊の枝が差してある。
その周りを取り囲むように、村人たちが集まっていた。老人も、若い者も、子どもさえも。皆が白装束を身にまとい、蝋燭の光に顔を照らされている。
表情はどれも穏やかで、微笑んでいた。
笑っている。
梓はその光景を見つめながら、喉の奥がひりついた。
この村の人たちは、これから何が起こるのかを知っている。知っていて、それでも笑っている。
まるで、それが幸福であるかのように。
梓とあゆみは祭壇の上に立ち、村の人々を見下ろしていた。
「さぁ、今年村の大人になるものたちじゃ! 皆大いに歓迎するんじゃ!」
清一の声に合わせ、太鼓の音が鳴り響いた。
ドン、ドン、と腹に響く低音。
続いて笛の高い音が、風を裂いて空へ昇っていく。
音が合わさり、村全体がひとつの呼吸をしているようだった。
村人の群れが割れ、神輿が現れる。
その上に清音の姿が見えた。
巫女としての衣をまとい、頭には花冠。
その佇まいは、息を呑むほど美しかった。
けれど梓の胸の奥で、何かがざらついた。
清音の体の奥に、見えない“目”が無数に息づいている気がした。
「おう、よう聞けぇ! 巫女様のお通りじゃ!」
「ほれ見てみぃ、今年は清音様が……なんちゅう美しか娘じゃろ」
「今年もええ出来じゃけぇ、これで村は安泰じゃのぉ」
巫女を乗せた神輿が、祭壇に到着し、清音は祭壇の奥にしつらえられた席にそろりと腰かける。
太鼓が止まった。
清一が姿を現す。
白の祭服に冠を戴き、竹の杖を手にしている。
杖の先に吊るされた鈴が、夜風に揺れて微かに鳴った。
清一が祭壇に上ると、ざわめきがすっと消えた。
火の音と、虫の声だけが残る。
「――今年もこの日を迎えられたこと、わしらは感謝せにゃならん」
低く響く声だった。
村人たちは一斉に頭を下げる。梓も、周囲に合わせて膝を折った。
土の匂いが鼻を刺す。湿った地面の冷たさが膝に染み込む。
「にくゑ様はわしらを見守り、病を退け、恵みを与えちゃった。
その恩を忘れんよう、今宵もまた、血と肉とをもって感謝を捧げるんじゃ」
祈りの言葉に合わせて、太鼓が鳴る。
笛が追い、村人たちの唇が同じ祝詞を紡ぎ始めた。
声が重なり、うねりとなって夜空を震わせる。
梓の隣では、あゆみが静かに目を閉じていた。
その頬はほんのりと紅潮し、微笑みを浮かべている。
夢を見ているような、幸福そうな顔。
まるで清音を思い浮かべているような表情だった。
清音――。
梓は無意識に顔を振り返り、祭壇の奥を見た。
すぐそこ、白い姿が見える。
巫女としての装束をまとい、花冠を戴いていた。
その姿は美しく、そしてどこか神々しかった。
清音がゆっくりとこちらを見た。
一瞬、視線が重なる。
その瞬間、梓の体に鳥肌が立った。
だが、清音は優しく微笑んだ。
いつかの夜と同じ、あの笑顔。
太鼓の音が止まった。
広場の空気が変わる。
清一が竹杖を掲げ、声を張り上げた。
「――通過の時が来たんじゃ!」
歓声が上がった。
村人たちが立ち上がり、両手を打ち鳴らす。
「ほいじゃ、あゆみ! 梓! 前へ出ぇ!」
呼ばれ、梓とあゆみは一歩前に出る。
足元の土がふらつく。
隣で、あゆみが笑っていた。
いつものように無邪気に、だがその瞳の奥には何かが宿っている。
二人は祭壇の前へ進む。
村人たちの視線が、熱を帯びて突き刺さる。
その視線に、信仰と欲望と狂気が混ざっていた。
清一が二人の前に、大きな杯を掲げた。
杯は古びた木製で、内側は黒光りしている。
中には、どろりと濃い赤い液体が満たされていた。
灯に照らされて、それは血のように見えた。
「これが、にくゑ様の恵みじゃ。これを飲み干し、肉も心も魂も、ひとつにするんじゃ」
ざわめきが走った。
村人たちが息を呑み、太鼓が再び鳴り始める。
清一はまず、杯をあゆみに差し出した。
「あゆみや、よう飲め。おまえはもう立派な大人じゃ」
あゆみは迷いなく手を伸ばした。
その動きは、まるで何度も練習した儀式のように滑らかだった。
両手で杯を受け取り、唇を寄せる。
液体が喉を流れ込む音が、やけに鮮明に聞こえた。
あゆみの喉が動き、頬が朱に染まる。
その顔に、うっとりとした微笑みが浮かぶ。
清音を見つめるように目を細め、ありがとうと呟いた。
清一は次に、梓の方を向いた。
「梓。おまえも飲め。今日からおまえは村の子じゃ」
梓は杯を見つめた。
赤い液体の表面が、炎を映して揺れている。
その奥で、何かが蠢いた気がした。
見つめるうちに、胸の奥に冷たいものが広がっていく。
――飲まなければ。
この祭りを完遂しなければ、計画は成立しない。
あの井戸で、吉川先生が火を放つその時を稼ぐために。
梓は手を伸ばした。
杯を受け取り、唇を寄せる。
液体はどろりとしていた。
口の中に、鉄の味と土の匂いが広がる。
それでも飲み干した。
杯を返すと、清一が満足げに頷いた。
周囲から歓声が上がる。
「よう飲んだ! よう飲んだのぉ!」
「これでええ、これで村は守られるんじゃ!」
太鼓が鳴り響き、笛が叫ぶように高音を奏でた。
梓の胃の中で、液体が冷たく沈む。
だが、何の変化も起きなかった。
体は変わらない。視界も歪まない。
まるで、自分だけが別の世界に立っているようだった。
――やっぱり、私は違う。
梓はそう思った。
それが恐怖でもあり、救いでもあった。
太鼓が鳴り止み、祭りの熱気が一瞬で静まり返った。
赤い炎だけが夜空を照らし、煙がゆらゆらと揺れている。
梓はまだ、飲んだ液体の鉄の味を口の奥に感じていた。
隣のあゆみは目を閉じ、微笑んでいる。
その顔は幸福そのものだった。
清一が竹杖を突き、声を張り上げた。
「――これより、贄を捧げる。皆、感謝の祈りを!」
その言葉に、村人たちがざわめいた。
顔を見合わせ、祈るように手を合わせる者もいた。
誰もがこの瞬間を待っていた。
太鼓がゆっくりと再び打ち鳴らされる。
ドン、ドン、と低く響くたび、地面が微かに震えた。
笛の音が細く伸び、空気を裂く。
祭壇の奥から、数人の男たちが現れた。
その中心で引きずられているのは――沙織だった。
彼女は白い着物を着せられ、髪を乱し、両腕を後ろで縛られている。
裸足の足首にも縄が巻かれ、引きずられるたびに小石で擦り切れて血が滲んでいた。
腹部は膨らみ、そこが不自然に脈打っていた。
村人たちがどよめく。
「おお……こん方が……」
「ありがてぇ……ありがてぇのぉ」
清一はゆっくりと祭壇の上に立ち、声を張り上げた。
「この女、沙織。この世の為に、にくゑ様の為にこの村にやって来てくれた!」
村人たちは頭を下げた。
涙を流す者もいたが、それは悲しみではなかった。
崇敬の涙だった。
男たちが沙織を祭壇の前へ引きずり出す。
梓は息を呑んだ。
彼女の両目は虚ろで、それでも何かを探すように空を見ていた。
「よういち……あなた……」
掠れた声。
あまりに人間らしいその響きに、梓の胸が締めつけられた。
「やめて……!」
気づけば声が出ていた。
梓は一歩踏み出そうとしたが、腕を掴まれた。
清一だった。
「下がれ」
その声は低く、刃のように冷たかった。
「これはおまえの知る世界の理じゃないけぇな。口を出すでない。お前も巫女の友であるなら、静かに見届けぇ」
「でも、あの人は――!」
「黙れ!」
竹杖の鈴が鋭く鳴った。
その音に、周囲の村人たちが一斉に梓を振り返った。
無数の目が闇の中で光っている。
その光景は人の群れではなく、群体そのもののようだった。
「にくゑ様に穢れを見せるわけにゃいかん!」
「巫女の友なら、掟を破るでない!」
梓は息を呑み、腕を振りほどこうとしたが、清一の手は岩のように固かった。
その力に抗えず、梓は膝をついた。
沙織が引き立てられ、祭壇の中央に立たされる。
太鼓が鳴り響き、笛が悲鳴のようにうねる。
風が吹き上がり、松明の炎が左右に揺れた。
清一が竹杖を掲げる。
「――にくゑ様、今宵、我らは血と肉とをもって贖う。この女を捧げ、命のめぐりをあなたに戻します」
沙織の顔が上を向いた。
月の光が頬を照らしていた。
その瞳は、もはや恐怖の色ではなかった。
「……ふふっ……あ、あは……あははははっ!」
その声に反応するかのように、祭壇の下、地面がぐらりと揺れた。
亀裂が走り、赤い光が地の底から滲み出る。
熱が押し寄せ、地面が息をしているかのように波打つ。
梓の体が震えた。
地面の裂け目から、ぬらりと何かが這い出てくる。
赤黒い肉、無数の目。
まるで胎内の臓器そのものが地上に現れたようだった。
村人たちは歓喜の声を上げた。
「にくゑ様じゃ……!」
「ありがてぇ……ありがてぇのぉ!」
肉の塊から幾つもの触手が伸び、沙織の体が宙に持ち上げられる。それは、ゆっくりと肉の裂け目へと沙織を引きずっていく。
「やめてぇ!」
梓が叫ぶ。
しかし、清一がその肩を押さえた。
彼の目は血走り、狂気に満ちていた。
「見届けぇ! これが救いや!」
沙織の体が赤い肉に飲み込まれる。
白い着物が裂け、血と液体が舞い上がる。
だが、彼女の顔には安堵の笑みが浮かんでいた。
「……いっしょだね……だいじょうぶ、あなただけはきっとまもるから……」
その声を最後に、沙織は完全に肉に飲まれ、消えた。
静寂。
次の瞬間、地の底から、胎動のような鼓動が響いた。
――ドクン。
大地そのものが脈打っている。
梓の足元が揺れた。
天地が砕けるような、激しい揺れが大地を覆う。
そして、遠くで爆ぜるような音。
山の斜面から炎の柱が立ち上がった。




