間章 あゆみ(下)
その夜、あゆみは眠れなかった。
布団の中で寝返りを打つたび、清音の顔が浮かんだ。昼間、梓と手を繋いで笑っていた清音。あんな表情を見たことがない。いつもの人形のような美しさではなく、生きた少女の顔だった。
あゆみは起き上がった。窓の外は深い闇に包まれている。村は静まり返り、遠くで虫の声だけが響いていた。
足音を忍ばせて家を出る。夜気が頬を撫でて冷たい。行き先は決まっていた。清音の家。ただ、なぜそこへ向かうのかは自分でもわからなかった。
清音の家の裏手まで来ると、あゆみは足を止めた。窓の障子の隙間から、細い光が漏れている。まだ起きているのだ。
月が昇ってから、もうだいぶ経っていた。
太鼓の音が山の向こうで途切れ途切れに響き、村は眠っているように静かだった。
あゆみは、ただ歩いていた。行き先もなく、でもどこに行くべきかは分かっていた。
村長の家の裏手。
灯はない。けれど窓の障子の隙間から、細い光が漏れていた。
扉が開き、清音が家を出て行く。白い巫女服を纏って。
胸の奥がどくん、と鳴る。
あゆみはその姿を物陰から見つめた。
常なら村の全てを知っているかのように見える清音が、思い詰めたような表情を浮かべふらりふらりと足を進める。
何か大切なことに気をとられ、他のことは目に入っていないようだ。その証拠に清音はあゆみに気がついていない。
ひっそりと後をつけると、清音はあゆみが一番行って欲しくなかった場所にたどり着く。
あの泥棒猫の家。
村の外からきたよそ者。
扉の前でしばらく躊躇った後、清音はそっと扉を開いた。
家の中から人の気配。
――耳を澄ますと、声がした。
梓の声。
それから、清音の声。
どちらも震えていて、泣いていた。
あゆみは壁に手をついた。
冷たかった。
そこに顔を寄せる。
木の隙間から、部屋の中が少し見えた。
清音が白い衣を脱ぎ、緋の布が床に落ちる。
梓がその手を取った。
灯が揺れ、二人の影が重なった。
――何してるの。
心の中でそう言ったけれど、声にはならなかった。
唇の奥から出たのは、細い息だけ。
清音が泣いていた。
梓が抱きしめていた。
光が肌を照らし、二人の影がひとつになっていく。
あゆみの指先が震えた。
耳が熱い。
喉が渇く。
体の奥が、ざわざわと波立った。
部屋の中から、清音の声が聞こえた。
甘く、苦しそうで、幸せそうだった。
そのたびに、あゆみの胸が締めつけられる。
――どうして。
清音がそんな声を出すのを、一度も聞いたことがなかった。
祭りの練習の時も、神社の掃除の時も、あの人はいつも静かで、笑わなかった。
笑ってほしくて、何度も話しかけたのに。
月の光が、障子の影を薄くした。
あゆみは顔を上げた。
灯が消えかけて、ふっと二人の声も途切れた。
その瞬間、涙が頬を伝った。
――清音、そんなの嫌だ。
背中の方から、虫の声がした。
遠くで、太鼓の音がまた鳴った。
でももう、何も聞こえなかった。
清音の声がまだ耳の奥に残っていた。
あの笑い声が。
あの甘い声が。
全部、胸の奥を焼いていた。
あゆみは息を吸った。
夜気が喉に刺さる。
頭の中で誰かが囁いた。
――三度笑えば、神様が見てくださる。
でも笑えなかった。
ただ、涙がこぼれた。
二人が家を出て行く。あゆみは入れ違うように、梓の家に押し入った。居間には生々しく、二人の体臭と乱れた痕跡が残っている。
「……どうして」
呟くと、あゆみは台所に足をやる。
そこには、最低限の調理用具が、丁寧に並べてあった。
あゆみはふらつきながら何かを探す。
見つけた。鋭利な鋼の刃。
気がつくと、その手の中に包丁があった。
指が柄を強く握る。
刃が月を映した。
あゆみは歩き出した。
清音と梓の姿は見えない。
霧が出てきて、道が白く霞む。
清音たちがどこに行ったのか、あゆみにはわかるような気がした。きっとあの場所。聖域。禁足地だ。
奇妙な確信を持って、あゆみは足を進める。
あゆみの胸の中で、大きく心臓が鼓動を打ち鳴らし続けている。包丁の刃が、彼女の手の中でじっと冷たい光を纏う。
――霧が濃くなってきた。
灯りがなくても、その方角は分かった。
においがするのだ。湿った土と血と、どこか甘い腐臭。
あれを嗅いだら、神様が近い証拠だと、昔からみんな言っていた。
あゆみは手の中の包丁を握りしめた。
指が痛いほど冷えているのに、手のひらだけは熱く汗ばんでいた。
月の明かりが静かに降り注いでいる。
虫の声も、もう届かない。
あゆみの世界には、あの人の白い衣しかなかった。
村はずれの古井戸の前で立ち止まる。
男の声が低く響いた。
清音の父――清一。そして村医の吉川。梓と清音。
そこは、既に何かが終わった気配がしていた。
何か大切なものが失われた気配。
だが、あゆみには関係がない。
あゆみは霧の中に身を隠し、じっと様子を窺った。
清一が何かを語っている。梓が頷く。清音が震えている。
やがて梓の声が聞こえた。
「……残ります」
その言葉が、あゆみの胸を貫いた。
梓がこの村に残る。清音の隣に残る。
あゆみの視界が赤く染まった。握りしめた包丁の柄が、汗で滑りそうになる。
あゆみは走り出した。
霧を切って、月光の中へ。祈りの声が響く中を、一直線に。
梓がこちらを見た。驚きの色が浮かぶ。
あゆみは息を吸った。そして、包丁を突き出した。
刃が柔らかいものを割く感触。温かい血が手に伝う。
梓の目が大きく見開かれ、口が開いた。白い霧の中に、赤い色が散った。
「これで……これで清音は……」
あゆみの声が震えた。涙と笑いが混じって、息が止まりそうになる。
「清音は私のもんよ……誰にも渡さんけぇ……」
梓がゆっくりと崩れていく。清音が驚愕の表情を浮かべるのがはっきりと見えた。
あゆみは笑った。三度、きちんと。
一度、口角を上げる。
二度、目を細める。
三度、喉で息を鳴らす。
神様への、完璧な祈りだった。
「……はっ」
言葉が喉からこぼれた。
「……あははははっ! こん泥棒猫っ! 思い知れっ!」
梓がゆっくりと崩れた。
月明かりの中、霧が大きく揺れた。
清一があゆみの身体を拘束する。吉川が梓を抱き起こすのが見える。
あゆみは笑った。
涙が頬を伝った。
笑いと涙が混じって、息が止まる。
そのまま、霧の中に立ち尽くした。




