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にくゑ-本編-【完結】  作者: カクナノゾム
第十二章 封じの井戸
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間章 あゆみ(下)

 その夜、あゆみは眠れなかった。

 布団の中で寝返りを打つたび、清音の顔が浮かんだ。昼間、梓と手を繋いで笑っていた清音。あんな表情を見たことがない。いつもの人形のような美しさではなく、生きた少女の顔だった。


 あゆみは起き上がった。窓の外は深い闇に包まれている。村は静まり返り、遠くで虫の声だけが響いていた。


 足音を忍ばせて家を出る。夜気が頬を撫でて冷たい。行き先は決まっていた。清音の家。ただ、なぜそこへ向かうのかは自分でもわからなかった。


 清音の家の裏手まで来ると、あゆみは足を止めた。窓の障子の隙間から、細い光が漏れている。まだ起きているのだ。


 月が昇ってから、もうだいぶ経っていた。

 太鼓の音が山の向こうで途切れ途切れに響き、村は眠っているように静かだった。


 あゆみは、ただ歩いていた。行き先もなく、でもどこに行くべきかは分かっていた。


 村長の家の裏手。

 灯はない。けれど窓の障子の隙間から、細い光が漏れていた。

 扉が開き、清音が家を出て行く。白い巫女服を纏って。

 胸の奥がどくん、と鳴る。


 あゆみはその姿を物陰から見つめた。

 常なら村の全てを知っているかのように見える清音が、思い詰めたような表情を浮かべふらりふらりと足を進める。


 何か大切なことに気をとられ、他のことは目に入っていないようだ。その証拠に清音はあゆみに気がついていない。


 ひっそりと後をつけると、清音はあゆみが一番行って欲しくなかった場所にたどり着く。

 あの泥棒猫の家。

 村の外からきたよそ者。


 扉の前でしばらく躊躇った後、清音はそっと扉を開いた。

 家の中から人の気配。


 ――耳を澄ますと、声がした。

 梓の声。

 それから、清音の声。

 どちらも震えていて、泣いていた。


 あゆみは壁に手をついた。

 冷たかった。

 そこに顔を寄せる。

 木の隙間から、部屋の中が少し見えた。


 清音が白い衣を脱ぎ、緋の布が床に落ちる。

 梓がその手を取った。

 灯が揺れ、二人の影が重なった。


 ――何してるの。


 心の中でそう言ったけれど、声にはならなかった。

 唇の奥から出たのは、細い息だけ。


 清音が泣いていた。

 梓が抱きしめていた。

 光が肌を照らし、二人の影がひとつになっていく。

 あゆみの指先が震えた。


 耳が熱い。

 喉が渇く。

 体の奥が、ざわざわと波立った。


 部屋の中から、清音の声が聞こえた。

 甘く、苦しそうで、幸せそうだった。

 そのたびに、あゆみの胸が締めつけられる。


 ――どうして。


 清音がそんな声を出すのを、一度も聞いたことがなかった。

 祭りの練習の時も、神社の掃除の時も、あの人はいつも静かで、笑わなかった。

 笑ってほしくて、何度も話しかけたのに。


 月の光が、障子の影を薄くした。

 あゆみは顔を上げた。

 灯が消えかけて、ふっと二人の声も途切れた。

 その瞬間、涙が頬を伝った。


 ――清音、そんなの嫌だ。


 背中の方から、虫の声がした。

 遠くで、太鼓の音がまた鳴った。

 でももう、何も聞こえなかった。


 清音の声がまだ耳の奥に残っていた。

 あの笑い声が。

 あの甘い声が。

 全部、胸の奥を焼いていた。


 あゆみは息を吸った。

 夜気が喉に刺さる。

 頭の中で誰かが囁いた。


 ――三度笑えば、神様が見てくださる。


 でも笑えなかった。

 ただ、涙がこぼれた。


 二人が家を出て行く。あゆみは入れ違うように、梓の家に押し入った。居間には生々しく、二人の体臭と乱れた痕跡が残っている。


「……どうして」


 呟くと、あゆみは台所に足をやる。

 そこには、最低限の調理用具が、丁寧に並べてあった。


 あゆみはふらつきながら何かを探す。

 見つけた。鋭利な鋼の刃。

 気がつくと、その手の中に包丁があった。

 指が柄を強く握る。

 刃が月を映した。


 あゆみは歩き出した。

 清音と梓の姿は見えない。

 霧が出てきて、道が白く霞む。


 清音たちがどこに行ったのか、あゆみにはわかるような気がした。きっとあの場所。聖域。禁足地だ。


 奇妙な確信を持って、あゆみは足を進める。

 あゆみの胸の中で、大きく心臓が鼓動を打ち鳴らし続けている。包丁の刃が、彼女の手の中でじっと冷たい光を纏う。


 ――霧が濃くなってきた。

 灯りがなくても、その方角は分かった。

 においがするのだ。湿った土と血と、どこか甘い腐臭。

 あれを嗅いだら、神様が近い証拠だと、昔からみんな言っていた。


 あゆみは手の中の包丁を握りしめた。

 指が痛いほど冷えているのに、手のひらだけは熱く汗ばんでいた。


 月の明かりが静かに降り注いでいる。

 虫の声も、もう届かない。

 あゆみの世界には、あの人の白い衣しかなかった。


 村はずれの古井戸の前で立ち止まる。

 男の声が低く響いた。

 清音の父――清一。そして村医の吉川。梓と清音。


 そこは、既に何かが終わった気配がしていた。

 何か大切なものが失われた気配。

 

 だが、あゆみには関係がない。

 あゆみは霧の中に身を隠し、じっと様子を窺った。

 清一が何かを語っている。梓が頷く。清音が震えている。

 やがて梓の声が聞こえた。


「……残ります」


 その言葉が、あゆみの胸を貫いた。

 梓がこの村に残る。清音の隣に残る。

 あゆみの視界が赤く染まった。握りしめた包丁の柄が、汗で滑りそうになる。


 あゆみは走り出した。

 霧を切って、月光の中へ。祈りの声が響く中を、一直線に。

 梓がこちらを見た。驚きの色が浮かぶ。

 あゆみは息を吸った。そして、包丁を突き出した。

 刃が柔らかいものを割く感触。温かい血が手に伝う。

 梓の目が大きく見開かれ、口が開いた。白い霧の中に、赤い色が散った。


「これで……これで清音は……」


 あゆみの声が震えた。涙と笑いが混じって、息が止まりそうになる。


「清音は私のもんよ……誰にも渡さんけぇ……」


 梓がゆっくりと崩れていく。清音が驚愕の表情を浮かべるのがはっきりと見えた。


 あゆみは笑った。三度、きちんと。

 一度、口角を上げる。

 二度、目を細める。

 三度、喉で息を鳴らす。

 神様への、完璧な祈りだった。


 「……はっ」


 言葉が喉からこぼれた。


 「……あははははっ! こん泥棒猫っ! 思い知れっ!」


 梓がゆっくりと崩れた。

 月明かりの中、霧が大きく揺れた。

 清一があゆみの身体を拘束する。吉川が梓を抱き起こすのが見える。


 あゆみは笑った。

 涙が頬を伝った。

 笑いと涙が混じって、息が止まる。

 そのまま、霧の中に立ち尽くした。

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