虚木(上)-神の理-
霧がまた薄く動いた。その呼吸を見届けてから、清一は短く息を吐いた。
「……さて」
誰に向けたとも知れぬ声だった。けれど、その言葉が落ちると、音はすべて揃って小さくなった。井戸の底の滴りも、梓の浅い呼吸も、同じ調子で沈む。
「見たな。掟を外した者の末路じゃ。あれは、”なりそこない”――もうどうにもならん」
その言葉を聞いた吉川は、毅然と顔を上げ声を上げる。この悲劇を、惨劇を全てわかっていたかのような清一に対する怒りを隠すこともせずに。
「村長! 今のは何だったんです!? この村は何なんだ! 貴方は何を知っているんですかッ!」
迸るような言葉が清一にぶつけられる。しかし神官服を纏った清一は、巌のような無反応で、その言葉を受け止めた。
「――先生、あんたも聞くとええ。どうせ全て忘れてまうじゃろうが」
薄く笑みを浮かべ清一が言葉を口にする。
「聞かせてくれるのというのなら、教えてください。私にはもう耐えられないッ! そもそも、にくゑとは何だッ! この村の掟にはどんな意味があるというんだッ!」
清一は火越しに三人の顔を順に見た。梓は目を上げている。清音は涙の跡を残したまま、唇をかたく結んでいた。吉川は清一を睨み付け、石のように動かない。
「今宵は、この梓を、弓子の娘を村に正式に迎え入れるためにしつらえた場じゃ、のぉ清音?」
「……ええ。私は梓に、ここに居て欲しい」
清音は項垂れるように、微かに首を縦に振った。
「じゃから、この村のこと全てを話そうかのう」
静けさが一度、井戸の底まで沈む。
しばらくして、清一は再び口を開いた。
「にくゑ様についてじゃったな……」
清一が、吉川を見る。挑むように吉川は清一の眼を見返した。
「――昔、寛永の飢饉の折にな、村の者らは食うもんがのうて、山に籠った。ある日、その山に星が落ちたそうじゃ。村の娘が、声が聞こえるっちゅうてな? そこにいったんよ。で、見つけたんが“にくゑ”じゃ。村はずれにある洞の奥でのう」
霧の隙間から月光がさす。
清一は月の光に照らされながら、ゆっくりと語り始めた。
「白う光る肉みてぇなもんが蠢いとったそうじゃ。声が聞こえるっちゅうて、それを口にしたんが最初の巫女じゃ」
「その肉は食うた者の腹を満たした。けど、何人かの村の衆の身体が変わり始めた。皮膚の下で、光る筋が走り、目が開いた。……そいでも飢えは止んだ。村は助かったんじゃ」
月影が、清一の頬を深く刻む。
「それからや。わしらはその神を“にくゑ様”と呼ぶようになった。食うて命を繋ぐうちに、血に神が宿った。子を産むたび、そいつは濃うなっての、今じゃもう、わしらみんなの中におる」
吉川がわずかに息を呑んだ。
清一は構わず言葉を続ける。
「けどな、あの方はよう喰う。星ひとつ呑むまで止まらん。巫女たちが中から押さえとるけぇ、いまは静かなもんじゃ。にくゑさまを押さえる為の儀式もあるけぇな」
言葉の合間に、霧がゆるゆると動いてゆく。
「それが、村の掟……ですか」
呟く吉川に、清一は大きく頷く。
「そうじゃ。掟はにくゑ様を鎮める為に行う儀式よ。人は笑うて祈る。三度の笑顔は柏手と同じじゃけぇ。まず口角を上げる、次いで目を細める、最後に喉で息を鳴らす。あれで“にくゑ様”を鎮めるんじゃ。村の外では遊びごとにしとるが、ここでは祈祷りの形よ」
「夜中に道の端を歩くなというのは?」
「道の端にはにくゑ様の筋が通っとるでな。弱いもんがそこを歩くと、身体んなかのにくゑ様が暴れ出すかも知れん」
「村人の身体には、にくゑがいる、と? それではそれが暴れるとどうなるんです?」
「さっき見たとおりじゃ」
そういって、清一は井戸に目を向ける。
「そうなると、なりそこなう。祈ろうが望もうが関わらん。同化が外れて、人にも神にも成り切れんかった身の名よ。千鶴も、宗次も、ただそれだけのことじゃ」
「この井戸はなりそこないを封じるためのもんじゃ。あれは神から離れた肉、人にも戻れんもんの結界よ。巫女が祈って蓋を閉じる。笑いが絶えたら、井戸が鳴く。鳴きゃあ、神が疼いとる証じゃけぇの」
梓は唇を結んだまま、清一を見ていた。
月明かりが彼女の頬を白く照らし、影を長く引く。清一は梓の傍らに佇む清音に目をやる。
「……巫女は神の夢で人の脳を撫でる。忘れさせることも、笑わせることも出来る。神の手ぇを借りての。けんど、外の人間には効かん。血に因子がなけりゃ、神の声は届かんけぇな」
清一はゆっくりと祈祷書を閉じた。
湿った紙の匂いが、月の湿気に滲んで甘く漂う。
「わしらは罪の子じゃ。神の肉を喰うて生き延びた報いに、笑いと血で神を鎮め続けとる。梓、お前も、その理の内に入らにゃならん」
霧が月を遮り、世界が一度、静止したように見えた。




