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にくゑ-本編-【完結】  作者: カクナノゾム
第十二章 封じの井戸
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霧の中で

 ――霧が深い。


 祠の周りを包む白い霧は、まるで生きているように這い回り、古い石段を舐めては消える。焚き火の炎が霧に押されて低くなったり、突然勢いよく立ち上がったり、まるで呼吸をしているようだ。


「後は、わしの仕事じゃな」


 そう言った虚木清一は古井戸の傍らから歩み出た。いつもの平服ではなく、神官服を纏っている。裾が湿った地面に触れ、草の露を吸って重たげに垂れ下がっていた。両手を背後で組んだ姿勢は微動だにせず、まるで石の像のようでもある。ただ、その目だけは生きていて、清音の傍らに立っている梓をじっと見つめていた。


 梓は清一の視線を受けながらも、怯む様子はない。母親譲りの面立ちに、今は強い意志が宿っている。隣に立つ清音の方を時々振り返るものの、その目に迷いはない。


 清音の顔は青白い。いつもの人形のような美しさに、今夜は緊張が加わって、まるで今にも砕けてしまいそうに見える。白いセーラー服の胸元で組んだ手が、小刻みに震えている。


 井戸は口を開けて待っているように見えた。


 金属の蓋は地面に転がり、古い鉄の表面には錆と、雨に滲んだ札の切れ端がべったりと張り付いている。墨で書かれた文字はもはや判読できないが、それが何かしらの封印であったことは想像に難くない。


 井戸の中からは、時折奇妙な音がする。ぽこ、ぽこと泡が弾けるような音。何か粘つくものが動いているような、湿った響き。聞いているだけで背筋に冷たいものが走る音だ。


「ここでお前には、ほんまの村のもんになってもらう。清音の次の巫女として、務めを果たすんじゃ」


 清一が口を開いた。夜の静寂を破る声は低く、抑揚がない。まるで天気予報でも読み上げるような、事務的な響きだ。だが、その内容は梓の運命を決定づける重大なものだった。


 清音の体がぴくりと震える。


「そげなこと言わんで! 話がちがうじゃろう! 梓は虚木の血を引いとらんけぇ、巫女にはなれんのよ! ただ村に迎え入れるだけじゃったはずじゃ……!」


 声は喉の奥から絞り出されたようだった。普段の清音からは想像もできないほど強い調子で、父親に向かって言い放つ。


「ええや、そうじゃない」


 清一は首を横に振る。ゆっくりと、まるで愚かな子供を諭すかのように。


「この娘は奇跡じゃ。にくゑ様がわしらに授けてくださった奇跡なんじゃ。村の外から来たいうのに、にくゑ様を御しとるけぇの」


 梓が一歩前に出る。焚き火の光が頬を照らし、その表情をはっきりと浮かび上がらせる。

 ――そうか、この人は知らないんだ。私のことは何も。


「私は、巫女になんてならない! 清音をこの運命から救ってみせる」


 その声には、十六歳の少女とは思えないほどの確信があった。清一と同じ血を引く者としての、頑固で曲がらない意志の強さ。それが今、生みの親に向けられている。


 その時、霧の向こうから、足音が聞こえてきた。不規則で、よろめくような歩き方。誰かが湿った土を踏みしめながら、こちらに向かってきている。


 ――霧の中からふらりと姿を現したのは千鶴だった。


 白い割烹着は裾まで濡れそぼり、右腕を押さえて歩いている。袖口には血が滲んでいて、顔は青白い。それでも足は確実に井戸に向かっている。


 千鶴の顔には、夢見るような不思議な安らぎがあった。長い間探し続けていたものを、ようやく見つけた時の安堵感。諦めかけていた希望が、再び灯った時の静かな歓喜。目は潤み、唇には微かな笑みが浮かんでいる。


 その後を、息を切らせながら吉川が追ってくる。


「千鶴さん、戻ってくださいっ!」


 必死で叫んで居るであろう吉川の声は、霧に吸い込まれてしまう。千鶴は振り返らない。まるで吉川の声が聞こえていないかのように、ただひたすら井戸に向かって歩き続ける。


 その時、井戸が沸き立った。


 最初は音だった。ごぼごぼという、鍋が煮えたぎるような音。それがだんだん激しくなって、まるで地の底で何かが暴れているような響きになる。


 黒い液体が井戸の縁から溢れ出してきた。それは血のように赤黒く、甘ったるい鉄の匂いを放っている。液体に混じって、得体の知れない肉の塊がいくつも浮かび上がってくる。


 最初はただの肉片だった。形も定まらない、赤黒い塊。それがもぞもぞと蠢いて、だんだん形を変えていく。腕のようなものが伸び、頭のような部分が膨らんで、やがて人らしい輪郭を取り始める。


 皮膚の表面には、無数の小さな口があった。それらがひくひくと開閉を繰り返し、時々細い呻き声のようなものを漏らす。背中からは瞼のない目がいくつも覗いていて、涙のような液体を絶え間なく流している。


 見ているだけで吐き気を催すような、おぞましい光景だった。

 だが、その中の一つが、だんだん見覚えのある形になっていく。


 それは、宗次だった。

 榊宗次。行方不明になっていた千鶴の夫の姿を肉塊はとっていたのだった。

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