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にくゑ-本編-【完結】  作者: カクナノゾム
第十二章 封じの井戸
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千鶴

 朝。

 薄い霧が山の稜線を覆い、蝉の声が遠くで重なっていた。榊家の台所には、まだ夜の涼しさが残っている。

 湯気を上げる味噌汁の鍋から、だしの香りが静かに立ちのぼる。


 千鶴は木杓子を握ったまま、ふと手を止めた。聞こえるのは、柱時計の針の音だけ。針は七時を指したまま、もう何年も動いていない。

 食卓に湯呑みを二つ並べ、箸を二膳置く。

 空席の片側に向かって、そっと笑みを浮かべた。


「宗一さん……いただきます」


 その声は、茶碗にぶつかってわずかに震えた。

 誰もいない部屋に、匂いだけが満ちていく。

 台所の隅では、昨夜洗ったままの弁当箱が乾いていない。


 右腕に巻かれた包帯が、少しだけ締めつけるように痛んだ。

 千鶴はそれを気にする素振りもなく、夫の作業着を取り出す。

 古びたアイロンを当てるたび、蒸気が白く立ち上り、窓の外の朝光と溶け合う。


 布地の皺が伸びていく音は、まるで呼吸のようだった。

 食卓の向こう、写真立ての中の笑顔がこちらを見ている。

 夏祭りの日、浴衣姿の夫と並んで撮った一枚。

 あの笑顔のまま、宗一はもう戻らない。

 それでも千鶴は、毎朝この儀式をやめなかった。

 「行ってきます」と小さく呟き、誰もいない玄関に頭を下げる。


 その声を、蝉の鳴き声がさらっていった。

 弁当包みを手に取る。右腕がずきりと疼く。

 包帯の下、脈打つ痛みはまだ新しい。

 それでも彼女は穏やかに笑った。


 「先生に、お昼を届けに行かなくちゃね」


 障子を開けると、外の光が一気に流れ込む。

 夏の空気は湿り、どこか血の匂いが混じっていた。



 吉川が机に向かったまま、カルテの山と格闘していたのは、昼を少し過ぎたころだった。

 幾つもの黒塗りがある。ナンバーの抜けもある。


「……私が、これをやったのか?」


 記憶にない。カルテの改ざんをいつの間にかされている? 吉川の眉間に深い皺が刻まれる。

 その時、診療所の扉を叩く音がした。


「先生」


 呼び声に顔を上げると、千鶴が立っていた。

 いつものように弁当を抱えている。右腕に白い包帯を巻き、手首のあたりまで薄く透けて赤い。


「また朝から何も召し上がってないでしょう? これ、山菜の炊き込みです」

「……いつもすみません」


 千鶴はにこりと笑い、机の隅に包みを置いた。

 光の少ない室内で、その笑みだけがやけに柔らかく見える。

 吉川の左手にも包帯が巻かれていた。先日、診療所で薬品を扱っている際に負った火傷の痕がまだ癒えない。

 互いの手に視線が重なり、二人は同時に小さく笑った。


「お互い、満身創痍ですね」

「……そうですね。いつの間にかこんな風に怪我をしているなんて」


 そう言いながら、吉川は視線を下げた。

 千鶴の右腕の包帯の端が、少し緩んでいるのに気づく。

 そこから漂う匂い——甘く、重く、どこか生臭い。先日、美穂の検死で嗅いだあの匂いに似ている。

 彼は静かに声を落とした。


「怪我の具合を見ましょう。包帯、外しますよ」


 千鶴は一瞬ためらい、それから素直に右腕を差し出した。

 布を解くたび、包帯の下から湿った匂いが立ちのぼる。

 赤黒い線が二本、肘の上をなぞるように走り、周囲の皮膚は微かに脈打っていた。

 吉川は手袋越しに脈を取り、低く息を吐く。


「……熱い。本当にいつの間にこんな怪我をしたんでしょうね?」

「気づいたら、こうなっていて……。包帯を替えても、すぐ温かくなるんです」


 千鶴の声は静かで、どこか嬉しそうでもあった。

 吉川は眉を寄せる。

 傷の縁から、淡い甘い匂いが漂ってくる。薬草の香りではない。

 この村特有の、あの赤黒い液に似た匂いだった。


「……痛みは?」

「ありません。ただ、夜になると——」


 千鶴は言葉を濁し、目を伏せた。

 吉川が促すように黙っていると、彼女は小さく息を吸った。


「夜になると、声が聞こえるんです。宗一さんの声が。……あの人が呼んでるんです」

「声……ですか」


 千鶴は首を横に振った。

 その目は、遠い何かを見ている。


「夢じゃないんです。あの声、昨日はもっと近くで聞こえました。まるで、家のすぐ外にいるみたいに。この声は、私にだけ聞こえているんだと思います」


 診療所の奥で、誰かが咳をしたような音がした。

 風が吹き込み、窓際のカルテがぱらりとめくれる。

 吉川は深く息を吸い、包帯を巻き直した。

 布を締めるたび、千鶴の脈動が手のひらに伝わる。


「しばらく安静に。夜は戸を閉めて、決して外に出ないように」

「ええ……先生」


 その声は素直だったが、どこかもう遠くにあるように感じられた。包帯の白が、蝋のように冷たい光を返している。

 千鶴が診療所を立ち去った後、吉川は再びカルテの整理を始めていた。何かがおかしい。私は何か、大切なことを忘れている。そんな思いが脳裏を埋めてゆく。


 カルテの整理は遅々としてはかどらない。

 あまりにも黒が多すぎる。ナンバーの抜けもある。仕事に関しては几帳面な自分が創った資料とは思えない。夢中になって資料を整理しているうちに、いつしか時は過ぎ夜も深い時間になっていた。


 千鶴の用意してくれた弁当を食べることすら忘れ、吉川は思考に埋没する。


 ――そもそも、この怪我はなんだ。千鶴さんと私はいつの間にこんな怪我をした?

 左手の包帯の下はジェルに包まれ、火傷を治療する処理がなされている。ある程度治るまでは外すことは厳禁だ。


 ――だが。

 吉川の手が、包帯を解き始める。自分でも説明はつかない、しかし何か大切なことを行っている実感が湧き上がる。

 包帯を完全に解き、ジェル剤を剥がす。そこにはまだ痛々しい火傷の痕が残っていた。じくじくと痛みが湧き上がってくる。火傷を負った腕に目をやり、観察する……と。


 内側、火傷の痕がない筈の腕に、焼き付けたような文字が彫ってあるのが目に入る。


 ――にくゑ。みほ。けんた。わすれるな。


 これは……私の字だ。

 いや、待て。

 何故、こんな怪我を? 一体誰が、どんな理由で、こんな稚拙な文字を――。


「……うッ!」


 頭蓋の内側を叩くような痛みと共に、封じられた記憶が溢れ出す。


 私だ! 私が自分で彫り込んだのだ! バーナーで炙ったメスを使って、自らの身体をメモ代わりに!

 包帯の下に隠されたメモなら、誰にも見つからない。肉体に彫り込んだ文字なら改竄のしようがない!


 そうだ、あれは確かにあった! 私は記憶を操作されて、あまつさえ、自分でカルテを改竄した。してしまった!

 洞窟で梓と共に見た、にくゑの本体。起き上がる死体。襲いかかる肉塊。無数の目。


 悍ましい記憶が一気に蘇る。

 千鶴さんが声を聞き始めたのは、怪我の後。美穗だった何かに噛みつかれた後だ。あの時、体液から何かが……いや、おそらくあのにくゑと呼ばれる何かの一部が千鶴さんの中に入ってしまった。それが彼女の意識に影響を与えているとしたら!


「千鶴さんっ!」


 医師として冷静であるべきだが、今は一人の人間として、彼女を救いたい。


 吉川は、焦りを隠せないように立ち上がった。上着を羽織り、診療所の扉を跳ね開ける。


 ――何事もなければ、いいのだが。

 足を踏み出しながら、吉川は祈るように部屋を飛び出した。

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