通学路
ピュールィーーーー!
山鳥の声が、梓の胸の奥を揺さぶる。東京ではもう失われていた感覚。
村へ来て数日。今日から梓は学校に通うことになる。小さな分校で、生徒は三十人ほど。小学生から高校生までが一緒の校舎で学ぶのだそうだ。
舗装道路はところどころひびが入っていて、すきまから雑草が顔をのぞかせている。朝つゆをまとった草が足首に触れるたび、ひやりと冷たさが走る。スカートのすそが濡れて重くなる。山の鳥の声は澄み切っていて、東京で聞いたどんな音よりも大きく、まっすぐ耳に飛びこんでくる。
通学路の途中に、小さな平屋を改装した建物がある。「吉川診療所」と書かれた看板が、少し傾いて掛かっていた。その隣には「榊商店」という古い木の看板を掲げた店がある。
診療所の入り口前では、若い医師が白衣姿で村人たちと話していた。
「吉川先生、本当に助かるけぇな」
「この辺りは昔からお医者さんがおらんくて、先生がいらしてくださって心強いとよ」
村人たちは口々にお礼を言い、みんなにこにこ笑っている。
吉川と呼ばれた医師は三十歳くらいの若い男性だった。背は高くないが、白衣を着ているせいか きちんとして見える。黒髪は寝癖が少し残っているものの清潔で、黒縁眼鏡の奥の瞳には優しさと同時に、どこか疲れたような影が宿っていた。
「ありがとうございます。できることには限りがありますが……」
彼は愛想よく微笑むが、どこかぎこちない。村人との会話も丁寧だが、微妙に間が空いて、慣れていない様子が伝わってくる。
「先生、また夜中までお仕事でしたでしょう」
雑貨店の方から、エプロン姿の女性が顔を出した。二十代後半ほどの美しい人で、困ったような優しい笑顔を浮かべている。
「千鶴さん、いえ、その……」
吉川は慌てたように手を振る。
「電気がついてましたから、心配していたんです。ちゃんと食事とっていますか?」
「大丈夫です、ちゃんと……」
彼の答えが曖昧なのを見て、千鶴と呼ばれた女性は小さく溜息をついた。
村人たちはそんな二人のやりとりを見て、微笑んでいる。
「千鶴さんがおってくださって、先生も安心じゃな」
「そうそう、お一人じゃあ心配じゃったけぇ」
吉川は照れたように頭を掻く。千鶴さん、と呼ばれていたのは商店の人だろうか? 方言がないから、二人もまた移住者なのだろう。でも村の人たちに受け入れられ、溶け込んでいるように見える。
なんだか微笑ましくて、梓は少し安心した気持ちになった。
梓は足を止めた。笑い声がやわらかく風に溶け、陽だまりの匂いみたいに広がっていく。吉川先生も肩の力を抜いたように笑っている。――これは『安心』と書いていいのだろうか、と心の中で言葉を探した。
診療所を通りすぎ、また坂道を上り始めたとき、小さな子供の声が背中から飛んでくる。振り返ると、そこには村の少女がいた。紺色のスカートに白いシャツ、ランドセルは真っ赤で新品みたい。まだ小学校の低学年だろう。
「お姉ちゃん、東京から来たんやろ?」
梓よりもずっと小さいのに、全然遠慮しない口調。思わず足を止めると、女の子は両手でランドセルの肩ひもをぎゅっと握って、じっと見上げてくる。瞳はとても人なつっこくて、濡れた朝の光をきらきら映している。
「どうして知ってるの?」
聞き返すと、女の子は少し得意げに笑った。
「みんな言っとるもん。新しい子が来たって。お母さんが『あの子は弓子さんの娘さんよ』って」
また母親の名前が出た。胸の奥に小さなとげが刺さる。この村では、母親のことがまだ生きているのだろうか。
梓の心の動きなんて知らないで、女の子は目をきらきらさせて続けた。
「東京って、ビルがいっぱい建ってるんやろ? 夜になっても町が明るいんやろ? 私も、いつか行ってみたいな」
その言葉に、梓はふっと救われる思いがした。
無邪気な憧れ。そこには押しつけも無神経さもなくて、ただ純粋に「外の世界」を夢見る心だけがある。久しぶりに、口元が自然にほころんだ。
「東京はにぎやかだよ。でも、この村みたいに空気はきれいじゃない」
なるべく優しい声で返すと、女の子は「ふうん」と頷いて、ぱたぱた駆けて行ってしまった。
残された道には、朝つゆに濡れた小さな足跡がきらきら光っている。その足跡を追うように、梓は学校に向かって歩いて行く。
心なしか、足取りが軽くなったような気がして、梓は微笑みを浮かべた。