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にくゑ-本編-【完結】  作者: カクナノゾム
第十一章 二人の夜
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忘却の朝

 夜が明けても、誰も昨日のことを口にしなかった。

 血の匂いもしなければ、悲鳴の痕跡もない。

 窓の外では、鶏の鳴き声がいつも通りに響いていた。


 梓は布団の上で身を起こした。

 汗ばんだ首筋に、朝の空気が冷たくまとわりつく。

 夢を見ていたような気がする。だが、それが夢ではないことも、分かっていた。


 ――沙織さんの笑い声。

 ――吉川先生の倒れる音。

 ――清音の、あの目。


 すべてが現実だった。

 けれど外の世界は、何もなかったように続いている。


 食欲はなかった。重い足を引きずり、分校への通学路を歩いて行く。外に出ると、近所に住む老婆がいつものように声をかけてきた。


「おはようさん。今日もええ天気じゃけぇな」


 笑顔。

 その屈託のなさに、ぞっと背筋を震わせる。


 足が、勝手に佐藤家の方へ向かっていた。

 確かめなければ。昨日見たものが、本当にあったのか。それとも――。


 ほどなく、佐藤家に着く。

 驚くほど、何も残っていない。家はがらんと空虚を晒し、そこにほんの数日前まで、幸せな家族が住んでいたという欠片はどこにも残っていない。


 ――まるで、昨日が丸ごと書き換えられたようだった。

 分校の玄関で靴を履き替えながら、梓は思わず足を止めた。

 教室の窓越しに、見慣れた風景がある。

 けれど机の数が――少ない。


 美穂と健太の席が、最初からなかったみたいに詰められていた。

 誰も不思議に思っていない。

 先生も、生徒も、いつも通りに笑っている。


 あゆみが手を振った。


「梓ちゃん、おはよう!」


 いつもの明るい声。

 その声の裏に、空洞があった。


 梓は小さく頷いた。

 机に座り、目を伏せる。

 昨日の光景が脳裏に焼きついて離れない。

 胸の奥が、かすかに痛んだ。


 (わたしだけ……覚えているの?)


 黒板の文字が、ぼやけて見えた。

 チョークの音だけが、乾いた音を立てて教室に響いている。

 何事もなかったかのように。

 何事もなかった筈がない。


 ――梓の脳裏には昨晩の出来事が思い浮かんでいた。

 悽愴なあの光景。父親が実の息子を食い殺し、それを見た母親が発狂する様。


「――うっ」


 不意に嘔吐きこみあげ、梓は口元を押さえる。

 あの時……吉川先生が倒れ、診療所の空気が凍りついたあの時のことが思い浮かんだ。



 脳裏に蘇った昨夜の光景――


 ――誰も動けなかった。

 吉川は倒れ、千鶴も床に伏せている。俊夫と沙織は村人たちに拘束され、運び出されていった。


 ただ清音だけが、ゆっくりと梓に向かって歩いてきた。

 窓から月光が差し、床の血と肉と内臓を銀色に照らしている。

 その上を、清音の靴の音がひとつずつ踏み鳴らしていく。


「……ごめんなさい」


 その声は静かだった。

 怒りでも悲しみでもなく、どこかで諦めたような響き。


「でも、こうするしかないの」


 梓は口を開いた。


「何を……したの?」

「眠らせただけ。みんな、すぐに楽になる」


 清音の瞳が揺れていた。

 その奥に映るのは、燃えるような痛み。


「梓には効かないのね」

「効かないって……何が?」

「わたしの言葉が――わたしの力が」


 清音は小さく笑った。

 笑っているのに、涙が頬を伝っていた。


「何故かしら。やはり貴方は特別なのね」

「特別?」

「ええ、にくゑさまの神薬を飲んでも、何も起きなかった。この村にもう一月以上いるのに、未だに何も変わってないなんて――」


 梓の喉が鳴る。聞かなければならなかった。


「健太くんと美穗ちゃんも、清音がしたの?」

「……ええ」

「今日のことも?」

「……ええ」

「何故! どうしてっ! 何故こんな酷いことをするのッ?」

「……必要なことだから」

「必要って……」


 淡々とした清音の物言いに、梓は絶句する。人の、人の命をなんだと思っているのだろう!


「誤解しないで欲しいの。私が喜んでやっているとは思わないで欲しい」

「……にくゑ……様と関係あるの? 清音が巫女だから?」

「そう……ね。私たちはこの世界を守らないといけないの」

「世界を……守る?」


 恋人の言葉に、梓は呆気にとられる。何を言っているんだろう。その為には、友人を、罪もない人を殺してもいいといっているのだろうか?


 理解した、理解できたと思い込んでいた清音の言葉が、随分と遠く感じる。


 ――でも……喜んでやっているとは思わないで、とそう言っていた。目の前に居るこの人は、やはり私の優しい清音だ。


「私のお母さんのこと……知ってる?」

「ええ。知ってるわ。父の所で小間使いをしていた人でしょう?」


 その言葉に、梓の心臓が跳ねた。

 清音は、やはり知らない。

 自分と清音が、血で繋がっていることを。


「虚木の遠い親戚筋だって聞いてるわ。それがどうかしたの?」


 清音は愛らしく小首を傾げて聞いていた。


「――洞窟に行ったの。祠にまた行ってきたの」

「祠に? あそこには何もないでしょう? 祈りを置く場所でしかないし、只人が洞窟に行っても――」


 そう口にした清音は、はっとしたように目を見開く。


「貴方は特別。そう……貴方になら、にくゑ様が姿を見せるかも知れなかったわ……」

「ええ、きっとあれがにくゑ。私、あれと繋がったの……」


 梓がそういった瞬間、清音は怯えたように身を竦ませた。


「それでは、梓は知ってしまったの?」

「何を?」

「私が……巫女は……」


 巫女は、にくゑに浸食されてゆく。次第に人ではなくなってゆく。清音はそのことを隠しておきたかったのだろうか?


「巫女はにくゑを身体に宿してゆく……」

「ああ、それを知ってしまったの!? 私がもうすぐ“人”じゃいられなくなることを」


 清音は身を震わせて、涙を一滴落とした。


「それでも……わたしは、貴方を愛してしまっている」

「……清音」

「だから、お願い。今まで起きたことは忘れて。いいえ、忘れなくてもいい。覚えていないふりをして?」


 清音の声が震えた。


「私が終わるまでの間だけでも、貴方を、貴方だけを愛していたい……」

「清音――」


 血臭が漂い、惨劇に彩られたこの場所でのあまりに純粋な願い。その言葉は梓の心を揺り動かす。

 梓の胸が、刺すような痛みに包まれる。

 ――ああ、この人は強くはない。きっと強くならざるを得なかった人だ。

 私の……母と同じ。

 だから、なのだろうか。最初に出会った時から惹かれていた。母の代わりに? ううん、違う。


「だから梓。貴方が覚えていることを誰にも言わないで」


 凜と綺麗な、でもどこか儚いこの人を私は私の意思で愛してしまったのだ。


「貴方が覚えていても、世界の方が記憶をなくすの。祭りが終わるまでは、皆を混乱させないで……」


 清音の瞳が涙で滲む。

 その顔を見て、梓は初めて”清音も怖れている”と気づいた。


「清音……」

「それが、きっと貴方を守ることになる。祭りが終わったら、全てが終わるから……だから、ね?」


 そう懇願するように言って、清音は背を向けた。

 月光が裾を照らし、影が長く伸びる。


 振り返ることなく、清音は歩き出した。

 梓はただ、その背中を見送るしかなかった。



 ――朝の教室。

 梓は鉛筆を握ったまま動けない。

 夜が明けてから、まだ朝が来ただけなのに、誰も何も覚えていない。


 あゆみが手を挙げ、笑顔で発言する。

 声は明るく、表情もいつも通り。

 けれど、彼女の瞳の奥には、かつての友人を失った影さえなかった。


 (清音の言葉は……ほんとうだったんだ)


 世界のほうが、記憶を消してしまった。

 その事実を理解するたび、心臓がひやりと縮む。



 昼を過ぎると、初等部の子供たちが教室に合流してきた。

 机を寄せて合同授業になる。

 小さな子が弾む声で言う。

「お祭り、もうすぐとよ!」

 拍手が起こる。

「今年は白い着物なんじゃって」

「お菓子もいっぱい出るけぇ」

 紙飾りや赤い紐が机に並び、部屋は一気に賑やかになった。


 あゆみが微笑んで振り返る。

 

「ねえ梓ちゃん、楽しみやろ? 今年の主役はウチと梓ちゃん、そして、清音じゃけん!」


 梓は言葉を失った。

 その笑顔が、どこか清音に似ていた。


 (どうして……こんなに嬉しそうにできるの)


 子供たちの声が高く響く。

 ――夏の陽射しの下で、誰もが笑っていた。

 三度ずつ。

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