忘却の朝
夜が明けても、誰も昨日のことを口にしなかった。
血の匂いもしなければ、悲鳴の痕跡もない。
窓の外では、鶏の鳴き声がいつも通りに響いていた。
梓は布団の上で身を起こした。
汗ばんだ首筋に、朝の空気が冷たくまとわりつく。
夢を見ていたような気がする。だが、それが夢ではないことも、分かっていた。
――沙織さんの笑い声。
――吉川先生の倒れる音。
――清音の、あの目。
すべてが現実だった。
けれど外の世界は、何もなかったように続いている。
食欲はなかった。重い足を引きずり、分校への通学路を歩いて行く。外に出ると、近所に住む老婆がいつものように声をかけてきた。
「おはようさん。今日もええ天気じゃけぇな」
笑顔。
その屈託のなさに、ぞっと背筋を震わせる。
足が、勝手に佐藤家の方へ向かっていた。
確かめなければ。昨日見たものが、本当にあったのか。それとも――。
ほどなく、佐藤家に着く。
驚くほど、何も残っていない。家はがらんと空虚を晒し、そこにほんの数日前まで、幸せな家族が住んでいたという欠片はどこにも残っていない。
――まるで、昨日が丸ごと書き換えられたようだった。
分校の玄関で靴を履き替えながら、梓は思わず足を止めた。
教室の窓越しに、見慣れた風景がある。
けれど机の数が――少ない。
美穂と健太の席が、最初からなかったみたいに詰められていた。
誰も不思議に思っていない。
先生も、生徒も、いつも通りに笑っている。
あゆみが手を振った。
「梓ちゃん、おはよう!」
いつもの明るい声。
その声の裏に、空洞があった。
梓は小さく頷いた。
机に座り、目を伏せる。
昨日の光景が脳裏に焼きついて離れない。
胸の奥が、かすかに痛んだ。
(わたしだけ……覚えているの?)
黒板の文字が、ぼやけて見えた。
チョークの音だけが、乾いた音を立てて教室に響いている。
何事もなかったかのように。
何事もなかった筈がない。
――梓の脳裏には昨晩の出来事が思い浮かんでいた。
悽愴なあの光景。父親が実の息子を食い殺し、それを見た母親が発狂する様。
「――うっ」
不意に嘔吐きこみあげ、梓は口元を押さえる。
あの時……吉川先生が倒れ、診療所の空気が凍りついたあの時のことが思い浮かんだ。
◆
脳裏に蘇った昨夜の光景――
――誰も動けなかった。
吉川は倒れ、千鶴も床に伏せている。俊夫と沙織は村人たちに拘束され、運び出されていった。
ただ清音だけが、ゆっくりと梓に向かって歩いてきた。
窓から月光が差し、床の血と肉と内臓を銀色に照らしている。
その上を、清音の靴の音がひとつずつ踏み鳴らしていく。
「……ごめんなさい」
その声は静かだった。
怒りでも悲しみでもなく、どこかで諦めたような響き。
「でも、こうするしかないの」
梓は口を開いた。
「何を……したの?」
「眠らせただけ。みんな、すぐに楽になる」
清音の瞳が揺れていた。
その奥に映るのは、燃えるような痛み。
「梓には効かないのね」
「効かないって……何が?」
「わたしの言葉が――わたしの力が」
清音は小さく笑った。
笑っているのに、涙が頬を伝っていた。
「何故かしら。やはり貴方は特別なのね」
「特別?」
「ええ、にくゑさまの神薬を飲んでも、何も起きなかった。この村にもう一月以上いるのに、未だに何も変わってないなんて――」
梓の喉が鳴る。聞かなければならなかった。
「健太くんと美穗ちゃんも、清音がしたの?」
「……ええ」
「今日のことも?」
「……ええ」
「何故! どうしてっ! 何故こんな酷いことをするのッ?」
「……必要なことだから」
「必要って……」
淡々とした清音の物言いに、梓は絶句する。人の、人の命をなんだと思っているのだろう!
「誤解しないで欲しいの。私が喜んでやっているとは思わないで欲しい」
「……にくゑ……様と関係あるの? 清音が巫女だから?」
「そう……ね。私たちはこの世界を守らないといけないの」
「世界を……守る?」
恋人の言葉に、梓は呆気にとられる。何を言っているんだろう。その為には、友人を、罪もない人を殺してもいいといっているのだろうか?
理解した、理解できたと思い込んでいた清音の言葉が、随分と遠く感じる。
――でも……喜んでやっているとは思わないで、とそう言っていた。目の前に居るこの人は、やはり私の優しい清音だ。
「私のお母さんのこと……知ってる?」
「ええ。知ってるわ。父の所で小間使いをしていた人でしょう?」
その言葉に、梓の心臓が跳ねた。
清音は、やはり知らない。
自分と清音が、血で繋がっていることを。
「虚木の遠い親戚筋だって聞いてるわ。それがどうかしたの?」
清音は愛らしく小首を傾げて聞いていた。
「――洞窟に行ったの。祠にまた行ってきたの」
「祠に? あそこには何もないでしょう? 祈りを置く場所でしかないし、只人が洞窟に行っても――」
そう口にした清音は、はっとしたように目を見開く。
「貴方は特別。そう……貴方になら、にくゑ様が姿を見せるかも知れなかったわ……」
「ええ、きっとあれがにくゑ。私、あれと繋がったの……」
梓がそういった瞬間、清音は怯えたように身を竦ませた。
「それでは、梓は知ってしまったの?」
「何を?」
「私が……巫女は……」
巫女は、にくゑに浸食されてゆく。次第に人ではなくなってゆく。清音はそのことを隠しておきたかったのだろうか?
「巫女はにくゑを身体に宿してゆく……」
「ああ、それを知ってしまったの!? 私がもうすぐ“人”じゃいられなくなることを」
清音は身を震わせて、涙を一滴落とした。
「それでも……わたしは、貴方を愛してしまっている」
「……清音」
「だから、お願い。今まで起きたことは忘れて。いいえ、忘れなくてもいい。覚えていないふりをして?」
清音の声が震えた。
「私が終わるまでの間だけでも、貴方を、貴方だけを愛していたい……」
「清音――」
血臭が漂い、惨劇に彩られたこの場所でのあまりに純粋な願い。その言葉は梓の心を揺り動かす。
梓の胸が、刺すような痛みに包まれる。
――ああ、この人は強くはない。きっと強くならざるを得なかった人だ。
私の……母と同じ。
だから、なのだろうか。最初に出会った時から惹かれていた。母の代わりに? ううん、違う。
「だから梓。貴方が覚えていることを誰にも言わないで」
凜と綺麗な、でもどこか儚いこの人を私は私の意思で愛してしまったのだ。
「貴方が覚えていても、世界の方が記憶をなくすの。祭りが終わるまでは、皆を混乱させないで……」
清音の瞳が涙で滲む。
その顔を見て、梓は初めて”清音も怖れている”と気づいた。
「清音……」
「それが、きっと貴方を守ることになる。祭りが終わったら、全てが終わるから……だから、ね?」
そう懇願するように言って、清音は背を向けた。
月光が裾を照らし、影が長く伸びる。
振り返ることなく、清音は歩き出した。
梓はただ、その背中を見送るしかなかった。
◆
――朝の教室。
梓は鉛筆を握ったまま動けない。
夜が明けてから、まだ朝が来ただけなのに、誰も何も覚えていない。
あゆみが手を挙げ、笑顔で発言する。
声は明るく、表情もいつも通り。
けれど、彼女の瞳の奥には、かつての友人を失った影さえなかった。
(清音の言葉は……ほんとうだったんだ)
世界のほうが、記憶を消してしまった。
その事実を理解するたび、心臓がひやりと縮む。
◆
昼を過ぎると、初等部の子供たちが教室に合流してきた。
机を寄せて合同授業になる。
小さな子が弾む声で言う。
「お祭り、もうすぐとよ!」
拍手が起こる。
「今年は白い着物なんじゃって」
「お菓子もいっぱい出るけぇ」
紙飾りや赤い紐が机に並び、部屋は一気に賑やかになった。
あゆみが微笑んで振り返る。
「ねえ梓ちゃん、楽しみやろ? 今年の主役はウチと梓ちゃん、そして、清音じゃけん!」
梓は言葉を失った。
その笑顔が、どこか清音に似ていた。
(どうして……こんなに嬉しそうにできるの)
子供たちの声が高く響く。
――夏の陽射しの下で、誰もが笑っていた。
三度ずつ。




