抵抗
吉川は壁に手をついたまま、荒い息を吐く。
診察室――陽一の遺体と、俊夫。
正気を失ったように沙織が哄笑をあげた。
「あは……あはははは……俊夫さん……あなた、陽一を……」
喉がひきつり、声が掠れる。
床を掴む指先は血に滑り、赤黒い染みを広げていく。
目を逸らす。
見てはいけない。医師として、人として、見なければならないのに。
――診察室には地獄が広がっていた。
あまりの光景に棒立ちになっていた吉川は、診療所の扉が開かれたことに気がつかなかった。
そして気がつくと、村の人々と清音がそこにいた。
千鶴が床に座り込んでいる。
顔は蒼白で、震える手で口を押さえていた。
梓は――玄関の方を見つめたまま、動けずにいる。
診療所に、重い沈黙が満ちた。
その時、清音が振り返った。
セーラー服の裾が揺れ、月明かりが彼女の横顔を照らす。
その表情は――何も映していなかった。
「今日のことは、忘れなさい」
声が響いた。
優しく、穏やかで、そして――抗えない。
吉川の視界が揺れた。
「……え?」
言葉が出ない。
喉が詰まる。
清音の瞳が、光った。
淡く、冷たく、月光を宿したように。
その光が――吉川の目に刺さる。
膝から、力が抜けた。
壁に手をついていたのに、支えきれない。
体が傾く。
「記録……」
声が掠れる。
「私が……佐藤さん……皆……」
何を言っているのか、自分でも分からなくなる。
視界がぼやける。
清音の姿が二重に見える。
――ああ、これは。
吉川の頭の片隅で、医師としての知識が囁いた。
――催眠術に似ている。
――いや、それ以上の何かだ。
抗おうとする。
足に力を込める。
でも、体が言うことを聞かない。
「――っ」
床に、膝をついた。
畳の冷たさが膝を刺す。
その感触だけが、やけにはっきりしていた。
視界の端で、千鶴が倒れるのが見えた。
何も言わず、何も抵抗せず。
ただ静かに目を閉じて、横たわる。
――千鶴さん……?
声にならない。
吉川の意識が、霞んでいく。
その時――声が聞こえた。
「清音……どうして?」
梓の声だ。
震えている。
でも――はっきりしている。
吉川は必死に顔を上げた。
視界がぼやける中で、梓の姿が見える。
立っている。
まだ、立っている。
――なぜ?
清音の声が、驚きに揺れた。
「……やっぱり」
その声が、水の中から聞こえるように遠い。
「梓……やっぱり貴方だけは、思い通りにならないのね」
――思い通りに、ならない?
吉川の頭が、必死に言葉の意味を追う。
――梓さんだけ、効いていない。
――なぜ?
「何が……何が起きてるの? 沙織さんは? 陽一くんは? どうして――」
梓の声が途切れる。
清音の足音が、診療所の床に響く。
梓に近づいていく。
「ごめんね」
清音の声。
「でも、これしか方法がないの」
吉川は床に手をついた。
這ってでも、立ち上がろうとする。
せめて――梓さんを……守らなければ……。
でも、腕に力が入らない。
視界が、また霞む。
清音と梓の会話が、断片的に聞こえる。
「……貴方には、効かない」
「清音、やっぱり貴方が……?」
「……私の……」
――効かない? 梓さんは記憶を……。
吉川の頭が、情報を拾おうとする。
しかし、霧の中を手探りするように、掴めない。
「……守りたい」
「今日のことは覚えていても構わない」
「誰にも言わないで」
――何を言っている?
吉川の意識が、途切れそうになる。
でも――。
――記録しなければ。
その思いだけが、辛うじて意識を繋ぎ止めていた。
足音が遠ざかる。
清音と梓が、診療所を出ていくのが分かる。
吉川は床に頬をつけたまま、その音を追った。
扉が開く音。
夜風が流れ込む。
そして――静寂。
どれくらい時間が経ったのか、分からなかった。
外から、足音が聞こえた。
複数の足音。
砂利を踏む音。
――村人が、戻ってきた。
「血の跡を拭いとけ」
声が響く。
「祭りも近いのぉ」
笑い声。
「にくゑ様に捧げる供物が揃うたわい」
供物――という言葉が、耳に刺さる。
「佐藤の女、腹に子がおったそうじゃな」
――腹に、子?
吉川の意識が、かすかに反応する。
「ちょうどええ。二つの命を捧げられる」
笑い声が、診療所に満ちる。
吉川の心が、叫んだ。
――祭り。
――供物。
――二つの命。
――記録しなければ。
――このことを、忘れてはいけない。
佐藤家の――。
新しい命の――。
――何を?
記憶が、霧の中に溶けていく。
さっきまで確かにあったはずの輪郭が、曖昧になる。
――佐藤家?
誰だ?
――新しい命?
何の話だ?
吉川の意識が、混乱する。
足音が近づいてくる。
誰かが、吉川の肩を揺すった。
「先生、起きんさい」
村人の声。
「寝てしもうたんか。夜は冷えるけぇ、風邪ひくぞ」
笑い声。
吉川の体が持ち上げられ、寝台に運ばれる。
毛布がかけられる。
「ゆっくり休みんさい」
足音が遠ざかる。
吉川の意識が、完全に闇に沈もうとしていた。
その最後の瞬間――。
頭の片隅で、何かが囁いた。
――忘れるな。
――記録しろ。
――真実を。
でも、何を記録すればいいのか。
もう、分からなかった。
診療所の灯りが消える。
月明かりだけが、静かに床を照らしていた。
千鶴が寝台で眠っている。
吉川も、意識を失っている。
二人とも、穏やかな寝顔だった。
まるで、何も起きなかったかのように。
村人たちの笑い声が、遠くで響いている。
――祭りの準備が、始まっていた。
◆◆◆
あとがき。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
惨劇のホラー、にくゑでございます。
次章「孤立」
梓だけが全てを覚えている。
そして物語は核心へと近づいてゆきます。




