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にくゑ-本編-【完結】  作者: カクナノゾム
第十章 悲劇
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抵抗

 吉川は壁に手をついたまま、荒い息を吐く。

 診察室――陽一の遺体と、俊夫。

 正気を失ったように沙織が哄笑をあげた。


「あは……あはははは……俊夫さん……あなた、陽一を……」


 喉がひきつり、声が掠れる。

 床を掴む指先は血に滑り、赤黒い染みを広げていく。


 目を逸らす。

 見てはいけない。医師として、人として、見なければならないのに。


 ――診察室には地獄が広がっていた。

 あまりの光景に棒立ちになっていた吉川は、診療所の扉が開かれたことに気がつかなかった。

 そして気がつくと、村の人々と清音がそこにいた。


 千鶴が床に座り込んでいる。

 顔は蒼白で、震える手で口を押さえていた。


 梓は――玄関の方を見つめたまま、動けずにいる。

 診療所に、重い沈黙が満ちた。


 その時、清音が振り返った。


 セーラー服の裾が揺れ、月明かりが彼女の横顔を照らす。

 その表情は――何も映していなかった。


「今日のことは、忘れなさい」


 声が響いた。


 優しく、穏やかで、そして――抗えない。


 吉川の視界が揺れた。


「……え?」


 言葉が出ない。

 喉が詰まる。


 清音の瞳が、光った。


 淡く、冷たく、月光を宿したように。


 その光が――吉川の目に刺さる。



 膝から、力が抜けた。


 壁に手をついていたのに、支えきれない。

 体が傾く。


「記録……」


 声が掠れる。


「私が……佐藤さん……皆……」


 何を言っているのか、自分でも分からなくなる。


 視界がぼやける。

 清音の姿が二重に見える。


 ――ああ、これは。


 吉川の頭の片隅で、医師としての知識が囁いた。


 ――催眠術に似ている。

 ――いや、それ以上の何かだ。


 抗おうとする。

 足に力を込める。


 でも、体が言うことを聞かない。


「――っ」


 床に、膝をついた。


 畳の冷たさが膝を刺す。

 その感触だけが、やけにはっきりしていた。



 視界の端で、千鶴が倒れるのが見えた。


 何も言わず、何も抵抗せず。

 ただ静かに目を閉じて、横たわる。


 ――千鶴さん……?


 声にならない。


 吉川の意識が、霞んでいく。

 その時――声が聞こえた。


「清音……どうして?」


 梓の声だ。

 震えている。

 でも――はっきりしている。


 吉川は必死に顔を上げた。

 視界がぼやける中で、梓の姿が見える。

 立っている。

 まだ、立っている。


 ――なぜ?


 清音の声が、驚きに揺れた。


「……やっぱり」


 その声が、水の中から聞こえるように遠い。


「梓……やっぱり貴方だけは、思い通りにならないのね」


 ――思い通りに、ならない?

 吉川の頭が、必死に言葉の意味を追う。


 ――梓さんだけ、効いていない。

 ――なぜ?


「何が……何が起きてるの? 沙織さんは? 陽一くんは? どうして――」


 梓の声が途切れる。

 清音の足音が、診療所の床に響く。

 梓に近づいていく。


「ごめんね」


 清音の声。


「でも、これしか方法がないの」


 吉川は床に手をついた。

 這ってでも、立ち上がろうとする。


 せめて――梓さんを……守らなければ……。

 でも、腕に力が入らない。

 視界が、また霞む。

 清音と梓の会話が、断片的に聞こえる。


「……貴方には、効かない」

「清音、やっぱり貴方が……?」

「……私の……」


 ――効かない? 梓さんは記憶を……。

 吉川の頭が、情報を拾おうとする。

 しかし、霧の中を手探りするように、掴めない。


「……守りたい」

「今日のことは覚えていても構わない」

「誰にも言わないで」


 ――何を言っている?

 吉川の意識が、途切れそうになる。


 でも――。

 ――記録しなければ。


 その思いだけが、辛うじて意識を繋ぎ止めていた。

 足音が遠ざかる。

 清音と梓が、診療所を出ていくのが分かる。

 吉川は床に頬をつけたまま、その音を追った。

 扉が開く音。

 夜風が流れ込む。


 そして――静寂。



 どれくらい時間が経ったのか、分からなかった。

 外から、足音が聞こえた。


 複数の足音。

 砂利を踏む音。


 ――村人が、戻ってきた。


「血の跡を拭いとけ」


 声が響く。


「祭りも近いのぉ」


 笑い声。


「にくゑ様に捧げる供物が揃うたわい」


 供物――という言葉が、耳に刺さる。


「佐藤の女、腹に子がおったそうじゃな」


 ――腹に、子?


 吉川の意識が、かすかに反応する。


「ちょうどええ。二つの命を捧げられる」


 笑い声が、診療所に満ちる。

 吉川の心が、叫んだ。


 ――祭り。

 ――供物。

 ――二つの命。


 ――記録しなければ。

 ――このことを、忘れてはいけない。


 佐藤家の――。

 新しい命の――。


 ――何を?


 記憶が、霧の中に溶けていく。

 さっきまで確かにあったはずの輪郭が、曖昧になる。


 ――佐藤家?

 誰だ?

 ――新しい命?

 何の話だ?

 吉川の意識が、混乱する。

 足音が近づいてくる。

 誰かが、吉川の肩を揺すった。


「先生、起きんさい」


 村人の声。


「寝てしもうたんか。夜は冷えるけぇ、風邪ひくぞ」


 笑い声。

 吉川の体が持ち上げられ、寝台に運ばれる。

 毛布がかけられる。


「ゆっくり休みんさい」


 足音が遠ざかる。

 吉川の意識が、完全に闇に沈もうとしていた。


 その最後の瞬間――。

 頭の片隅で、何かが囁いた。


 ――忘れるな。

 ――記録しろ。

 ――真実を。


 でも、何を記録すればいいのか。

 もう、分からなかった。

 診療所の灯りが消える。

 月明かりだけが、静かに床を照らしていた。

 千鶴が寝台で眠っている。

 吉川も、意識を失っている。


 二人とも、穏やかな寝顔だった。

 まるで、何も起きなかったかのように。

 村人たちの笑い声が、遠くで響いている。


 ――祭りの準備が、始まっていた。


◆◆◆

あとがき。


ここまで読んで頂きありがとうございます。

惨劇のホラー、にくゑでございます。

次章「孤立」

梓だけが全てを覚えている。

そして物語は核心へと近づいてゆきます。

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