言の葉
吉川は柱から縛めをほどいた俊夫に肩を貸した。
俊夫はよろめきながらも、歩き出す。
「せ、先生? なんで? 俺は……?」
「安心してください。とりあえず皆で診療所まで戻りましょう」
朦朧としている俊夫に落ち着いた声をかけながら、吉川は歩き出す。
「梓さんは、沙織さんたちを」
「はい!」
梓は沙織の側に膝をつき、子どもの体温を確かめる。陽一はまだ震えており、小さな背中が母親の胸に寄り添う。
「何があったのかは後で伺います。今は、ここを離れることが先です」
梓は囁くように言いながら、沙織に手を差し出した。
沙織は眉を寄せ、嗚咽を抑え込もうとして顔を上げる。恐怖と安堵が混ざった表情で、震える手を梓の指に絡める。
「……どうして……どうしてこんなことを……」
「今は、とにかく動きましょう。先生の指示に従ってください。私も、手伝います」
沙織を立たせ、梓は陽一を抱き上げた。陽一は身体を小さく丸め、母の胸から離れるのを嫌がった。
「おかあさん……」
小さな声が震える。梓がそっと背を支えると、陽一はびくびくと小さな体を預けながら、縛られていた柱の方を見た。
「……おとうさん、だいじょうぶ?」
その問いかけに、沙織の顔が歪む。答えを返せずに唇を噛み、震える手を梓の腕に短く触れた。そこに感謝と疲労、そして言葉にできない苦悩が混じった熱を残した。
「大丈夫よ、陽一。先生が診てくださるから」
沙織は必死に声を絞り出し、息子の頭を撫でた。
その時――外から、砂利を踏む足音がかすかに聞こえた。風に乗って、松明の匂いが戸の隙間から流れ込む。梓は無意識に立ち止まり、耳を澄ませる。足音は間を置いて近づき、やがて止まる。
吉川の目が一瞬だけ険しくなる。治療の手を止め、梓に短く囁いた。
「梓さん、外の様子を見てください。急ぎますが、慎重に」
梓は静かに頷き、障子の隙間に懐中電灯の光を差し出す。外は月光に照らされた小径が細く伸び、一人の男がこちらを覗き込むように近づいてきた。光が当たるその顔は、庄司――村の猟師だった。手には猟銃を抱えている。しわの刻まれた表情は冷たい眼差しを湛えながら、どこか歪んだ微笑を浮かべている。
庄司の声が夜に低く響いた。
「ここに入ったのは誰じゃ? 村ん外ん者か?」
そのひとことで、室内の緊張が一段と高まった。男たちの影が戸口に寄り、火の光が差し込む。梓は咄嗟に陽一を胸に抱き寄せ、母を促してその場から離れさせようとした。だが沙織は踏みとどまり、震えるまなざしで庄司を見返す。
吉川はゆっくりと立ち上がり、顔を上げた。医師として、また外部の者として説明を試みる必要がある。彼の声はいつもの丁寧語だったが、強さを増していた。
沙織たちを梓に託し、吉川はゆっくりと廃屋の戸口に向かって歩を進めた。
「庄司さんですか! 私です、吉川です!」
戸口の前で、庄司に向かい話しかける。
「おお、先生じゃったんか。こげなところで何を?」
「こちらの方々は負傷者です。治療が必要であり、今は手当を優先させていただきます」
庄司は眉を寄せ、顔に浮かんだ冷笑を消さずに短く返す。
「村の掟がそういうておらぬか。ここに置かれたのは、にくゑ様のためのことじゃ。あんたらが余計なことをすれば、事は済みはせん」
言葉は刃先のように冷たく、周囲の者たちの視線をこちらへ向けさせる。吉川は苛烈な空気を感じ取り、すかさず決定を下した。声は低く、だが明確だった。
「診療所へ移します。手当を続けますが、ここで長居するわけにはいきません。穏便に移動させますので、危害は加えません」
庄司の瞳がわずかに揺れる。火の光が彼の顔の影を深くし、決裂の瞬間を匂わせる。外の者たちの足が一歩、二歩と戸に近づく。梓はその様子を見て、胸が詰まる思いがした。逃げられるのか、ここから無事に連れ出せるのか――すべてが刃先のように切迫している。
「置いてけ。すりゃ、先生までどうこうしようとは思わん」
「できませんっ!」
「――なら」
庄司の猟銃が、ゆっくりと持ち上がる。まさか、撃つつもりなのだろうか? そして猟銃は、ピタリと吉川の胸に向かって狙いをつけた。金属の鈍い光が月明かりに冷たく反射し、引き金に添えられた指先が微かに動く。
「あなたはっ! 自分が何をしているのかわかってるんですか!?」
「こん人らは、大切な新しい血じゃけんな。置いといてもらわんと困るんじゃ」
「――くっ!」
梓はとっさに外に向かって駆けだしていた。吉川と庄司の間に両手を広げて立ち塞がる。それは梓自身にも、思いもしなかった勇気だった。冷たい夜風が頬を撫で、背中に冷や汗が滲む。
「《《やめて》》! 《《やめてくださいっ》》! この人たち、怪我をしてるんですっ! 先生に診て貰わないとっ!」
梓の声が夜気を切った瞬間、庄司の肩の力がすっと抜けた。猟銃はゆっくりと揺れ、銃口が吉川の胸から外れて下ろされていく。指先が引き金から滑り落ちるように緩み、男の顔がふっと遠くを見つめるように変わった。
「はい……やめ……ます、けん……」
庄司はその場に崩れ落ちるように膝をつき、握っていた銃が地面に鈍い音を立てて落ちた。彼の目は虚ろで、口がわずかに動いたが、言葉にはならなかった。砂利に膝が沈み、体が前のめりに傾く。
「え?」
庄司の様子に、梓は目を見開く。どうやら彼は意識を失っているようだ。
「一体……何が起こったんです?」
「わかりません……いきなり気絶したみたいになって……」
吉川が庄司に駆け寄り、脈を診る。どうやら本当に意識を失っているだけのようだった。呼吸は安定し、外傷もない。だが何が起きたのかは不明だった。
「色々気になることはありますが、今はここを出ましょう。私が先導します。外に出たら、走らないでください、静かに」
陽一が梓の腕の中でもぞもぞと動いた。小さな顔が後ろを振り返り、柱に寄りかかる父の姿を見つめる。
「おとうさん……いっしょに、いく?」
幼い声には不安が滲んでいた。吉川が俊夫を支えながら、優しく答える。
「ああ、一緒だよ。お父さんも、もうすぐ元気になるからね」
陽一は小さく頷き、再び梓の胸に顔を埋めた。
梓が沙織に歩み寄り、手を差し出す。
沙織はぎゅっと梓の手を握り返し、その目にわずかな決意が宿る。吉川は俊夫を支え、毛布でくるんだ陽一を梓が抱くよう指示を出す。動作は一瞬の速さで連なり、部屋の中が慌ただしくなる。
後ろで庄司が一言呟いたように聞こえた。しかしその言葉は梓の耳には届かなかった。彼女の世界はただ、母子の暖かさと夜の冷たさと、診療所へ向かう一刻の必死さだけで満ちていた。
道を抜ける間際、梓はふと背後を振り返った。廃屋の前に、庄司が猟銃を握り締めたまま倒れている。月光に照らされたその姿は、まるで操り糸を切られた人形のようだった。
梓は再び前を向き、歩を進める。
佐藤一家を誘導しながら、梓と吉川は夜道を進んだ。木々の隙間から時折月明かりが差し込み、足元の小石を銀色に浮かび上がらせる。陽一の体温が腕に伝わり、沙織の足音が後ろから小さく響く。
ほどなく、診療所の灯りが遠くに見え始め、夜空の冷たい風が頬を撫でてゆく。
胸の中で祠の名と井戸の戒めが重くのしかかる。だが今は、それを飲み込むしかない。救った命を先に運ぶ――それが今、梓にとって最も大切な行為だった。
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あとがき。
長かった九章もこれで終わりです。
次章は「悲劇」
ひとつの物語の顛末をご覧ください。




