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にくゑ-本編-【完結】  作者: カクナノゾム
第九章 参 にくゑ
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聖域

 懐中電灯の光が闇を裂き、狭い山道を細く照らしていた。夜気は重く、虫の声すら遠い。


 梓は隣を歩く吉川の様子に目をやった。

 吉川は時折歩みを緩め、火傷を負った腕を押さえている。包帯の隙間から滲んだ布が汗に濡れ、光を受けて暗く沈んで見えた。


「先生……痛むんですか?」

「大丈夫です。大したことはありません」


 吉川はそう言っているが、分厚く巻かれた包帯がいかにも痛々しい。梓が立ち止まり、光を彼の腕に向ける。吉川は小さく首を振った。


「でも――巻き直した方が」

「いえ、湿潤療法なので、このままで大丈夫です」


 梓は布を取り出そうとしたが、吉川がやんわりと制した。


「無理をするのは君の方でしょう。顔色が優れません」


 梓は言葉を詰まらせた。

 脳裏に浮かぶのは、母の日記の最後の一文。

 ――『二度と戻らない』。


「……母は、どうしてあんなことを書いたんでしょう」

「強い言葉ですね。固い決意を感じます。きっと本当にこの村には戻らない、戻ることが出来ない理由があったんでしょう」


 静かな声に、梓はかすかに肩を落とした。

 彼の言葉は慰めではない。けれど確かに、支えになる理屈だった。


「先生は……怖くないんですか」


「怖いですよ。ですが、恐怖を記録に残せば、それは無意味なものではなくなります。――君も忘れなければいい」


 梓は小さく頷き、懐中電灯を持ち直した。


 その時、道が二つに分かれた。

 左は岩肌の裂け目へ続き、低い水音が響いている。洞窟だ。

 右は藪を抜けた先に、ぽっかりと広がる窪地。そこに石組みの井戸が見えた。木の蓋は錆びた鎖で留められ、隙間からは冷気とともに鉄臭い匂いが漂ってくる。


「……井戸?」


 吉川は灯りを向け、眉を寄せた。


「古い造りですね。記録に残しておきたいが――」


 梓は思わず首を振った。背筋をなぞる冷気に、ここではないと直感する。


「先生……あっちは、だめです。清音に案内してもらった祠は洞窟の中にありました」


 言い切る声は震えていたが、必死だった。

 吉川は短く考え、やがて頷いた。


「分かりました。なら、まずは祠を確かめましょう」


 二人は井戸から視線を外し、岩肌の裂け目へと歩みを進める。

 背後で、井戸の鎖が風に揺れて鳴った。低い水音が重なり、闇はさらに深まっていく。



 洞窟の奥は湿り気が濃く、足音に重なるように水滴の音が響いていた。灯りを掲げると、黒い苔が岩肌にびっしりと張りつき、滴が石に落ちるたび鈍い音を立てる。


 やがて、岩を削ってしつらえた小さな祠が姿を現した。朽ちた鳥居の先にぽつんと建ち、幾度も祈りを受けてきた気配が漂っている。脇には割れた石灯籠や沈んだ供物の器が並び、甘ったるい匂いがいっそう濃くなった。


 吉川は慎重に周囲を確かめ、短く言った。


「ここが……祈りの場所なのですね。にくゑ信仰の中心ですか……」


 梓は頷いた。心臓の鼓動が耳の奥で大きく響く。

 灯りを祠の背後に回すと、そこに三枚の板が立てかけられていた。釘は錆びて抜けかけ、板そのものも半ば倒れかけている。


 梓は息を詰め、光を近づけた。裏面には、掘られた文字や墨の跡が浮かび上がっている。


 一枚目。子供の拙い字だった。


「みかがえらばれた。かみさまのはなよめになるときゝたり」


 声に出すたび、文字の幼さが逆に胸を締めつける。


「うらやまし、わらもえらばれとうござる」

「清音さまはうつくしう、やさし。きっとかみもよろこびて候」


 梓は唇を噛み、灯りを握る手を強めた。丸い光に照らされた古い文字を吉川ものぞき込む。


「みかちゃんが選ばれ。神の花嫁になるのだって。うらやましい。私も選ばれたいと願っているの。清音さまは美しくて優しい。神様もきっと喜ばれるでしょう……ですか」


 随分と古い書き込みのようですね、と吉川が呟いた。


 二枚目。少し大きな子の手で刻まれた文字。


「……寛永、清音、記す」


 梓の声が震えた。


「『いちに、にくゑが落とし肉』『さんし、静かな夜の後』『ごろく、喜んで次の子を』『ななはち、早く迎えて』『きゅうじゅう、待ってる、待ってる』……」


 それは節を刻むような祈りの歌だった。脇には掠れた注釈がある。


「此れは村に伝はる神聖の歌に候。選ばれし者のみが知るべき尊き真実に候。次の清音にて、誇りとともに伝へ申すべし」


 吉川は横で手帳に記録しながら、表情を崩さぬよう努めていた。三枚目。整った大人の字で、墨痕がまだ鮮やかに残っている。


「……『私の使命も終わりに近づいています。神様とひとつになれる日が楽しみです』」


 その下には供物の記録が並んでいた。


「『寛文――田中家、神様に喜ばれました』『延宝――佐々木家、豊作をもたらしました』『元禄――高橋家、不完全でしたが、神様は慈悲深く受け入れてくださいました』」


 梓の胸は冷え切り、視界が霞む。

 そして板の最後に近い箇所に、その書き込みはあった。

 梓の目が最後の欄に吸い寄せられる。

 そこには――


「……十三代目清音……弓子、名を奉ず」


 灯りが揺れ、文字が涙ににじんだ。膝が震え、喉の奥から声が漏れる。


「……お母さん……」


 しかし、その整った字を乱すように、下から荒々しい殴り書きが刻まれていた。


「……『間違ってる!』『これは神聖なことじゃない!』『この子は、普通に生きて』……」


 激情の跡が木目を抉り、祈りとは正反対の声を突きつけてくる。そしてその下には一番新しいものと見られる書き込みがあった。


「十四代目清音。ここに名を奉ず」


 流麗な字で、それは書かれていた。


「清音……」


 崩れ落ちそうになる梓の肩を、吉川が支えた。

 彼は黙ったまま不自由な手でメモをとり、板を写し取る。冷静を装いながらも、背中を冷たい汗が伝っていた。


「清音、というのが代々の巫女の名前。多くの女性が自分の名前を捨てて清音の名を継いでいます。しかし何人かは、産まれながらに清音という名で産まれているんですね」

「はい……今の清音は、産まれながらの巫女、と言うことなんでしょうか?」

「だと思います。清音さんから何か聞いては?」

「いえ、にくゑ様の巫女だということしか……」


 にくゑ、その名前を聞いた時吉川の背中を冷たいものが走った。それは実在する。その怪異を彼は目の当たりにしていた。


「にくゑ……一体何なんでしょう……」


 その声は落ち着きを保とうとしていたが、洞窟の湿気に混じって震えていた。

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