聖域
懐中電灯の光が闇を裂き、狭い山道を細く照らしていた。夜気は重く、虫の声すら遠い。
梓は隣を歩く吉川の様子に目をやった。
吉川は時折歩みを緩め、火傷を負った腕を押さえている。包帯の隙間から滲んだ布が汗に濡れ、光を受けて暗く沈んで見えた。
「先生……痛むんですか?」
「大丈夫です。大したことはありません」
吉川はそう言っているが、分厚く巻かれた包帯がいかにも痛々しい。梓が立ち止まり、光を彼の腕に向ける。吉川は小さく首を振った。
「でも――巻き直した方が」
「いえ、湿潤療法なので、このままで大丈夫です」
梓は布を取り出そうとしたが、吉川がやんわりと制した。
「無理をするのは君の方でしょう。顔色が優れません」
梓は言葉を詰まらせた。
脳裏に浮かぶのは、母の日記の最後の一文。
――『二度と戻らない』。
「……母は、どうしてあんなことを書いたんでしょう」
「強い言葉ですね。固い決意を感じます。きっと本当にこの村には戻らない、戻ることが出来ない理由があったんでしょう」
静かな声に、梓はかすかに肩を落とした。
彼の言葉は慰めではない。けれど確かに、支えになる理屈だった。
「先生は……怖くないんですか」
「怖いですよ。ですが、恐怖を記録に残せば、それは無意味なものではなくなります。――君も忘れなければいい」
梓は小さく頷き、懐中電灯を持ち直した。
その時、道が二つに分かれた。
左は岩肌の裂け目へ続き、低い水音が響いている。洞窟だ。
右は藪を抜けた先に、ぽっかりと広がる窪地。そこに石組みの井戸が見えた。木の蓋は錆びた鎖で留められ、隙間からは冷気とともに鉄臭い匂いが漂ってくる。
「……井戸?」
吉川は灯りを向け、眉を寄せた。
「古い造りですね。記録に残しておきたいが――」
梓は思わず首を振った。背筋をなぞる冷気に、ここではないと直感する。
「先生……あっちは、だめです。清音に案内してもらった祠は洞窟の中にありました」
言い切る声は震えていたが、必死だった。
吉川は短く考え、やがて頷いた。
「分かりました。なら、まずは祠を確かめましょう」
二人は井戸から視線を外し、岩肌の裂け目へと歩みを進める。
背後で、井戸の鎖が風に揺れて鳴った。低い水音が重なり、闇はさらに深まっていく。
◆
洞窟の奥は湿り気が濃く、足音に重なるように水滴の音が響いていた。灯りを掲げると、黒い苔が岩肌にびっしりと張りつき、滴が石に落ちるたび鈍い音を立てる。
やがて、岩を削ってしつらえた小さな祠が姿を現した。朽ちた鳥居の先にぽつんと建ち、幾度も祈りを受けてきた気配が漂っている。脇には割れた石灯籠や沈んだ供物の器が並び、甘ったるい匂いがいっそう濃くなった。
吉川は慎重に周囲を確かめ、短く言った。
「ここが……祈りの場所なのですね。にくゑ信仰の中心ですか……」
梓は頷いた。心臓の鼓動が耳の奥で大きく響く。
灯りを祠の背後に回すと、そこに三枚の板が立てかけられていた。釘は錆びて抜けかけ、板そのものも半ば倒れかけている。
梓は息を詰め、光を近づけた。裏面には、掘られた文字や墨の跡が浮かび上がっている。
一枚目。子供の拙い字だった。
「みかがえらばれた。かみさまのはなよめになるときゝたり」
声に出すたび、文字の幼さが逆に胸を締めつける。
「うらやまし、わらもえらばれとうござる」
「清音さまはうつくしう、やさし。きっとかみもよろこびて候」
梓は唇を噛み、灯りを握る手を強めた。丸い光に照らされた古い文字を吉川ものぞき込む。
「みかちゃんが選ばれ。神の花嫁になるのだって。うらやましい。私も選ばれたいと願っているの。清音さまは美しくて優しい。神様もきっと喜ばれるでしょう……ですか」
随分と古い書き込みのようですね、と吉川が呟いた。
二枚目。少し大きな子の手で刻まれた文字。
「……寛永、清音、記す」
梓の声が震えた。
「『いちに、にくゑが落とし肉』『さんし、静かな夜の後』『ごろく、喜んで次の子を』『ななはち、早く迎えて』『きゅうじゅう、待ってる、待ってる』……」
それは節を刻むような祈りの歌だった。脇には掠れた注釈がある。
「此れは村に伝はる神聖の歌に候。選ばれし者のみが知るべき尊き真実に候。次の清音にて、誇りとともに伝へ申すべし」
吉川は横で手帳に記録しながら、表情を崩さぬよう努めていた。三枚目。整った大人の字で、墨痕がまだ鮮やかに残っている。
「……『私の使命も終わりに近づいています。神様とひとつになれる日が楽しみです』」
その下には供物の記録が並んでいた。
「『寛文――田中家、神様に喜ばれました』『延宝――佐々木家、豊作をもたらしました』『元禄――高橋家、不完全でしたが、神様は慈悲深く受け入れてくださいました』」
梓の胸は冷え切り、視界が霞む。
そして板の最後に近い箇所に、その書き込みはあった。
梓の目が最後の欄に吸い寄せられる。
そこには――
「……十三代目清音……弓子、名を奉ず」
灯りが揺れ、文字が涙ににじんだ。膝が震え、喉の奥から声が漏れる。
「……お母さん……」
しかし、その整った字を乱すように、下から荒々しい殴り書きが刻まれていた。
「……『間違ってる!』『これは神聖なことじゃない!』『この子は、普通に生きて』……」
激情の跡が木目を抉り、祈りとは正反対の声を突きつけてくる。そしてその下には一番新しいものと見られる書き込みがあった。
「十四代目清音。ここに名を奉ず」
流麗な字で、それは書かれていた。
「清音……」
崩れ落ちそうになる梓の肩を、吉川が支えた。
彼は黙ったまま不自由な手でメモをとり、板を写し取る。冷静を装いながらも、背中を冷たい汗が伝っていた。
「清音、というのが代々の巫女の名前。多くの女性が自分の名前を捨てて清音の名を継いでいます。しかし何人かは、産まれながらに清音という名で産まれているんですね」
「はい……今の清音は、産まれながらの巫女、と言うことなんでしょうか?」
「だと思います。清音さんから何か聞いては?」
「いえ、にくゑ様の巫女だということしか……」
にくゑ、その名前を聞いた時吉川の背中を冷たいものが走った。それは実在する。その怪異を彼は目の当たりにしていた。
「にくゑ……一体何なんでしょう……」
その声は落ち着きを保とうとしていたが、洞窟の湿気に混じって震えていた。




