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にくゑ-本編-【完結】  作者: カクナノゾム
第八章 二つの遺体

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記録と決意

 窓の外は蝉の声が満ち、陽は高く昇っていた。

 だが診療所の中は、夜の残滓のように暗く淀んでいた。


 千鶴は腕を押さえ、俯いたまま震えている。

 その耳の奥には、まだあの少女の呻きが残響していた。

 いや――それ以上に、得体の知れない声が微かに混じっていた。

 吉川には聞こえない、千鶴だけの声。


「……宋次さん?」


 かすかな呟きが漏れる。それは失踪した千鶴の夫の名前だった。

 それは彼女自身が驚くほど自然に口をついて出た。


 処置室の静けさの中で、吉川は千鶴に包帯を巻き直す。

 かなり深く噛まれたその傷は、止血をしても尚、血を滲ませている。


「千鶴さん、どうかしましたか? 痛みますか?」

「い、いえ、今声が聞こえたような気がして」

「声?」


 彼女の唇はまだ震えている。精神的な動揺が消えないのだろう。

 包帯を巻きながら、今日の出来事を思い出す。

 あの肉塊。高校の時に見た、あれと同じような、それは怪異。

 そして起き上がる死体。

 

 だが吉川がもっとも慄然とした出来事は、その後に起こった。


 あの後すぐに、吉川は林田と森谷の家を順に訪ねた。

 美穗と健太の両親に、確認と報告をしなくては。

 それは当然の義務であり、職務であった。


 いずれの親も変わらぬ笑顔で迎え入れ、そして同じ言葉を返した。


「うちには、最初からそんな子はおらんとですわ」


 あまりに自然な調子に、背筋が冷たくなる。


 やはり皆、揃って記憶を失っている。

 ――こんなことが現実にあり得るのか。

 いや、自分自身、二人のことを忘れていたのだ。

 自分のことを頼ってくれていた、あの二人の子供を。

 こみあがるような怒りを、吉川は冷静な仮面を被り押し殺す。


「……千鶴さん。今のことは……誰にも言わない方がいい」

「でも……」

「村人に知られれば、混乱になる。いや、きっと“何もなかったこと”にされる。だから記録に残す。今は、それだけでいい」


 吉川の声は低く、乾いていた。

 千鶴はうつむき、しばらく沈黙してから小さく頷いた。


「……わかりました。先生と、わたしだけの……秘密に」


 互いの視線が一瞬だけ重なった。

 その裏に潜むのは恐怖か、信頼か――。

 

 千鶴を送り出した後、吉川はおもむろに引き出しからレターセットを取りだす。


 ペン先が震えていた。

 検案用紙の余白に黒い滲みを作ったまま、吉川は深く息を吐いた。

 記録だけが真実を繋ぎ止める。ならば――。


 机の引き出しから封筒を取り出す。

 白紙のままの便箋を広げ、震える手で万年筆を走らせた。


 ――拝啓。


 最初の一文字が、思いのほか重かった。

 だが一度書き出せば、言葉は堰を切ったように流れ出した。


 ここにきてからの出来事。

 村人たちの笑顔の異様さ。

 朝に運び込まれた二つの遺体のこと。

 昨日まで診療所で診ていた少年と少女だったこと。


「……記憶が削がれている。だが記録には確かに残っている」


 インクの線が紙を埋めていく。

 思考が霧に覆われても、文字だけは裏切らない。

 怪物のことは書くか書くまいか迷った。

 だが書いてしまえば、きっと彼はここに来る。

 それは、避けたかった。


 最後に書いたのは――あの夏の夜の記憶。

 炎の匂い。肉の崩壊。忘れたはずの出来事が、いま再び目の前で繰り返されていること。


 彼が心配するかも知れないとあえて軽い調子で。

 ただ、君の仕事のネタにはなるかも知れない、と書き添えた。


 便箋の端に、名を記すことはなかった。

 ただ、宛名のところにこう書いた。


 ――君へ。


 封を閉じ、手のひらで押さえる。

 もし自分に何かあったとき、これだけは必ず残さねばならない。

 記憶が消えても、紙は残る。


 吉川は封筒を机の奥に差し込み、瞼を閉じた。

 胸に渦巻く痛みと恐怖を、わずかな決意で押しとどめながら。

 村のポストに入れるのはまずい。

 週に二度やってくる配達員、折良く今日は午後にはやってくるはずだ。

 彼が診療所に来たら、直接渡そう。


 便箋を封筒に収めたとき、窓の外ではすでに陽が高く昇っていた。

 霧は消え、畦道には蝉の声が満ちている。

 だが診療所の中は、夜の名残のようにひどく暗かった。


 机の上のカルテをめくる。

 そこに書かれた文字は確かに残っている。

 だが次にページを開いたとき、自分はまた思い出せるだろうか。


 ――記憶は消えても、記録は残る。


 吉川は震える指で眼鏡を外し、額を押さえた。

 外からは村人たちの笑い声が遠くに聞こえてくる。

 まるで何事もなかったかのように、穏やかで、均一で。


 その笑い声の下に隠されたものを、村の誰も疑おうとはしない。

 ――いや、疑えなくなっているのだ。


 吉川は封筒の重みを確かめ、再び軽くこめかみを揉む。。

 記録だけが真実を繋ぎ止める。


 自分はどうすべきなのか。

 この村の異常はもう疑うべくもない。先ほどの現象も通常ではあり得ない。

 夢や幻を見たと考えた方が、まだ理解はできる。

 だがこれは現実だ。

 

 ――村を出るべきか?

 そう、千鶴を伴って。だが村を無事に出れるのか?

 もしかしたら――あの二人は村を出ようとして、あんなことになったのでは?

 あり得ない話ではない。

 

 ――村を出るべきか? もう一度同じ問いを脳裏に浮かべる。

 それでいいのか?

 あの二人は確かに私の患者だった。

 まだ若く、これからを生きるはずの子供たちだった。

 彼らを失わせたものの正体を知らぬまま、私はこの地を去れるのか。


 ……いや、逃げられはしない。

 記憶を奪う力が働いているなら、外に出たところで私自身が忘れてしまうだろう。

 ならば――ここで記録し続けるしかない。


 この村は異常だ。それはもう確定している。

 動き出す死者。襲いかかる肉塊。村の掟。赤い薬。

 そして――にくゑ。


 改めて調べなくては。この村がなんなのか。

 にくゑとは何なのか。


 記憶は消えても、記録は残る。

 それだけが、この異常に立ち向かえる唯一の武器だ。

 吉川は自らを奮い立たせるように、拳を握ったのだった。



◆◆◆

あとがき。


断片に繋がってゆくエピソードです。

もっと残酷に書くことも出来たのですがここは押さえて。

そして次章、物語は三部構成で真相に近づいてゆきます。

第九章 其の壱「真相への扉」

第九章 其の弐「夜の探索」

そして

第九章 其の参「にくゑ」


二人が真相へと近づいてゆく次章をお楽しみに。


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