夏の残像
机に並んで座る三人の姿が、ふいに脳裏に浮かんだ。
放課後の図書室。窓から射す夕陽が机を赤く染め、本棚の影が長く伸びていた。
中央にいたのが自分だった。白衣を目指して医学や生物の本ばかりを手に取り、難しい専門用語に眉をひそめていた。髪は真面目に刈り込んでいたが額にかかることが多く、いつも指で払いのけていた。
片側には、古い民俗誌や怪談集を積み上げている彼がいた。くしゃりとした髪に、笑いかけるときだけ片目を細める癖がある。鉛筆を指でくるくる回し、紙に線を引く音がやけに楽しげに響いていた。自分が医学書の難解な図表と格闘している間、彼は軽やかに文字を追い、時折「へえ」「そうか」と小さく呟いていた。
もう一方には、彼女がいた。肩にかかる髪は柔らかく、光を受けると茶色がかって見えた。目元は涼しげで、笑うとえくぼが浮かぶ。いつもノートを広げ、特別な意味もなさそうにページをめくっていたが、その仕草を見ているだけで心が落ち着いた。
三人並んで座るその時間は、互いに多くを語らなくてもよかった。ページをめくる音と、鉛筆の走る音が重なり合い、それだけで胸が満たされていた。この静けさが、吉川には何よりも貴重だった。
「お前は医者になるだろ」
民俗誌の本を閉じて、彼が笑いながらこちらを見た。
「お前は書き続けるんだろ」
自分も思わず言い返した。冗談めいたやりとりだったのに、不思議とどちらにも確かさがあった。
「私だってそうよ。いつかプロの小説家になるんだから」
彼女が少し誇らしげに言った。
二人の会話を聞きながら、吉川は妙な居心地の悪さを感じていた。彼らには「創作」という共通点がある。書くことで繋がっている。一方、自分が目指すのは医師という、どこか孤独な道だった。
彼女は、そんな吉川の表情を見て、ふっと微笑みを浮かべた。その笑顔の奥に、時折影が差すのを、吉川は見逃さなかった。まるで三人の未来の分かれ道を、先に知っているかのように。
窓の外からは運動部の掛け声が遠くに届いていた。けれどこの机の上に並んだ影は、夕陽の赤に溶けあい、三人だけの世界を作っていた。
◆
夏休みの午後、自転車をこぐ足が熱を帯びていた。
話の始まりは、彼が町外れにある廃神社の噂をどこからか仕入れてきたことからだった。
男二人で、ゆっくり一晩話そう、と肝試しも兼ねてキャンプ、というか野宿をしようということになったのだ。吉川も彼も、この夜の話題はきっと彼女のことになる確信していた。曖昧な関係に終止符を打つ。そんな思春期男子の微笑ましい決意が二人を駆り立てている。
町田の外れまで片道一時間ほど。彼と二人だけで出かけるのは初めてで、それがただの距離以上に誇らしかった。普段は三人でいることが多かったが、今日は彼女を誘わなかった。男同士の、特別な時間のような気がした。
鞄にはテントと飯盒。荷台に結びつけた寝袋が風に揺れ、カラカラと鳴った。
並んで走ると、互いの顔に笑みが浮かぶ。親には「友達の家に泊まる」と告げてきた。胸の内では、それが立派な冒険に思えた。十七歳の夏の、ささやかな背伸びだった。
日が傾くころ、廃神社の近くに辿り着いた。石段は草に埋もれ、鳥居は傾いて赤が剥げ落ちている。
少し離れた空き地にテントを張り、小枝を集めて焚き火を起こした。
ぱちぱちと火がはぜる。鍋に水を張り、飯盒の中で米がふくらんでいく。煙の匂いと夏草の青臭さが重なり、胸の奥をくすぐった。
「な、俺たちだけでできるだろ」
彼が得意げに笑う。吉川も笑い返し、スプーンで焦げた飯を口に放り込んだ。不器用ながらも二人で作り上げた夕食が、どんな料理よりも美味しく感じられた。
ただそれだけで、何かをやり遂げた気分だった。
夜。月の光が高みに昇ると、二人は懐中電灯を手に神社をのぞきに行った。
石段は崩れ、鳥居の縄は朽ちて垂れていた。虫の声が途中で途切れ、闇の中に妙なざわめきが混じった。
「……聞こえるか」
彼の声は冗談めかしていたが、わずかに震えていた。
吉川は頷いた。胸の奥を、理屈では測れないざわめきが叩いていた。医学を志す自分でさえ、説明のつかない恐怖を感じていた。
そのとき、草むらが大きく揺れた。
闇の底から、肉片のかたまりが這い出てきた。
拳くらいの大きさだろうか。ずるずると這い出している肉の塊は、ゆっくりとこちらに方向を定めた。
「な、なんだ、これ!?」
「鼠? いや……違う……」
懐中電灯に照らし出されたそれは、例えていうなら、肉屋の店頭に並ぶ幾つもの肉片が混ざり合ったような何かだった。。
それは人の唇を持ち、歯をのぞかせていた。濡れた肉の赤が月光にぬらりと光り、唇がかすかに動いたかと思うと、突然、飛びかかってきた。
「――うわ!」
「ひ、ひぃーーーーッ!!」
二人は一目散に、その場を走り去る。程なくまだ暖かさが残っている焚き火前まで、二人は息を切らし駆け戻った。月明かりがテントと二人を照らしている。
道路までは遠く、ここは撤収するにしても手間がかかる。
「お、おい、さっきの……」
「見間違い……かもな。あんなものがいる筈がない」
恐怖を紛らわすように会話を交わす。吉川は、焚き火に風を入れ、再び火を燃やした。炎があたりを照らし出し、二人は安堵の息を漏らす。
――だがその時だった。
草むらから影が走り、その影は彼に向かって飛びかかってきたのだ。
「う、うわぁッ!」
それは彼の肩口に噛みついた。布越しに歯が食い込み、彼の呻き声が夜に響く。
吉川は反射的に腕を伸ばし、その化け物を振り払った。焚き火の方へと押し倒す。恐怖よりも先に、彼を助けなければという想いが体を動かしていた。
炎がはぜ、肉片を包み込む。
鉄の匂いと、甘ったるい匂いが同時に広がった。吐き気を誘うはずなのに、二人は目を離せなかった。その匂いが、なぜか記憶の奥深くに刻み込まれていく感覚があった。
ぱちぱちと音を立て、肉片は燃え尽きた。跡には黒い灰が残っただけだった。
彼は肩を押さえながらうずくまった。幸い布が歯を阻み、出血はないようだった。
服を脱がせ、噛まれた箇所を見ると内出血になっている。
「……大丈夫だ。これなら感染症にもならない」
吉川の言葉に、彼は黙って頷く。
「た、助かった……でも、ありゃなんだったんだ?」
必死にそう言った彼の声が震えていた。
吉川はその顔を見つめた。痛みと恐怖と興奮が入り混じった表情。友人の苦痛を見ているのに、同時に今夜の出来事への奇妙な高揚感も感じている自分がいた。医学でも科学でも説明はつかない、奇怪な現象。あれが生物だったのかもわからない。もしかしたら、二人そろって夏の幻を見た可能性すらある。
だが。
――吉川はこの夜は一生忘れないだろう。
風が吹き、煙を流していった。
焚き火の炎はまだ赤く揺れている。
吉川はその光を凝視した。
――異常を滅するのは、火しかない。
心の奥で、言葉が刻まれていった。医学的な理屈では説明のつかない現象も、火という原始的な力が解決してくれた。
彼は荒い息をつきながら呟いた。
「……今のこと、書きとめなきゃな。俺、ああいうものを書いてみたい」
震える声に、鉛筆を走らせるような決意が混じっていた。彼らしい反応だった。吉川が医学的に理解しようとするのに対し、彼は記録に残そうとする。
夜空の下、二人はしばらく焚き火の音だけを聞いていた。
肩に残った噛み痕は、のちの彼に生涯残ることになる。その時の吉川は、それがどれほど彼の人生に影響を与えるかまでは知る由もなかった。
◆
翌日の教室は、夏の光で白く満ちていた。
扇風機の羽根が唸りを上げ、窓際のカーテンがときおり大きく揺れた。
ざわめく声のなかで、自分と彼だけが落ち着かなかった。昨夜のことが現実だったのか夢だったのか、朝になってもまだ判然としなかった。
彼の肩には湿布が貼られていた。理由を問われれば「転んだ」と答えるつもりだったが、言葉は喉の奥で硬く固まっていた。
自分もまた、夜の炎と匂いが頭から離れなかった。鉄の匂い。甘ったるい匂い。風に流されても消えなかった。授業中も集中できず、教科書の文字が頭に入ってこなかった。
昼休み、彼女が机を寄せてきた。笑顔は柔らかく、けれど瞳はまっすぐだった。いつもの彼女と変わらない様子なのに、なぜか胸がざわついた。
「昨日、二人でどこに行ってたの?」
問いは軽い調子だったが、返事を探す口がすぐには動かなかった。嘘をつくのは気が進まなかったが、真実を話すわけにもいかなかった。
「……ちょっと、自転車で」
「キャンプだ」
二人の答えは重ならなかった。吉川は曖昧に濁そうとしたのに、彼は正直に答えてしまった。
彼女は唇を緩めて、小さく笑った。
「……焦げた匂いがしたよ」
指先で自分の髪を撫でながら、何気ないふうに言葉を置いた。吉川の心臓が跳ね上がった。
「甘ったるい匂いも」
胸が跳ねた。
何をどこまで気づいているのか。彼女の鋭さを、吉川は改めて思い知った。普段おとなしそうに見えるのに、実は一番観察眼が鋭いのかもしれない。
彼も瞬きもせず黙り込んでいた。
「もう、ずるいなぁ」
冗談のように言ったが、その声には寂しさがにじんでいた。
笑顔は保たれていても、その影ははっきりと見えた。吉川の胸に妙な予感が広がった。三人の関係が、少しずつ変わっていくような。
三人の間に、目に見えないひびが入った。
それでも昨夜の秘密は、三人だけのものになった。その重みを、吉川は初めて感じていた。
「仲間外れにされたみたい」
彼女が軽く肩を叩いてくる。
風に乗って、ふわりと彼女の匂いが鼻孔をついた。
甘い匂い――甘ったるい匂いが鼻を刺し、吉川の意識は一気に現在へと引き戻された。
処置室の空気は焦げた匂いで満ちていた。




