駆け戻る朝
息が切れるのも構わず、吉川は村の道を駆けていた。
朝霧がまだ地を這い、畦道の水面を白く曇らせている。遠くで鶏が鳴き、集落はまだ目覚めきっていない。だが彼の胸は、喉を掴まれるような焦燥で焼けついていた。
「先生、待ってください……!」
後ろから千鶴の声が追う。裾をかき寄せ、転びそうになりながらも、必死に足を運んでいた。
彼女の顔は青ざめ、汗で乱れた髪が頬に張りついている。普段は静かな笑みを絶やさぬ千鶴が、今は怯えを隠そうともしなかった。あの時、佐藤家で千鶴が報告してくれた言葉を思い出す。
(診療所に……し、死体が運び込まれました!)
その声は震えていた。
◆
診療所の前には、すでに村の男衆が集まっていた。誰も声を荒げず、ただ口元に同じ笑みを貼りつけ、互いに頷き合っている。その中央に立つのは村長・清一。背筋を伸ばし、白髪交じりの頭を朝の光に光らせ、まるで儀式の進行役のように静かに構えていた。
地面には古びた戸板が置かれ、その上に二つの躰が並べられていた。
少年と少女――そうとしか言えない背丈と骨格。辛うじて服が体に張り付いている。皮膚は内側から裂け、腹も胸も四肢も、肉の継ぎ目という継ぎ目に亀裂が走っている。外から囓られただけでははなく、臓腑から圧を受け爆ぜたような裂開もある。少年の遺体は左手すら肩から先がなかった。
血液はほとんど残っておらず、床を汚すはずの赤はどこにもない。鼻を突くのは鉄の臭気だけ。
「……山の中で見つかりましてな」
清一の声は低く穏やかだった。
「猟師衆が知らせてきて、こうして運ばせてもろうた」
「……朝方な、山鳥を撃ちに川ん方へ出とりましてな」
肩幅の広い庄司が口を開いた。銃袋を背に、片手を腰に当てながら淡々と告げる。
「道路が血まみれでのう、鼻が曲がるような匂いしとったけぇ。そしたら野犬どもが群れとってな……死体を食い破っとったんじゃ。見ての通り、ひどいもんで」
吉川は戸板を見つめた。
顔の皮膚は裂け、骨がむき出しになっている。だが断片的な形は、知っている。診療所で診察に来たあの眼差し。
――誰だ。名前が出てこない。
いや、気のせいなのか? 記憶にある、と思い込んでいるだけなのだろうか。
喉が震え、思考が霧に覆われる。眼鏡の奥で必死に目を凝らした。少年と少女の面影は確かにそこにあるはずなのに、言葉として結べない。
「……すぐに警察へ連絡を」
声は掠れ、紙を擦るように乾いていた。
清一がこちらに顔を向け、穏やかな笑みを崩さずに言った。
「それがのう、鳥が悪さしたらしくてな。線が切れとるんじゃ。電話は繋がらん」
「では、車で町へ下りて、署に知らせを」
吉川は食い下がる。
「もう使いを出しましたけぇ、じきに戻るじゃろう」
清一が柔らかに答えると、背後の男衆も同じ笑みで一斉に頷いた。
その光景に、吉川の背筋を冷たいものが走った。
本当に誰かを出したのか。
問い返そうとした舌が、喉に貼りついて動かなかった。
道路脇に置かれた戸板の上、無惨に荒らされた二つの骸を見下ろしながら、吉川は深く息を吐いた。
本来なら、ここから先は自分の職分ではない。検死や司法解剖は警察医の領分だ。だが警察は来ない。電話線は切れている。使いを出したという清一の言葉も、どこか虚ろだ。
このまま放置すれば、野犬がまた群がるだろう。太陽が昇れば腐敗も始まる。
外に繋がるはずの秩序はここにはない。ならば――残された道はひとつしかない。
「……遺体をこのままにしておくわけにはいきません。保存と記録を始めます」
努めて落ち着いた声を出す。
「お願いしますじゃ」
清一が静かに頷く。背後の男衆も同じ笑顔で頷き揃えた。
「診療所の中へ運んでください」
吉川が命じると、男衆は無言で戸板を持ち上げた。軋む音とともに二つの躰が揺れ、白布からのぞく裂け目から甘い鉄臭が漂った。
腐臭はそこまで酷くはない。この時間まだそこまで気温は高くないとはいえ、夏の朝だ。蛋白質の分解された匂い、いわゆる生ゴミの匂いが耐えがたいほど漂っていてもおかしくはないのだが。
千鶴が先に戸を開け放ち、空気が一気に入れ替わる。朝の冷気が室内に流れ込み、埃と消毒薬の匂いが混じった。
処置室の中央に戸板を降ろすと、木が床を軋ませ、低い響きが壁に広がった。
吉川は息を整え、声を張った。
「ベッドに移しましょう。ここでは作業ができません」
処置室のベッドに損傷の酷い方の遺体を寝かせると、金属の枠が低くきしんだ。
吉川は息を整え、もう一体に視線を移す。
「もうひとりは……入院室に運んでください」
声は抑えていたが、命令の響きが滲んだ。
男衆が無言で頷き、戸板を持ち上げる。畳敷きの入院室にベッドは三つ並んでおり、そのひとつに静かに降ろされた。
「千鶴さん。カバーを……ベッドの保護布をかけてください」
呼びかけに、千鶴は一瞬だけ手を止めたが、すぐに大きく頷いた。
白布を広げ、遺体全体を覆う。布が肌に触れる瞬間、冷気が室内を這った。
少女の遺体はそのまま、村の男たちが入院室へと運んでゆく。
吉川は白衣の袖をまくり、器具を並べる手を止めないよう自分に言い聞かせた。
「氷を持ってきてください。あとガーゼと布を」
千鶴が慌ただしく頷き、物置へ駆けていった。普段は静かな仕草の彼女の手が、今ははっきり震えている。
吉川は白衣の袖をまくり、手袋をはめる。粉の乾いた感触が指先を覆い、皮膚の温度を奪った。ステンの盆に器具を並べ、スケールを手元に置く。机には検案用紙を広げ、万年筆を載せた。
日付、時刻、場所――書類の欄は空白のまま、ペン先がわずかに震えている。
視線を遺体へ移す。少年の躰は、やはり信じがたい有様だった。
皮膚は爆ぜ、腹腔は裂け、血管は空の管のように縮んでいる。まるで体液を抜き取られた後の残骸。
「酷いな……左腕がない……」
野犬が食い散らかしたのだろう、ほとんど原型を留めていない部位も存在した。
吉川は所見をメモしはじめる。筆の芯が紙を擦る音が、異様に大きく響いた。
――記録は、残さなければならない。
この少年の面影には確かに見覚えがある。だが記憶に浮かんでこない。
もし、何かの原因でこの少年のことが記憶から消えていても、紙に書かれたものまで消えるはずがない。
理性にすがるように手を動かす。だが鼻孔に漂う鉄の臭気が、次第に甘さを帯びて変わっていくのを吉川は感じた。




