熱
夜更け、家の中は静かだった。陽一は宿題を終えるとすぐに布団に潜り込み、子供らしい寝息を立てている。食事の片付けも終わり、部屋には外から聞こえてくる気の早い虫の音だけが響いていた。
沙織も衣を脱ぎ、布団に横になった。今日はいろいろありすぎた――そう思って目を閉じたその時、隣から熱が迫ってきた。
「……沙織」
俊夫の声は低く掠れていた。顔を向けると、目がぎらぎらと光を帯びている。比喩ではなく、夜の獣のように光って見えた。昼間はあれほど穏やかだったのに、今は渇いた何かに突き動かされているようだった。
「あなた?」
腕が伸び、沙織の身体を抱きすくめる。布団の中に閉じ込められ、逃げ場はなかった。
「お前が欲しい」
熱い息が首筋にかかる。掌は荒々しく背を這い、汗でじっとりと濡れていた。押し寄せる体温は火傷のように熱く、息苦しさすら覚える。
「ま、待って……陽一が……」
「大丈夫だ。よく寝てる」
耳元で囁く声は甘さを欠き、獣のうなりに近かった。唇が押しつけられ、強く吸い付かれる。息を奪われ、喉の奥から震える声が漏れる。
抱き寄せる腕の力は異様に強かった。胸板は硬く膨れ、皮膚の下で筋肉が、それとも違う何かが痙攣するように脈打っている。指先で触れたとき、その波打つ感触に沙織の全身が凍りついた。
「……愛してる。お前がいなきゃ駄目なんだ」
繰り返される言葉は必死で、だが理性を失っていた。瞳を覗き込んだ刹那、光が縦に裂けたように見えた。瞳孔が細長く変形し、炎を宿した獣の目に重なった。
「俊夫……!」
恐怖と混乱の中で、それでも沙織は自分に言い聞かせた。――これは夫だ。陽一の父だ。逃げてはいけない。
「……あぁッ!」
俊夫が無理矢理に中に入ってきた時、引きつるような苦痛から思わず声が漏れる。
必死に縋りつきながら、ただ押し潰される熱に耐えた。
「助けて……助けてくれ、沙織……ッ!」
譫言のように名前を呟きながら必死になって自分に縋り付いてくる俊夫を沙織はそっと抱きしめる。自分が溢れ始めたことがわかる。同時に俊夫への思いか、引きつるような痛みは消えてゆき、ただ自分の中心に熱を感じ始めた。
「ん……んぁ!」
俊夫の力強い律動に思わず声が漏れる。愛する夫を抱きしめながら沙織の胸は疑問に満たされていく。
この人がこんなに怯えてる……何で?
頼りになる強い夫の怯え方に沙織は激しく腰を打ち付けられながら、初めてのデートの時のことを思い出していた。
震えながら、恐る恐る自分の手をそっと握ってきた俊夫。
あの時と……同じだ。
「大丈夫……大丈夫よ、あなた……俊夫さん」
夫のかき抱く腕に力を込める。
やがて俊夫は最後の力を吐き出すように強く抱き締め、そのまま大きく息をつき、動かなくなった。
汗に濡れた胸の上で、ようやく規則正しい呼吸が戻っていく。
布団の中、沙織は震える身体を抱きすくめた。
暗闇に目を開けたまま、沙織はのろのろと体を起こし、身繕いを整える。
汗を……拭かなくっちゃ……。そうだ、換気もしないと。
朝、陽一が起きた時に変な匂いがする、とか思われたくないし。
とても、眠ることなどできなかった。
隣に眠る俊夫の寝息は規則正しく、今朝の熱が嘘のように穏やかだ。けれど胸の奥を締めつけるのは安堵ではなく、不気味なざわめきだった。
――さっきのことは、夢ではない。
抱き寄せられた時の異様な熱。ぎらついて獣のように光った眼。縦に裂けた瞳孔、そして胸板の下で蠢いたもの。
思い出した途端、背筋が冷え、喉が乾いた。
ううん、気のせいよ。村で見つかった死体の話とか聞いたから、気が動転していてありもしないものが見えたんだわ、と沙織は自分を納得させようとする。
もしかしたら俊夫も死体の話を聞いていたのかも知れない。それで怖くなって、あんなに私を求めたのかも。そう思うと頼りになる夫の普段は見せない弱さに、少し口元がほころんだ。
ふと見ると、枕元には空になった赤黒い小瓶が転がっていた。畳に乾ききらぬ輪を残し、鉄と甘さが入り混じった匂いが微かに漂っている。沙織は指先で触れるのもためらい、ただ凝視するしかなかった。
朝の準備をしなくちゃ。
沙織は身繕いを済ませ、朝の準備に立ち上がった。
◆
翌朝――薬を飲んでから十二時間ほど経った頃、朝食の支度をしていると、俊夫が台所に顔を出した。
「おい、もう畑に出てくるよ」
その声は力強く、顔色も昨日までとは見違えるほど良い。
「でも、まだ体を休めた方が――」
「平気だって。むしろ体が軽いくらいだ」
笑って腕を振り上げる姿に、沙織の胸は強く脈打った。昨夜の獣じみた熱と、今目の前の元気な夫。どちらが本当の俊夫なのか、わからなくなる。
眠っていた陽一が朝の気配に目を覚ます。
「お、陽一、もう起きたのか!」
「うん、おはよ……お父さん、すごい! 昨日は寝てたのに!」
「あっはは、お父さんは強いからな!」
無邪気な声と笑顔が、いっそう沙織を孤立させる。二人にとっては幸福の回復。それを喜べない自分だけが、外に置き去りにされている。