ひと雫
お福はすぐに笑顔を取り戻し、調子を和らげるように言った。
「まあ、都会とは違うけぇな。旦那さんは寝ときゃようなるわ。心配せんでええ」
お福がそう言って笑顔を繰り返したとき、清一がふと思い出したように懐に手を入れた。
「……そうじゃ、これを渡しとこうかの」
掌に載せられたのは、小さなガラス瓶だった。
昼の光を受けてなお黒ずんで見えるほど、濃い赤がねっとりと揺れている。血のようでいて、粘りを含んだその色は、視線を外せないほど異様だった。
「昔から村に伝わる薬じゃ。よう効くけぇ、安心せえ」
清一は穏やかな笑みを崩さず、瓶を沙織の手に押し込む。
掌に触れた瞬間、沙織の背筋に冷たいものが走った。
あまりに鮮やかな赤。薬というより、まるで誰かの体から抜き取った血のように思えてならなかった。
「……ありがとうございます」
それしか言えず、沙織は頭を下げて戸口を閉めた。
居間へ戻ると、俊夫はまだ布団に沈んでいた。汗に濡れた額、荒い呼吸。沙織は瓶を見つめ、言葉を選びかねた。
「あなた、村長さんから……こんなものをもらったの。飲んでみる?」
俊夫はその言葉に、まるで待ちかねていたかのように身を起こした。伸ばされた手は震えながらも力強く、瓶を掴むとすぐに栓を抜いた。
「……っ」
赤い液体を喉に流し込む。ごくり、ごくりと飲み下す音がやけに大きく響いた。瓶はあっという間に空になり、俊夫は唇の端から滴った赤を拭おうともしなかった。
その顔は陶酔にも似て、目の充血がさらに濃く燃えているように見えた。だがしばらくすると、呼吸が落ち着き、汗も引き、布団に横たわったまま穏やかな寝息を立て始めた。
「……俊夫さん……あなた?」
返事はなく、俊夫は安らかに眠っている。安堵が胸に広がる。けれど同時に、瓶の底に残った赤黒い痕跡が、目に焼き付いて離れない。
沙織は小さく震える手で空瓶を握りしめ、夜明けの冷たい光を受ける窓の外を見つめた。
日が傾き始めた頃、戸口が勢いよく開いた。
「ただいまー!」
陽一が駆け込んできた。頬は赤く上気し、汗に濡れた前髪が額に貼りついている。
「お父さん! お母さん!」
その声に俊夫が布団から身を起こした。もう顔色は朝とは別人のように明るく、背筋もすっと伸びている。
「おう、陽一。心配かけたな。今日はちょっと寝すぎただけだ」
「大丈夫なの?」
陽一が目を丸くして駆け寄る。
「大丈夫だ。お前の顔を見たら元気になった」
そう言って俊夫は陽一をひょいと抱き上げ、胸の中でぐるりと回した。陽一が歓声をあげ、笑い声が居間いっぱいに広がる。
「こら、汗だくじゃないか。風邪ひくぞ」
俊夫がそう言いながら頭を撫で、額に頬をすり寄せる。その仕草は過保護なくらいで、陽一はやめてよと、くすぐったそうに身をよじった。
良かった、すっかり治ったみたい、と俊夫の様子を見て胸を撫で下ろす。
「学校はどうだった?」
「うん! 今日は山のことを教えてもらったんだ。みんなで絵を描いたんだよ」
目を輝かせて話す陽一を、俊夫は膝の上に座らせて熱心に聞き入る。
「そうかそうか……絵を見せてくれよ。お前は昔から上手かったからな」
その声には誇らしさが滲み、沙織の胸にじんわりと温かさが広がった。
台所で煮物の鍋をかき混ぜながら、沙織はふと息を吐いた。
――やっぱり、この村に来てよかった。
東京では病弱な陽一の体調を気にし、夫も心をすり減らしていた。今、家の中に響く笑い声は奇跡のようだった。
煮物の鍋がことことと小さな音を立てていた。里芋と人参、鶏肉を出汁で炊き合わせ、醤油と砂糖を加えると、ふわりと甘じょっぱい香りが立ちのぼる。
味噌汁には刻んだ大根と油揚げ。木杓子でひとすくいすれば、湯気とともに味噌の香りが立ちのぼり、狭い家の中に広がった。
白米も炊きあがった。蓋を開けた瞬間、もわりとした湯気が立ちのぼり、粒のひとつひとつが光って見える。しゃもじでよそうたびに、つややかな音がした。
浅漬けにしたきゅうりを小鉢に盛り、豚肉とピーマンの味噌炒めを皿に移す。油と味噌が絡んで香ばしい匂いが漂い、居間まで届いていった。
「お母さん、いい匂い!」
陽一が椅子に座り、目を輝かせて身を乗り出した。
「ほら、手を洗ってから」
沙織が言うと、俊夫が笑いながら息子を押しやった。
「ほら陽一、母さんの言うことを聞け。俺だってもう待ちきれんけどな」
三人で食卓につく。湯気の立つ茶碗を前に、そろって手を合わせた。
「いただきます」
陽一は夢中でご飯を頬張った。まだ熱いのに「あちち」と言いながらも、口いっぱいに詰め込む。
「ゆっくり食べろ。喉につかえるぞ」
俊夫が笑って茶碗を支えてやる。
「陽一、ピーマンも食べなさい」
沙織が箸で炒め物をつまみ、息子の皿にのせた。
「やだ、苦いから」
陽一は顔をしかめて、箸で端に寄せようとする。
「好き嫌いしてたら大きくなれないわよ」
沙織の声が少し厳しくなる。
「まあまあ、いいじゃないか。俺だって子供のころは嫌いだったんだ」
俊夫が笑いながら陽一の肩を抱き寄せる。
「な? 陽一」
「うん!」
甘やかす声に、陽一は嬉しそうに笑った。
「だから病気がちになるのよ」
沙織は呆れたように息をついた。だが、二人の笑顔を見ていると心の奥が温かくなる。
きゅうりの浅漬けをぽりぽり噛む音、味噌汁をすする音、箸の触れ合う軽やかな響き。
食卓に響く音の一つひとつが、東京では遠ざかってしまっていた家族の時間を取り戻してくれるようだった。
沙織は煮物を茶碗によそいながら、胸の奥で小さく呟く。
(……幸せって、こういうことなのかしら)
陽一の笑い声、俊夫の柔らかな表情。それを目に焼き付けながら、沙織は心からそう思ったのだった。