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にくゑ-本編-  作者: 匿名希望
第七章 家族
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知らせ

 居間に入った吉川は、布団に伏した俊夫の顔を覗き込んでいた。

 赤く充血した眼、汗で濡れた髪、胸の上下は不規則に荒い。

 吉川は黙って脈を取り、額に手を当てる。眉間の皺が深く刻まれていく。


「……熱は高いですね。宴会の時も具合を悪くされていたようなので、気にかかっていたのですが」


 低くつぶやき、聴診器を胸に当てる。俊夫の呼吸音が部屋に広がり、沙織は思わず両手を握りしめた。

 そんな話は初めて聞く。沙織は、自分が思っている以上に夫婦のコミュニケーションがとれていないことに驚いていた。何でも話し合っていると思っていたのに。


「どうなんでしょうか……?」


 震える声に、吉川は眼鏡の奥から穏やかな視線を向けた。


「熱は三十九度ほどありますが、呼吸はしっかりしています。胸の音もきれいですし、脈も落ち着いている。今すぐ命に関わるような危険はありません」


 沙織の表情に安堵の色が差すのを見て、吉川はさらに言葉を重ねた。


「おそらく疲労からくる一過性の熱でしょう。まずは水分をしっかり摂らせて、布団で休ませてください。しばらく安静にして、様子を見ましょう」


 その言葉に沙織の膝から力が抜けた。床に崩れ落ちそうになる彼女を、吉川が静かに支える。


「大丈夫です。私が見ています」


 ――自分ひとりではない。この家に、村に、寄り添ってくれる人がいる。


 吉川は往診鞄を閉じ、立ち上がる。


「体を冷やすために水枕を使ってください。食事は消化の良いものを。熱が下がらなければ、また知らせてください」


 沙織は深く頭を下げ、声を震わせた。


「ありがとうございます……本当に……」

「そういえば、村長というか村の人から赤い――」


 吉川が、その言葉を口にした直後、玄関が激しく開け放たれた。

 千鶴が駆け込んできたのだ。顔は蒼白で、肩で荒く息をついている。


「せ、先生! 大変なんです、大変で……!」


 畳に膝をつき、取り乱した様子で吉川にすがりつく。

 吉川が怪訝な表情で身を屈めると、千鶴は震える唇を寄せ、耳元に素早く何事かをささやいた。


 その瞬間、吉川の顔色が変わった。

 眼鏡の奥で瞳が鋭くなり、唇は硬く結ばれる。


「申し訳ありません、緊急の用事ができまして……ご主人の容態は安定していますから安心してください。それではこれで失礼いたします」


 立ち上がり、早口で言葉を残す。


「何かあれば、すぐ診療所まで来てください。遠慮はいりません」


 沙織が呼び止める間もなく、吉川は鞄を抱え、千鶴と共に玄関を飛び出していった。

 戸が閉まる音が、妙に乾いて響いた。


 居間に残された沙織は、布団の端を握りしめたまま立ち尽くす。

 夫の荒い呼吸と、遠ざかる足音だけが耳に残り、不安が胸に広がっていった。



 昼を過ぎた頃、道の向こうに畑から戻ってくる人影が見えた。鍬を担いだ農夫たちに混じって、村長の清一の姿もある。俊夫の農作業の指導役でもある清一は年長のはずなのに腰はまっすぐで、身のこなしは若者に劣らない。


「今日はどうしたね?」


 真っ先に声をかけてきたのはお福だった。籠を提げ、にこやかに笑っている。


「俊夫さん、来んかったのぉ」


 沙織は一瞬ためらったが、正直に答えた。


「具合が悪くて……まだ寝ています」

「ほうか、そりゃ仕方ないのう」


 清一がゆっくりと頷いた。深い皺に笑みを刻み、声は穏やかだった。


「都会から来たもんは、最初はよう疲れるけぇな」


 庄司が鉄砲を背負った肩を軽く揺らし、笑い声を漏らした。


「昨日は遅うまで飲んどったしな。しばらくは体が慣れんじゃろう」


 和やかに見えた空気の中、沙織は勇気を振り絞って口を開いた。


「でも……熱が高いみたいなんです。今朝吉川先生に診てもらったんですけど……また午後からお願いした方が……」


 その瞬間、三人の笑顔がわずかに固まった。

 日差しが強くなったせいでもないのに、空気が重くなる。


 やがて清一が口を開いた。


「先生はのう、今はちいと手が離せんのじゃ」

「村のはずれでな、若いもんの死体が見つかったんじゃ。それも二人じゃって」


 お福が言葉を継ぐ。柔らかい声なのに、耳に重く沈む。

 外から来た若いもんらしい、と庄司がさらりと付け足す。


「獣にでもやられたんかもしれん……二人ともまだ子供のようじゃったが、なんとも惨い姿じゃった」


 清一が言葉を引き取った。その表情は沈痛なものにみえる。村の人間ではなくとも、その死を悼んでいる様子が見て取れた。


 村の人々の言葉を聞いた沙織の心臓が冷たく縮んだ。

 今朝、吉川先生が急いで戻ってったのはそういうことだったのか。

 この平和な村で……あまりにもそぐわない、それは言葉だったからだ。


「……死体、ですか? 二人も」


 震える声が自分のものとは思えない。

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