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にくゑ-本編-  作者: 匿名希望
第七章 家族
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夜明け前

 夜明け前の薄闇。

 沙織は居間の片隅に腰を下ろし、布団に沈んでいる俊夫を見つめていた。まだ寝息は荒く、布団の上には夜の熱がこもっている。


 昨夜は遅くまで宴が続き、村長の家から戻ったのは月が真上を過ぎたあとだった。これでは朝は寝過ごすに違いないと覚悟していたのに――。


「あら……?」


 外から人の気配がした。まだ夜も明けきらないというのに、ざわめきが広がっている。

 鍬が土を打つ金属音、畝を返す鈍い響き。そこに笑い声まで混じっていた。


 沙織は立ち上がり、窓をわずかに開ける。白い川霧が漂うなか、人影が列をなし、闇に溶けるように畑へと歩んでいくのが見えた。


 思わず襟を合わせる。昨夜あれほど遅くまで酒を酌み交わしていたのに、どうしてこれほど早く動けるのか。東京では夜遅く働いた翌朝に、村全体が揃って畑に出るなど考えられないことだった。


「起きて……ねぇ、あなた、起きてよ」


 布団の脇に戻り、俊夫に声をかける。返事はなく、ただ荒い息だけが布団の下から漏れていた。


 ――現代の暮らしとは思えない。それでも「こういうものだ」と言い聞かせるしかなかった。


 居間へ戻ると、俊夫の隣で陽一は小さな寝息を立てていた。子供の呼吸は規則正しく、夜明け前の静けさに調和している。


 問題は俊夫だった。布団に沈み込んだまま、身じろぎもしない。

 沙織はしゃがみ込み、肩を軽く揺する。


「俊夫さん、起きて。もう皆、畑に出てるわよ」


 この村への移住プログラムで、俊夫は自分の畑を貰う予定になっている。最初の一年は村の農家の手伝いと見習い。技術と知識を身につける期間だった。皆が働き出しているのに、俊夫だけが寝ているなどとんでもないことだった。


「ねぇ!」


 身体を布団の上から揺さぶる。

 だが、返事はなく、布団の中から荒い呼吸だけが漏れた。

 手を伸ばすと、掌にまとわりつくほどの汗。布団までぐっしょり濡れていて、熱気が立ちのぼっている。


「あなた……俊夫さん……?」


 額に触れた瞬間、沙織の心臓が跳ねた。火鉢のそばに指を置いたような熱さ。

 俊夫がうめき声をあげ、ようやく瞼を開く。


 薄暗い明かりの中、その瞳は赤く充血していた。血管が網のように浮かび、白目はにじむように濁っている。昨夜の宴のせい、と笑うにはあまりに異様だった。


「うう……大丈夫。飲みすぎただけだ」


 かすれた声。無理に笑みを作ろうとするが、口元の端が震えている。

 外からは、早起きの村人たちの笑い声が響いていた。その朗らかさと、目の前の夫の赤い瞳が、どうしても結びつかなかった。


 朝靄がまだ濃く、川霧が道を覆っていた。山の端が白み始めただけで、日は昇っていない。


 居間に戻ると、俊夫はまだ布団に伏したままだった。夜明け前に汗をびっしょりとかき、目の充血も昨夜より濃い。


「村のお医者さんに診てもらった方がいいんじゃ?」


 そう言うと、俊夫は顔をしかめて掠れ声を絞り出した。


「大丈夫だ……飲み過ぎただけだ。そんなことで医者を煩わせたら、笑われる」

「でも――」

「行かん。絶対に」


 その頑なさに胸がざわついた。村の目を気にする気持ちは理解できる。だが、この熱は尋常ではない。


「……じゃあ、往診を頼んでくる」


 決意して立ち上がると、俊夫は薄く笑った。


「やめろ。俺のことは放っとけ」

「駄目、大人しく寝ててっ!」


 二人のやりとりを聞いてか、陽一が目を覚まし起き上がった。


「ううん……どうしたの?」

「お父さんの具合がちょっと悪いからお医者様を呼んでくるわ。陽一はお父さんの様子を見ててね」

「わかった、任せて!」

 

 陽一の頼もしい返事を聞いて、沙織は夜も明けきらぬ薄暗い道を、診療所に向かって駆けだしていた。


 川霧がまだ濃く、道の先は白いもやに呑まれている。朝鳥の声がかすかに聞こえるばかりで、人の気配はなかった。男衆はもう畑に出ているのだろう、家々は戸を閉ざし、村は不気味なほど静まり返っている。


 胸を押さえながら角を曲がったとき、前方に人影が現れた。大きな盆を抱えた榊千鶴だった。飯の香りが霧に混じり、彼女の足取りは診療所へと向かっている。


「佐藤さん……ですよね? この前越していらっしゃった」


 千鶴が驚いたように声を上げる。その声音を聞いて沙織は少し安心する。訛りがない。この人は外から来た人だ。


「榊商店の店員さん?」

「千鶴です。どうしたんです、そんなに血相を変えて」


 沙織は息を切らし、必死に言葉を吐き出した。


「夫が……高熱で、目まで真っ赤に充血して……! どうか先生に診てもらえませんか」


 千鶴の表情が強張った。だがすぐに沙織の腕を取る。


「それはご心配ですね。すぐに先生をお起こししましょう。診療所はまだ支度の途中だと思いますが――」


 沙織は、千鶴に腕を取られながら呆気にとられていた。

 ありがたいが、この人は雑貨屋の店員さんでは?

 器用に片手でお盆を支えながら診療所の扉を開ける千鶴を見て、納得する。この人はお隣のお医者さんの世話をしているのか。

 田舎の生活では、こんな助け合いが当たり前なのかも知れない。


 二人で診療所へ駆け込むと、薄暗い玄関に紙と薬瓶の匂いが漂っていた。

 千鶴は盆を台に置くなり、奥の襖を叩く。


「先生! 先生、佐藤さんが!」


 しばらくして、寝間着に上着を羽織った吉川が現れた。髪は乱れ、服を直す手が少し震えている。


「どうかしましたか……? えーっと佐藤さん? ああ、ご主人からお話は伺っています」


 沙織は頭を下げ、必死に訴えた。


「夫が、ひどい熱で……昨夜から、目も真っ赤に……!」


 吉川の目が一瞬力強く光り、すぐに真剣な色を帯びた。


「わかりました。すぐに伺いましょう」


 慌ただしく往診鞄を手に取る吉川の背を、千鶴が支えるように押した。


「先生、留守番は私がしますから、お気をつけて。何かあったら佐藤さんのお宅にいけばいいですね?」

「はい、すみせんが宜しくお願いいたします」


 千鶴の言葉に短く答える吉川。そのやりとりに、沙織の胸にわずかな安堵が広がった。自分ひとりではない、頼れる人がいる――そう思えただけで、涙が込み上げそうになった。

 吉川は靴を突っかけると、沙織の方へ深く頷いた。


「行きましょう」


 二人は霧の村道を佐藤家へ向かって歩き出した。やがて家の前にたどり着くと、吉川は沙織に振り返り、短く言った。沙織の様子を見て、礼儀や順序を無視することに決めたのだろう。果断なお医者様だ、と沙織は感じる。


「では、お邪魔いたします」


 そのまま靴を脱いで土間に上がる。


「お医者さまですか?」 

「ああ、そうだよ。お父さんを診に来たんだ」


 玄関からは陽一が出て吉川に対応している。


「陽一、そろそろ学校の時間でしょ?」

「あ、うん、もう準備できてる」

「なら、いってらっしゃい」

「お父さん、大丈夫?」


 不安そうにいう陽一に、土間から吉川は笑いかけた。


「大丈夫だよ。先生がちゃんと診るからね。安心して学校に行っておいで」


 ひとつ頷いた陽一は、玄関に置いてあったランドセルを背負い立ち上がった。


「いってらっしゃい!」


 沙織は陽一を安心させるように微笑む、ポンとランドセルをたたいて送り出す。


「いってきまーす!」


 陽一は道に集まっていた子供たちに混ざり、村の道を歩いて行った。時々不安そうにこちらを振り返るが、沙織が大きく手を振ると安心したように歩いて行く。

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