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にくゑ-本編-  作者: 匿名希望
第六章 清音
31/34

間章 美穗

 その夜、美穂は布団の中でじっと目を閉じていた。

 父は村長宅の宴へ出かけ、家には母の寝息だけが規則正しく響いている。息を殺し、掛け布団の端を握りしめる。胸の奥では、鼓動がうるさいほどに高鳴っていた。


 ――今夜しかない。


 男衆は皆、村長の家に集まっている。ひと目を盗んで外に出られるのは、今この時だけだ。


 美穂はそっと布団を抜け出した。小さな鞄の中には、ずっと隠してきた貯金――十数万円と、大学のパンフレット。

 これまで何度も健太にお弁当を届けに通った隣家。けれど、今夜が最後になるかもしれない。


 ――二人で街へ行こう。

 このまま村に閉じ込められていたら、健太はきっと壊れてしまう。日に日に絶望を深めていく姿を、もう見ていられなかった。

 環境が変われば、もしかしたら。街の大きな病院に行けば、もしかしたら。

 ほんの小さな希望でも、掴み取るしかなかった。


 夜気を吸い込み、足音を忍ばせて家を出る。隣の健太の家は、父も兄たちも宴に出払っていて、灯りの消えた影だけがある。何度も通った戸口に立つと、今夜ばかりは手の震えが止まらなかった。


 拳で静かに戸を叩いた。

 やがて板戸が軋み、健太が顔を出す。


「……美穂? 本気で、来たんか」


 月光に照らされた健太の瞳が驚きに大きく見開かれる。今晩、大人たちがいないうちに村を出よう、昨日のうちに健太には打ち明けてあった。

 美穂は鞄を掲げ、力を込めて言う。


「十何万は貯めてきた。これで電車にも宿にも困らん。……一緒に行こう、健太」


 健太は言葉を失い、鞄を見つめた。

 やがて小さく息を吐き、苦笑する。


「……そこまで考えとったんか。俺は数万しか持っとらんのに」

「十分じゃろ。あとは街に出てから考えればええ。ここにおったら、何も変わらんけん」


 声が震えそうになるのを抑えながら、そう言い切った。

 健太の表情に影が走り、けれどすぐに真剣な眼差しで見返してくる。


「美穂……おまえ、ほんまに……」


 言葉の続きはなかった。けれどその瞳に浮かんだものを、美穂は見逃さなかった。

 ――驚きと戸惑い、それでも確かに、信じようとしている光。


「行こ、健太!」


 美穂の声に、健太は小さく頷いた。そして荷物を抱え、二人は並んで歩き出す。

 月明かりに照らされた細い道を、川のせせらぎが遠くから導くように響いていた。


 静かな夜道を、二人で歩いていく。

 宴の声はまだ村長宅から遠く響き、足音は露を吸った土に沈んでいった。月光に照らされた影が並び、細く長く伸びていく。


「……健太、覚えとる?」


 美穂はふいに口を開いた。


「小さいころ、よく私の家に来よったじゃろ。泣き虫で、熱出して寝込んだときも……母さんに頼まれて、私が雑炊運んだんよ」


 健太は少し驚いたように目を瞬かせ、それから小さくうなずいた。


「……ああ。あの時は、ほんと助かった」

「遠足の時もじゃ。お菓子忘れて泣きそうになっとったの、私が半分分けてやったんよ」

「……覚えとる」


 健太は苦笑する。


 「恥ずかしいことばっかり思い出さすな」


 美穂は首を振り、歩をそろえる。


「恥ずかしいことやないよ。私にとっては、どれも宝物じゃ」


 胸の奥に浮かんでくる光景を次々に紡ぐ。


「高学年になって、母に頼んで料理を教えてもろうた。健太に弁当をつくりたかったけぇ。初めて渡した時、あんたが笑ってくれた顔……今でも忘れられん」


 健太はうつむき、しばらく無言で歩いた。やがて、ぎこちなく懐に手をやった。

 布の下に隠しているものを確かめるように。


 美穂は気づいたが、何も言わなかった。――きっと、今はまだ言えないことがあるのだろう。


「中等部になってからは……勉強も一緒にしたね。あんたの字がにじんで見えにくいって気づいたのも、その頃じゃった。ノートを写して渡すたび、胸が痛んだ」


 言葉を重ねながら、胸の奥が締めつけられる。


「ずっと健太のそばにおれるなら、それでええと思っとった。……でも、この村じゃだめじゃ。あんたが日に日にしんどそうで、見ておれんのよ」

「……美穂」


 健太は名前を呼んだだけで、視線を逸らした。

 けれど、その声音には今までと違う熱が宿っていた。

 美穂は胸が震え、涙がにじむのを必死にこらえた。


 二人を包む沈黙は、痛みよりも温かかった。

 ――ずっと一緒に歩いてきた。これからも。そう思えるほどに。


 その時、角を曲がった先に月明かりの影が二つ浮かんだ。

 梓と――あゆみ。


「……美穂ちゃんと健太くん? こんな夜更けに、どこへ行くの」


 梓の声が静けさを破った。

 梓こそ、こんな時間に何故、と問うと清音に夜の村を案内してもらっていたのだという。この場に清音かいなくて良かった。村長の娘である清音がいれば、きっと引き留められる。

 美穂は自分たちの幸運に感謝しつつ、鞄の紐を強く握った。


「私たち、もう我慢できんの。今夜、村を出る」


 梓は息を呑み、それから小さくうなずいた。


「美穂ちゃんと健太くんがそう決めたなら……きっと止められないよね。私で良ければ、村の外れまで見送らせて」

「そんな……夜じゃのに」

「二人とも、とても仲良くしてくれた友達だもん。せめて見送らせて」


 その真剣な瞳に、美穂は胸が熱くなり、深くうなずいた。


「……ありがと」


 あゆみは唇を噛み、視線を落としたまま呟く。


「……心配じゃけぇ。私も行く」


 その声音は小さく、けれど美穂には微かな躊躇いが感じられた。仕方なさを取り繕うような響き。


 健太はちらりとあゆみを見たが、頬を赤らめることもなく、淡々と視線を逸らした。


 ――どうして。


 美穂の胸に小さな疑問が灯る。かつてなら、あゆみの名を口にするだけで顔を赤らめていたはずなのに。いつから健太の瞳は、こんなにも諦めたような色を宿すようになったのだろう。


 宴の声は遠ざかり、虫の音と川のせせらぎが濃さを増す。


 月は高く、道の白い石を淡く照らしていた。

 美穂は鞄の紐を握りしめ、歩みをそろえる。隣の健太の手がほんの少し触れ、熱が伝わった。


 ――行こう。ここを抜けて、街へ。


 胸の奥で、希望と不安がせめぎ合いながら燃えていた。


 夜道は、昼間よりも狭く感じられた。木々が闇を深く落とし、四人の足音だけが土を叩いて響いていた。


「やっぱり、夜は怖いね……」


 梓が声を潜める。


「あんたは気にしすぎなんよ」


 あゆみがすぐさま笑った。


「今晩は月が出とるけぇ、真っ暗よりずっと歩きやすいじゃろ」

「でも、木の影が揺れると……人が立っとるみたいに見える」

「はは、梓ちゃんらしいわ。清音と歩く時は怖がらんくせに」


 からかうような調子に、美穂と健太は思わず吹き出した。

 怖さを紛らわすように、四人は次々と口を開いては笑い合った。


 月の光が頭上から降り注ぎ、夜道をやわらかく照らしている。暗闇に呑まれそうになるたび、光を見上げると少し安心できた。


 やがて、道の先に石碑が浮かび上がった。苔むした石肌に月光がかかり、境界を告げる文字がかすかに光る。


「……着いたんじゃね」


 健太が立ち止まった。

 美穂は無意識に息を呑む。ここを越えれば、もう村の守りはない。


 その時、あゆみが口を開いた。


「……わたしは、ここまでにするわ」

「え……?」


 梓が驚いて振り向く。


「あんたらはよう行きんさい。でも私は、やっぱり村から離れすぎるのは……」


 あゆみの目が一瞬だけ、石碑の向こうの闇を見つめた。まるで何かを恐れるように。その表情に、美穂は違和感を覚えた。


「嫌なんよ。母さんも心配するじゃろうし」


 強がるように笑ったあゆみの声には、わずかな震えが混じっていた。


「ここまで一緒に来てくれて、ありがと」


 美穂は素直に頭を下げる。

 健太も助かったと礼を言う。


 あゆみは三人に背を向け、月光の中を振り返りもせずに歩き出した。けれど美穂には見えた。あゆみの足音が妙に急いていることに。まるで何かから逃げるように。


 影が闇に溶けるまで、美穂は目で追い続けた。


「……じゃあ、ここからは三人で」


 梓がかすかに笑みを浮かべ、歩を進める。

 石碑を越えた夜道は、月に照らされてなお深い闇を抱えていた。


 木々が途切れ、谷の口がひらけた。

 月光を受けて、長い吊り橋が川を跨いでいる。鉄骨は錆び、ワイヤーは夜風に唸り声をあげていた。


「……ここを渡れば、村の外じゃね」


 健太が息を呑む。

 橋はバスも通れる幅があったが、欄干の板はところどころ欠けている。車輪の跡が土埃に刻まれ、つい先日も誰かが渡った気配が残っていた。


「すごい……高い谷」


 梓は下を覗き込み、慌てて顔を引っ込める。月明かりの下で川の流れが白く泡立ち、轟く音が足元を震わせた。


 美穂は橋を見つめ、胸を張った。


「ここを渡れば、もう街へ続く。行こう、健太」

「うん」

「梓ちゃんはもうお帰り」

「え?」

「この先は、森を抜ける道じゃし、危ないけんね」

「でも、それならなおさら」

「ふふ、もう十分やけん。ね、健太」

「ああ、ありがとな!」

「……うん、わかった。ここで見送るね」


 月光に照らされたその横顔は、どこか晴れやかだった。けれど眉根にはかすかな心配の影も宿ってた。


「街に行っても、きっとまた帰ってくるよね。その時、話を聞かせて」


 美穂は唇を噛んだあと、深くうなずいた。


「梓ちゃん……ありがと」


 健太も頷き、ここまで来てくれて助かったと短く言った。

 三人は一瞬だけ笑顔を交わす。

 橋の上に広がる夜の風が、その笑みを静かにさらっていった。


 振り返ると梓が小さく手を振っている。

 ほんの数週間、一ヶ月あまりの短い付き合いだったけど、いい友達だった、と美穂は胸の中に暖かなものを感じた。


 その暖かさを頼りに、夜の橋を歩き出す。


 梓が闇に溶けて見えなくなると、橋の上には美穂と健太だけが残された。

 夜風が川底から吹き上げ、二人の衣を揺らす。谷を渡る音に包まれながら、美穂は健太の手を強く握った。


「……ほんとに、わしら二人きりになったんじゃな」


 健太の声は小さく震えていた。


「そうよ」


 美穂は微笑み、握った手にさらに力を込めた。


「でも二人なら、どこへだって行ける。ここまで来れたんじゃけん、街までだってきっと」


 胸の奥に積み重なってきた日々が一気にあふれてきた。

 母のいない健太の世話をし、弁当をつくり、熱を出せば雑炊を運んだ。

 遠足で泣きそうになった時、ためらいもなく自分の荷物を半分背負った。

 健太が笑った顔、泣いた顔、必死に前を見ようとする顔。全部をずっと見てきた。


「健太……あんたのことは、わたしが支えてきた。母さんがいない分、わたしがって、ずっと思っとった」


 声が震え、目に熱いものが込み上げる。

 健太は下を向いたまま、懐を押さえた。


「美穂……」


 言葉はそこで途切れた。布の奥に隠された何かを握るように、指が懐を押ししめていた。

 美穂はその仕草に気づいていた。けれど、問いただす代わりに未来を口にした。


「街に出たら、大きな病院がある。健太の目も……きっと診てもらえる。絶対、治せるはずじゃ」


 健太の瞳がかすかに揺れた。暗闇の底に、かすかな光が差すように。


「……ほんとに、治るじゃろうか」

「治るよ。だって、まだ若いんじゃけん」


 迷いなく言い切ると、胸が張り裂けそうなほどの願いがそのまま声になった。

 健太は目を閉じ、唇を噛み、やがて頷いた。


「……ああ。一緒に、外の世界を見に行こう」


 美穂は涙をこらえながら笑った。

 二人は橋を渡りきり、外の世界へと続く細い道へ足を踏み出す。


 橋を渡り切ると、道は再び森の中へと続いていた。

 風で雲が流れ、月か顔を隠す。辺りは真の暗闇に包まれ、二人はお互いの顔も見えない中、道を進んでゆく。


 街へ向かう一本道――そのはずなのに、歩を進めるたびに足が重くなっていく。


「……美穂、なんか……」


 健太の声が途切れる。

 美穂も同じだった。膝から下に鉛を括りつけられたように、次の一歩が出ない。


「どうして……? 疲れたんじゃろうか」


 額に汗がにじむ。息が上がり、胸の奥で心臓がきしんだ。

 まるで体そのものが村から離れるのを拒んでいるみたいだった。

 二人はついに立ち止まり、互いに顔を見合わせた。


「……進めん」

「わたしも」


 恐怖よりも先に戸惑いが込み上げる。

 街へ向かおうとする心は確かにあるのに、体が言うことを聞かない。


 どくん、どくんと心臓が大きく早鐘を打つ。

 おかしい、何か変だ!

 美穂が感じたその瞬間。


 ――風が止んだ。背後の谷底から吹き上げていた風が、ピタリと止む。


 突然の静寂に、美穂は立ち止まった。虫の音も、川の音も、すべてが消えたような錯覚。


 風が吹き、雲から月が顔を出す。

 月光に照らされ、一本道の先――何もなかったはずの闇の中に、人影が浮かび上がった。


 美穂は思わず息を呑んだ。

 まるで闇から生まれ出たように、清音がそこに立っていた。


 白い襟のセーラー服が月光に浮かび、まっすぐに伸びた黒髪が夜風にも揺れない。

 瞳の奥に、底知れない深さを湛えて二人を見つめる。


「……清音?」


 思わず名を呼ぶ。声が震えているのが自分でもわかった。


 どうしてここに。

 村の男衆はみな集会所にいるはず。女たちも家にいるはず。

 それなのに、まるで最初からここで待っていたように、彼女は立っている。


 待ち伏せされていた? そんな筈はない。梓は清音と話していたといっていた。

 追い越してきたなら必ずすれ違う。


 冷たいものが背筋を這い上がり、美穂は健太の袖を掴んだ。

 逃げ場はない。村長の娘である清音が二人を見逃すはずがない。村に戻るしかないのか? 


 清音が一歩、また一歩と近づいてきた。

 月光に頬が照らされ、瞳の奥がかすかに揺れた。


 そして――吐息のような声が夜に落ちた。


「……美穂……健太……」


 小さな呟き。

 ただ、美穂の胸を真っ直ぐに貫く、どうしようもなく悲しい響きだった。

 清音の言葉が夜気に沈んだ。

 美穂は頭を振る。


「……いやよ。もう戻らん。ここまで来たんじゃけん、絶対に!」


 健太も声を震わせながら叫んだ。


「清音……俺たちはもう決めたんじゃ。村を出て、街に行くって」


 清音の瞳が揺れた。

 哀しみの色を帯びて、それでも大きな影を背負っている。

 その姿は月光に照らされて、神々しくすらあった。

 ――巫女?

 にくゑ様の……そんな単語が美穗の脳裏をよぎる。

 清音は「戻って」とは言わなかった。けれど、その沈黙が二人の前に壁のように立ちはだかった。


「行こう、美穂」


 健太が腕を引く。

 美穂は迷わず頷き、二人は駆け出した。


 夜道は――中央を歩け。


 掟の言葉が頭をよぎったのは一瞬だった。

 前に立つ清音を避けるように、二人は無意識に夜道の端へ追いやられ、草の茂る縁を走っていた。


 次の瞬間、胸の奥で熱いものが蠢いた。

 美穂は息を呑み、足をもつれさせる。


「……な、に……これ……」


 腹の奥がかき回される。血管の内側を何かが這い回り、熱と寒気が同時に襲いかかる。

 健太も額を押さえ、苦悶の声をあげた。


「体の……中で……何かが……!」


 二人は互いに手を取り合いながら、必死に前へ進もうとした。

 けれど、体は言うことを聞かない。内側から裂けるような痛みが、一歩ごとに鋭く突き上げてきた。


 背後で、清音が静かに祈りの言葉を紡いでいる。

 その声は冷徹な響きを帯び、夜の空気を震わせていた。


「ごめんなさい」


 その声が落ちた途端、美穂の腹の奥がざわりと揺れた。


 胸が詰まり、呼吸が乱れる。膝ががくりと折れ、地面に手をつく。


「な、に……これ……? 体が……熱い……」


 喉から勝手に声が漏れる。

 健太も隣で顔をゆがめ、肩を震わせていた。


「美穂……俺も……っ、体が……おかしい……」


 理由なんて分からない。ただ苦しい。怖い。

 息を吸うたびに体の中が裂けるみたいに痛む。


「嫌……行くんよ……街まで……!」


 必死で立ち上がり、健太の腕を引いて駆け出した。

 これは、清音がやっているの?

 何故、どうして、という疑問も全ては痛みが塗りつぶしてゆく。


 けれど足はもつれ、真ん中を歩く余裕もなく道の端へ追いやられる。

 草を踏んだ瞬間、全身に鋭い痛みが走った。


「――ああああッ!」


 美穂は地面に転がり、爪で土を掻いた。

 頭の奥で鐘が鳴るように痛みが繰り返し、骨まで割れる気がした。

 隣で健太も地を叩き、苦悶の声をあげている。


「あああ……あ、があああああッ!」


 健太の全身が膨れ上がる。その右腕の袖が破れ、三倍ほどの大きさに膨れ上がった二の腕から、ギロリと眼球が生えた。


「ひっ! な、なんなん、これ――」


 その時、静かな声が夜を満たした。

 清音の声。低く、祈るように、確かな調子で。


「……おやすみ、健太」


 言葉と同時に健太の身体がビクンと跳ね上がり……動かなくなった。


「健太!? 健太ッ!? 清音! あんた健太になにしたんっ!」

「……」


 血を吐くような美穂の叫びは沈黙で迎えられる。

 美穂は理由も分からないまま、涙と汗に濡れた顔を上げた。


「清音……どうして……?」


 視界が滲み、月の光が揺れる。

 清音の姿だけがはっきりと、揺るがずにそこに立っていた。


 痛みは止まらなかった。

 体の奥で何かが暴れ、焼けるような熱と寒気が交互に襲いかかる。

 土に爪を立てても、苦しみは逃げてくれない。


「健太……っ!」


 隣で倒れている健太に、必死に手を伸ばす。

 美穂の顔は汗と涙で濡れ、息も荒い。

 それでも彼女の指先は健太を探していた。


「健太……わたし、ずっと……ずっと好きじゃった……」


 声にならない声。喉の奥が裂けるみたいに痛いのに、それでも伝えずにはいられなかった。


 健太は、もう答えない。

 半ば異形の姿になった健太は、もう何も答えることはない。


「一緒に……外の世界……見たかったな……」


 美穂の手が健太の手に触れる。

 と、握る力がふっと弱まった。

 次の瞬間、手が美穂の指から滑り落ちる。

 胸が引き裂かれるように痛み、涙が滲んで止まらなかった。


 そのとき、清音の声が届いた。


「……健太のポケットを……見てあげて」


 美穂は戸惑いながらも、思うようにならない身体を引きずり、震える手で彼の懐に触れた。


 指先に紙の感触がある。

 取り出すと、小さな手紙だった。汗で濡れ、文字は震えていたが、それでもはっきりと名前が見えた。


「……みほへ」


 文字が見えない健太が、それでも必死になって書いたであろう彼の最後の文章。

 みほ、の文字だけが綺麗に書かれている。

 健太には、あゆみ、の文字しか認識できなかったのでは?


 それって……。


 美穂は震える手で手紙をひらく。


 みほへ

 うまくいえんけど、ぼくはおまえのことがすきじゃ。あゆみのことがずっときになってたけど、ぼくのそばにいつもいてくれたのは、みほじゃった


 いっしょにまちにいこうといってくれて、ほんとうにうれしかった


 もし、めがなおったら、いっしょのだいがくでべんきょうして、それからずっといっしょにいたい


 もういちどかく

 はずかいしけど、ぼくはみほのことがほんとうにすきじゃ

 みほも、ぼくのことがすきじゃったらこのさきもずっといっしょに――

 

 ――息が詰まる。

 涙で文字がにじんで、もう読めなかった。

 でも、もう十分だった。


「健太……わたしに……書いてくれたんじゃね……」


 幸せ……全身を引き裂くような激痛に襲われながら、美穂はただそれだけを思った。

 ああ、産まれてきて良かった……きっとわたしは、この手紙を読むために産まれてきたんだ……。


 健太への思慕が痛みさえかき消すほどに美穂の全身を満たしてゆく。

 その顔に浮かぶのは、微かな笑み。

 美穂は手紙を胸に抱きしめ、健太の冷たい手に自分の手を重ねた。

 頬を伝う涙が紙を濡らし、夜の土に落ちていった。


「おやすみ……美穂」


 その言葉と同時に、全ての痛みが消える。

 最後に見たのは、月光に浮かぶ清音の横顔。

 その美しさは残酷で、でもどこか哀しくもあった。


 美穂の唇がわずかに動いた。


「……けん……た……す……き」

 

 掠れたような声音。

 その囁きを最後に、美穂の意識は静かに闇に沈んでいった。

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