間章 あゆみ
村長の宴の夜。
あゆみは清音の家の塀の影に身を潜めていた。
今夜なら清音が動くかもしれない。男衆が村長宅に集まり、女たちも家に引っ込んでいる。清音にとって自由になれる貴重な夜。
そんな予感は的中した。
屋敷の門がそっと開き、清音が姿を現す。月光に照らされたその横顔に、あゆみの胸は高鳴った。美しい。今夜も見ていられる。
だが次の瞬間、あゆみの表情が凍りついた。
清音が向かった先――梓の家。
(また……また梓なん?)
胸の奥で黒い感情がとぐろを巻く。
清音が戸を叩き、梓が現れる。二人が言葉を交わし、そして――手を取り合って歩き出した。
嫉妬が体中を焼く。
なぜ梓なのか。なぜいつも梓なのか。
あゆみは息を殺し、二人の後をついていく。
月明かりに照らされた二人の影が、仲良く並んで揺れている。時々清音が梓に微笑みかけ、梓が嬉しそうに応えるのが見える。
(わたしが欲しかったもの……全部、梓が持っていく)
足音を忍ばせ、木陰から木陰へ。
慣れた尾行の技術で、二人に気づかれることはない。
やがて二人は川沿いの道に入り、洞窟へ向かっていく。
――禁域。
普通なら躊躇する場所だが、あゆみの足は止まらない。
清音への愛は、掟よりも強い。
洞窟の入り口で二人が消えるのを確認すると、あゆみもそっと中へ足を踏み入れた。
ひんやりとした空気が頬を撫で、滴の音が反響している。
奥から灯りがもれている。
あゆみは壁に身を寄せ、息を殺して聞き耳を立てた。
洞窟の反響で声が歪む。
断片的にしか聞こえないが、清音の声が響いてくる。
「掟は……ただの決まりごとじゃない……全部祈りの形……もし乱れれば……"あれ"が目を覚ます」
にくゑ様の話をしている。
清音の秘密を、梓だけが聞いている。
(なんで梓なん……なんで梓にだけ……)
爪が手のひらに食い込む。
そして――
「私、清音のことが――好き」
梓の声が洞窟に響いた瞬間、あゆみの世界が真っ白になった。
告白。
梓が清音に告白している。
血の気が引く。
手足が震え、視界が揺れた。
清音は……どう答えるのだろう。
まさか、受け入れたりしないだろうか。
反響で聞き取りにくいが、清音の声が返ってくる。
「……応えたい。でも、今はできないの」
拒絶。
清音は梓を受け入れなかった。
あゆみは安堵に膝から崩れ落ちそうになった。
けれど同時に、怒りも湧き上がってきた。
――よくも清音に告白なんかして。
――身の程を知りなさいよ、梓。
「嫌いとか、そういうことじゃない。むしろ……だからこそ」
清音の優しい声が続く。
丁寧に、傷つけないように梓を諭している。
(清音は優しすぎる……あんな子に構わなくていいのに)
その後も二人の会話は続いたが、あゆみにはもう聞く気になれなかった。
重要なことはわかった。
梓は告白して、断られた。
やがて灯りが消え、二人が洞窟から出てくる気配がした。
あゆみは急いで外に出て、木陰に身を隠す。
清音と梓が現れた。
梓の表情は沈んでいる。告白に失敗した顔。
清音は……いつもより優しげに見えた。
二人は川沿いを歩いて村へ戻っていく。
あゆみは距離を置いて後をついた。
分かれ道で、二人は短く目を合わせて別れた。
清音は自分の家へ、梓は一人でとぼとぼと歩いていく。
あゆみは立ち上がった。
清音への想いで胸が満ちている。今夜、清音は梓を選ばなかった。それだけで十分。
でも、梓には一言言っておかなければ。
身の程を知らせてやらなければ。
あゆみは梓の行く手に立ちはだかった。
校舎へ続く道の角。
月明かりに照らされ、梓が足を止める。
「……梓。こんな夜更けに、どこ行っとったん?」
低い声。責めるでもなく、けれど逃がさない響き。
梓の胸がぎゅっと縮んだ。言葉を探すが、喉がからからに乾いて出てこない。
「あ、あの……」
答えを曖昧に濁すと、あゆみの視線が鋭くなった。
その瞳は、月明かりの下で氷のように冷たい。
「清音と……一緒におったんじゃろ?」
胸の奥が跳ね、呼吸が乱れる。
図星を突かれても、梓は首を横に振ることしかできなかった。
「……なんも言えんのじゃね」
あゆみは小さく吐き出すと、唇を噛みしめた。
その横顔には怒りとも哀しみともつかない影が揺れ、梓はただ立ちすくむしかなかった。
夜風が二人の間をすり抜ける。遠くで宴の名残がかすかに響いていた。
あゆみは梓の震える姿を見つめながら、胸の奥で笑っていた。
――清音はあんたなんか選ばんよ。
――清音が選ぶのは、わたしじゃけん。
きっとそうだ。
今夜がその証拠。
梓なんて所詮、よそ者。
清音の心を理解できるのは、生まれた時からずっと見つめてきた自分だけ。
二人は夜の中、ただお互いを見つめ合っていた。
清音を誰にも渡すものか。
あゆみの監視は続く。
その時、角を曲がった先に月明かりの影が二つ浮かんだ。
美穂と――健太。
「……美穂ちゃんと健太くん? こんな夜更けに、どこへ行くの」
梓の声が静けさを破る。
あゆみの瞳が、一瞬だけ興味深そうに光った。