帰郷Ⅱ
バスが走り去ってしまうと、停留所には梓だけがぽつんと残される。
エンジンの音が山の向こうに吸い込まれていくと、今度は静けさがわあっと戻ってくる。アスファルトには白い砂利がぱらぱら散らばっていて、どこからか土や草の匂いがふわりと漂ってくる。東京の空気とは全然違う。胸の奥までしみこんでくるようで、なんだか落ち着かない。のどの奥がちりちりする。
ベンチの下を見ると、古い段ボール箱が置いてある。中にはさつまいもや胡瓜がころころ入っている。まだ土がついていて、畑の匂いがする。誰が置いていったのだろうか。
「おや、新しい人じゃな」
いきなり声をかけられて、梓はびくっとした。振り返ると、腰の曲がった老婆が立っている。薄汚れた紺の作業着に、色あせた手拭いを頭に巻いている。顔は深いしわに刻まれて、小さな目が優しそうに細められている。しわだらけの手で箱から胡瓜を一本取り出して、にこにこしながら差し出してくれる。
「遠いところ、お疲れさまやったのぅ。ずっと待っとりましたけぇな」
知らない人からいきなり野菜をもらうなんて、東京では考えられない。どうしていいかわからなくて、梓は固まってしまう。
「あ、ありがとうございます」
やっとそれだけ言って、胡瓜を受け取った。冷たくて、ざらざらした土の感触が手に残る。
老婆は満足そうに頷くと、「それより」と言った。
「村長さんのところまでお連れしとくけぇな。新しく来られた方は、まずご挨拶をしてもらうことになっとるんよ」
そう言うと、さっさと歩き出してしまう。梓は胡瓜を握ったまま、ちょっと困ってしまった。荷物を置く前に、いきなり村長さんのところへ? 東京の常識とは違いすぎて戸惑ったけれど、断るわけにもいかない雰囲気である。
夕方の坂道に、老婆の小さな背中を追いかける梓の影が長く伸びていく。
◆
停留所から歩いていくと、なだらかな坂道に出た。
両側には田んぼが広がっていて、青い稲がそよそよと風に揺れている。
「おお、弓子さんのお嬢さんか」
梓の足がぴたりと止まった。心臓がどくんと大きく跳ねる。どうして母親の名前を知っているの?
田んぼのあぜ道から現れたのは、中年の男。背中に古びた猟銃袋を背負い、片手には羽根の乱れた山鳥をぶら下げている。血と羽毛の匂いが風に乗って漂い、梓は思わず息を詰める。
男はにこりと笑って、鳥を梓に差し出してきた。
「弓子さんの若い時によぉ似とる。新しい生活は大変やろうけぇな。こいつ、今朝仕留めたばっかりじゃ。持って帰って食べんさい」
山鳥の羽はまだ温かく、赤黒い染みが滴り落ちそうになっている。梓はとても手を伸ばせない。
「まあまあ庄助さん、新しい人にそげなもん渡したらいけんが」
後ろから老婆があわてて口を挟み、男の腕を制した。
「胡瓜くらいならともかく、血のついたもんじゃ娘さんも怖がらすけぇ」
猟師は「はは、そりゃそうじゃ」と頭をかき、山鳥を肩に担ぎ直すと、にこやかに去っていく。
老婆はにっこりと梓を見て、柔らかい声で言った。
「うちも弓子さんには昔よう世話になったんよ。亡くなられたそうじゃな……」
その瞬間、梓の心の中で何かがかちんと凍りつく。
母親の死について、まだ他の人に話されたくない。まだ傷が生々しすぎて、言葉にされると心をぐさりとえぐられるような気がする。息が詰まりそうになった。でも、老婆の目には悪気なんて少しもなく、相変わらずにこにこと細い目を向けている。そのことが、かえってつらい。
「弓子さんは本当に優しい方やったけぇな。あの方のお嬢さんなら、きっとこの村でもうまくやっていけるとよ」
何と返していいのかわからない。笑顔で受け答えすることも、否定することもできない。のどの奥で言葉が詰まって、ただ鼻の奥に残る血の匂いだけが、現実を強く突きつけている。