清音
――私は、生まれた時から村に縛られていた。
清音は思う。
家の名も、行く道も、幼いころから掟の中に敷かれていて、自分で選んだことなどひとつもない。笑い方も、言葉の数も、すべて決められていた。
母の記憶はない。顔も声も、空白のままだ。
その欠け目を埋めるように、村の女たちの仕草を真似てみた。けれど温もりは戻らず、胸の渇きだけが深くなっていった。
――だから梓に出会ったとき、世界が揺れた。
心の奥まで読み取れるはずのこの村で、梓だけは掟の網にかからない。母の影のような懐かしさと、少女としての憧れが、ひとりの人間に重なって見えてしまう。
決められた道から外れるのは、禁忌だとわかっている。
それでも今夜、梓を連れ出そうとしている。
村の娘ではなく、一人の清音として。
◆
――今なら大丈夫。
清音はひっそりと屋敷の広間に目をやる。
広間では笑い声が渦を巻いていた。盃のぶつかる音が三度ごとに揃い、太鼓のように畳を震わせる。板戸の向こうにいる父の声も混じっている。そこにいる限り、誰も清音を振り返らない。
襖の隙間を指で押し、敷居をまたぐ。足音を忍ばせても、胸の鼓動だけは抑えきれない。襟に触れると、布の下から熱が伝わる。逢瀬――その言葉を思うだけで喉が渇き、息が浅くなった。梓が待っている。会える。触れられる。
土間を抜けると、灯影に人影が立っていた。吉川だった。白衣は脱いでいるのに、まだ消毒薬と紙の匂いを纏っている。思わず足が止まり、胸が跳ねる。
「清音さん」
低く疲れた声。名を呼ばれただけで、体の奥が硬くなる。
「先生、こんばんは」
清音は笑顔を三度、きっちりと返した。形だけの笑顔。それ以上は心に触れさせたくない。
「こんな時間に?」
「少し……外の空気を」
本当の理由は言えない。夜の逢瀬に向かうなど、誰にも悟られてはならない。
「夜道は危ないですよ」
「大丈夫です。この村は守られていますから」
口にした言葉がわずかに強張った。守られている――その響きの奥に潜むものを、先生は知らない。
すれ違う瞬間、香の匂いがわずかに揺れた。祈りの気配。吉川の視線が背を追った気がしたが、清音は振り返らない。背筋を伸ばし、歩を早める。
門を出ると、夜気が頬を撫でた。遠くで川の音が寝息のように響いている。あの音の方へ行けば梓がいる。指を重ねる瞬間を思うだけで、胸の底が熱に浮く。
清音は夜の道を選んだ。群れの中ではなく、きっと梓は待っている。
◆
梓の家の前に立つと、胸の奥で鼓動がせり上がってきた。戸口は暗く、灯りの気配もない。夜の静けさが板戸に張りつき、指を伸ばすのをためらわせる。
――本当に出てきてくれるだろうか。
夜に娘を誘い出すなど、本来ならあってはならないこと。それでも会いたい。二人で歩きたい。ただその一心で拳を握り直す。
板戸を軽く叩いた。返事が返るまでの数秒が永遠に伸びたように思えた。
「……清音?」
戸の向こうから声がした瞬間、張りつめていた胸の糸がほどけた。息が抜け、頬に熱が差す。
「わたしよ。出てきて」
戸が静かに開き、月の光に梓の顔が浮かんだ。冷えた空気を受けて澄んだ瞳が揺れる。その姿を見ただけで、清音の胸は嬉しさで震えた。けれど同時に、不安が胸を締める。――本当に一緒に来てくれるのか。
「清音……夜に出かけるの?」
梓が小さな声で尋ねた。
「ええ。前に言ってた、秘密の場所。……怖い?」
梓は一瞬ためらって、唇を噛んだ。
「でも……こんな夜に? 人に見られたら……」
「大丈夫。今夜は男衆が村長の家に集まっているの。誰も外なんか見ていない。ひと目はないわ」
言いながら、自分でも胸がざわついた。ひと目がないということは、つまり掟を外れること。梓を夜に連れ出すのは、本来なら許されない。
それでも彼女は小さく微笑んだ。
「……清音と一緒なら、怖くない」
その言葉に、胸の底が熱く弾けた。涙が滲みそうになる。欲しかった答えが、夜気の中で差し出されたのだ。
「行こう」
清音は手を差し出した。梓の指がためらいながらも重なり、温度が伝わる。離したくない、と強く思った。
村長宅からの笑い声はすぐに遠ざかり、虫の声が濃さを取り戻す。夜露を含んだ土が足音を呑みこみ、川の音が近づいてきた。
川沿いの道は、昼間より狭く感じられる。夜の湿気は肌を撫で、首筋にまとわりついた。梓の指がそのたびに強く清音を握り返す。
「こわい?」
「……少し。でも、清音がいるから」
胸の奥がほどける。望んでいた言葉を耳にした瞬間、内側が柔らかく溶けていく。けれど同時に苦さも走る。――そう言わせたくてここへ連れてきたのだろうか。思った瞬間に自分を戒め、すぐに打ち消した。
村はずれに出ると森が深くなる。細い道をたどってゆくと、やがて水の匂いが強く漂ってきた。湿った土と苔の香り、そして奥底から立ちのぼる冷たい気配。
途中、脇へ逸れる分かれ道があったが、清音は迷わず奥へと進んだ。梓の手を引きながら、足音を立てぬよう歩く。
滴の音が洞の方から響いてきた。ひとつ、ふたつ。やがて数が増え、二人の足音に重なる。嘘の響かない場所。心の奥まで照らされるような暗さ。
洞窟の口は闇に沈んでいる。中から流れてくる冷気は、眠っている誰かの呼気のようで、頬に当たるたびに身震いが走った。梓の手がまた強く清音を求める。温度が伝わり、胸がさらに疼く。
――怖がらなくていいよ、梓。
そう思いながらも、自分の方こそ震えているのを清音は知っていた。
◆
洞の奥は湿り気が強く、滴る音が数を増していた。壁を伝う水が石に触れるたび、鈍い響きとなって胸の奥まで染みこんでくる。
やがて闇の中に、小さな祠が姿を現した。岩を削ってしつらえられた簡素なものだが、幾度も祈りを受けてきた気配が濃く残っている。
清音は灯明に火を入れた。炎が浅く揺れ、梓の頬の曲線に金の色を置く。影は背後に伸び、洞の奥をさらに深く沈ませた。
膝をつき、清音は短く祈りを置いた。声にならないほどの低い囁き。けれど確かに形を持つ言葉が、空気を震わせて石に染みていく。
「ここは、祈りを置く場所なの」
立ち上がりながら振り返る。灯明の明かりが梓の瞳に縦の線を走らせていた。
「掟は、ただの決まりごとじゃない。夜道を真ん中だけ歩くことも、笑顔を三度交わすことも、全部祈りの形。もし乱れれば……“あれ”が目を覚ます」
梓は唇を結んで、小さくうなずいた。わかったふりをして、わからないことに気づいている顔。その正直さに、清音は胸がひりついた。
「どうして……私をここに?」
梓の声が洞の闇に吸い込まれる。
清音は言葉を探した。灯明の炎がわずかに鳴る。
「梓は……特別だから」
声にした瞬間、喉が痛んだ。
「誰にも見せないところまで、連れてきたかったの」
沈黙が落ちた。滴が石に弾ける音だけが続く。梓の視線がまっすぐに重なり、清音は胸の奥を見透かされるような気がした。
◆
灯明の炎がふいに細くなり、洞窟の闇が近づいたように見えた。滴の音が一つ、二つと重なり、静けさをいっそう深めていく。
「清音」
梓の声は震えていなかった。けれど、その響きが清音の胸を震わせた。
「私、清音のことが――好き」
言葉を聞くまでもなく、意味はわかっていた。わかっていたはずなのに、耳で受け取った瞬間、体のどこかが崩れる音がした。
――応えたい。
抱きしめたい。そうすれば、どれほど楽になれるだろう。
けれど、できない。
清音はゆっくりと首を横に振った。
「……応えたい。でも、今はできないの」
梓の顔に影が落ちる。拒まれたのだと悟らせたくなくて、清音は急いで言葉を継いだ。
「嫌いとか、そういうことじゃない。むしろ……だからこそ」
灯明が小さく鳴った。清音は呼吸を整え、心の奥に隠してきたものを掬い上げる。
「梓に、話しておきたいことがあるの。この村に伝わるにくゑ様について」
「にくゑ様……言い伝えにでてくる神様なんでしょう?」
祠の影が揺れ、洞の空気がひんやりと変わった。
「にくゑ様は言い伝えじゃない。この村に本当にいて、私たちを守っている神様なの」
「虚木の家は、村長であると同時に、そのにくゑ様を祀る神官の家系」
「……そして私は、そのにくゑ様の巫女」
言い切った瞬間、胸の奥に冷たいものが走った。
梓の目が灯を受けて大きく見開かれる。驚きが波のように顔を渡り、やがて静かに沈んでいった。
「梓が不安に思うのもわかる。外から来た人には、ここはいろいろ奇妙に見えるでしょう。でも大丈夫。この村はにくゑ様に守られている。……だから、梓も早く本当にこの村の一員になってほしい」
言いながら、自分がどこまで梓をこちら側に引き寄せたいのかを、清音は思い知らされた。穏やかに語る声とは裏腹に、胸の底では渇きのようなものが音を立てていた。
梓はしばらく黙っていたが、やがて息を吐き、小さくうなずいた。
「清音が話してくれるなら、私、受け止めたい。……怖いこともあるけど、ここで聞いたこと、忘れない」
清音は目を閉じた。祠の奥の水面が、見えない輪を描いた気がした。指先を伸ばす。触れ合っただけで炎が揺れ、すぐに落ち着いた。
それ以上はしない。今は、ここまで。
◆
梓の言葉は、灯明の炎よりも静かに胸へ沈んでいった。
「清音が話してくれるなら、私、受け止めたい」
ただそれだけの響きが、どれほどの重みを持つのか。清音は目を閉じて確かめる。
――受け止めてくれる。
それは救いだった。秘密を打ち明けても、背を向けられなかった。彼女はここにいる。隣に立ってくれる。
けれど、同じ口で「好き」と告げられた言葉には応えられない。
その事実が胸を刺す。欲しかったものに手を伸ばせない。触れれば崩れてしまう。
「梓……あなたは特別よ」
灯の明かりに照らされながら、声は震えていた。
「だからこそ、今は応えられない」
梓は俯き、指先を組んだ。だが逃げるような仕草ではなかった。迷いながらも、彼女の輪郭はここに留まっている。
「……わかってる。全部じゃなくても、少しずつでも。清音が話してくれるなら、それでいい」
清音は言葉を失った。炎が細く揺れる。胸の奥で渇きと安堵がせめぎ合う。
求める心を抑え込むほど、孤独が深まる。だがその孤独を理解してもらえた気がして、微かな希望が芽吹く。
――もし、いつか。
巫女でなければ。掟に縛られていなければ。
彼女の「好き」に応えられたのだろうか。
胸の奥で揺れる想いは、答えのない問いとして残った。だが梓の存在が確かに手の中にある。それだけで今は歩ける。
清音は祠の灯を見つめ、そっと息を吐いた。
――この夜を忘れさせはしない。
◆
洞を出ると、夜気は思ったより柔らかかった。月は傾き、川面に細い光の道を敷いている。梓は黙って歩き、時折その指先が清音の手の甲に触れた。触れるたび、胸に細い電流が走る。
「清音」
「なに?」
「……ありがとう」
それだけの言葉に、頬が熱くなる。応えられなかった「好き」を胸に沈めたまま、感謝だけを受け取る。歩幅を揃え、川沿いを抜けて村へ戻っていく。
分かれ道の手前で、梓がふいに足を止めた。脇の細い道へ、視線が吸い寄せられている。
そこには崩れかけた石組みがあった。錆びた金属の蓋が夜露を鈍く弾き、「危険・立入禁止」と書かれた札が風もないのに微かに揺れていた。その向こう、月光に浮かぶ廃屋の影がぼんやりと見える。
「……古い井戸?」
梓が近づこうとする。
「だめ」
清音は思わず腕を取った。声が強く響き、梓が驚いたように目を瞬く。
「ただの古い井戸よ。もう使ってない」
言葉を短く切り、手を放さない。
近づけば、夏の夜だというのに薄い冷気が漂ってくる。肌に触れるたび、背筋に細い刃が走る。
――あれを見せれば、梓は……私を嫌いになるかも知れない。
梓は唇を結び、やがてうなずいた。清音は安堵とともに、胸の奥に恐れを押し隠す。
二人は元の道へ戻る。虫の声が濃さを取り戻し、家々の屋根を月が白く縫う。遠くで宴の名残がまだ笑っていた。
清音は、さっき応えられなかった言葉を喉の奥に沈め直す。代わりに歩みの数を数え、呼吸を整える。一歩ごとに、胸のざわめきは静まっていく。
梓の手は温かかった。今夜は、それを確かめられただけでいい。
――次に何を渡すべきかは、よく考えなければならない。
分かれ道で短く目を合わせ、二人はそれぞれの暗がりへ消えていった。月は高く、夜はまだ深い。