蘇生
吉川は必死に脈を探った。
「……まだ速い。異常に速い……このままでは」
診療所なら点滴も酸素もある。だがここには何もない。ただ酒と肉と、笑顔だけ。
そのとき、俊夫の身体がぴくりと震えた。次いで大きく息を吸い込み、上体を起こした。顔は汗で濡れ、白目には血が滲んでいる。それでも口元は笑っていた。
「はあ……はははっ! いやあ、すまんすまん。ちょっと飲みすぎただけです。……体が軽い! さっきまでの疲れが全部抜けちまったみたいだ!」
血走った目で笑いながら、盃を掲げる。周囲の男たちも一斉に笑い声をあげた。
「よう戻られた!」
「にくゑ様のおかげじゃ!」
盃がぶつかり合い、赤黒い酒が飛沫を散らした。
吉川はその言葉を聞き逃さなかった。
――にくゑ。
この村を守ってくれている神様の名前だ、ということは、ここに来た時に説明を受けている。
古くからの友人である彼が聞けば、笑い話にして記事のネタにでもするだろう。だが、目の前で常識を裏切る光景を見せられている以上、皮肉は空虚に響くだけだった。
吉川は立ち上がり、俊夫を見下ろした。呼吸は安定し、顔色すら紅潮している。医学では説明がつかない。症状は消え、むしろ活力に満ちていた。
虚木清一が盃を掲げ、柔らかな声で言った。
「先生もご覧になったじゃろう。大人に医者は要らんのです。わしらは〈にくゑ〉様に守られとるんじゃ」
その言葉と同時に、広間の視線が一斉にこちらを向いた。画一的な表情。照明に照らされた白い歯列が、ぞっとするほど同じ角度に並んでいる。
吉川は無意識に一歩、後ずさった。
掌の中で盃が汗ばみ、赤黒い液がゆらりと揺れた。
熱気の渦の中で、吉川は卓から身を引いた。盃を置き、懐から手帳を取り出す。指先が震えて鉛筆をうまく握れない。それでも白紙を前にし、文字を刻むしかなかった。
――佐藤俊夫、赤黒い液摂取。代謝急激に亢進。失神。呼吸不全。のち意識回復。症状消失。
――医学的根拠なし。原因不明。
額の汗を拭って顔を上げると、広間いっぱいに笑顔が並んでいた。盃を掲げ、肩を叩き合い、同じ調子で囃し立てる笑顔。だが吉川には、その均一さが冷たい仮面にしか見えなかった。
「先生、安心なされ」
清一がこちらに盃を掲げて言った。
「子どもは先生に任せる。大人は〈にくゑ〉様が守ってくれる。これがわしらのやり方じゃ」
言葉は柔らかい。だが、吉川の胸に沈んだのは、明確な線引きだった。
――自分はこの村で、子どもだけを診る医者に過ぎない。大人に関わる余地は与えられない……ということか?
村人の笑い声が耳を塞ぎ、外界を遮断するように響いた。ひとつの旋律のように揃った笑い。自分だけが異邦人のように取り残されている。
宴が終わるころには、広間の熱気は煙のように漂い、赤黒い酒の匂いが畳に染みついていた。村人たちは肩を組み、笑いながら片付けを始めている。吉川も盃を置き、深く息を吐いた。頭の奥が重く、耳にはまだ笑声が残響していた。
外へ出ると、夜気が冷たく頬を撫でた。広間の異常な熱気から解放され、ようやく正常な体温を取り戻したような感覚だった。山影の向こうから月が姿を現し、白い光が村の屋根を縁取っている。しんとした闇に、虫の声が細く溶け込んでいた。
背後で草履の音がして振り返ると、俊夫がいた。宴で汗を流しきったはずなのに、足取りは軽く、背筋も伸びている。
「先生!」
満面の笑みで声をかけ、赤らんだ顔で手を振った。
「今日はありがとうございました! あんなに食べて飲んだのに、まだ元気でたまらないんですよ!」
その目が月明かりを受けた瞬間、瞳孔の奥で何かが赤く燃えた。血の色を含んだ光が、刹那、瞳の奥で蠢いたように見えた。
吉川の心臓が強く跳ねた。足が止まり、呼吸が浅くなる。
だが次に見たとき、俊夫はただの笑顔で立っていた。赤らんだ顔に健康そのものの光を宿し、何事もなかったように笑っている。
「それじゃ、またお会いしましょう!」
「今度診療所に来てください。念のため検査しておいたほうが――」
「いえいえ、ご心配無用です。身体が頑丈なのが取り柄なんで」
「しかし」
「ああ、そうだ、うちの子をよろしくお願いします。陽一っていうんですが、少し身体が弱いので」
「それはもちろん、頼ってください」
「ああ、お医者さんがいる村で良かったです。それじゃ!」
軽く頭を下げ、俊夫は軽やかに去っていった。残された吉川は、月光の下でしばらく動けなかった。
胸の奥でざわめくものを抑え込むように、懐から手帳を取り出す。震える手で最後の行を書き加えた。
――成人の異常回復、〈にくゑ〉信仰との関連、要観察。
鉛筆の黒が紙を擦り、夜の静けさに溶け込んでいった。
遠くでまだ笑い声が響いている。画一的な表情が広間に残っているような錯覚が耳を塞ぎ、冷たい風が襟元を抜けていった。
◆◆◆
あとがき。
断片でかなり早く出てきた移住者、やっとここで物語に組み込めました。
佐藤さんご一家も早く村に馴染んでくれるといいですね!
視点は変則的で、前半沙織さん、後半吉川医師です。
次章は「清音」
初めて清音視点で物語が進みます。謎めいた彼女の内側を少しだけ覗いてあげてください。
そしてこの物語の最初のクライマックスが待っています。
どうかお楽しみに。