宴
夜道はひどく静かで、足音ばかりが土を叩いた。遠くに明かりが集まり、村の一角で笑い声が渦を巻いている。近づくにつれて、酒と肉の匂いが夜風に乗って漂ってきた。
村長宅は他の家よりも大きく、低い石垣の上に堂々と構えていた。格子窓の隙間から橙の灯明が漏れ、板戸越しに男たちの笑声が絶え間なく響く。煙が屋根の影から細く立ちのぼり、鼻を刺す脂の匂いと混じりあっていた。
戸口に手をかけたとき、一瞬だけ逡巡が走る。だが、招かれた以上は顔を出さねばならない。
その時、板戸が内側から静かに開いた。
現れたのは清音だった。いつものセーラー服姿、足音もなく敷居をまたぐ。月明かりに照らされた横顔は、大理石のように美しく、同時に冷たい。
「先生、こんばんわ」
彼女は軽く会釈し笑顔を浮かべる。きっちりと三回。応じて吉川も三回の笑みで応じる。
「清音さんは宴には出ないんですか?」
「ええ、今晩は男衆だけの宴だそうです。ですので私は少し出てきます」
「夜道は危ないですよ、止めた方が」
「いいえ、この村はにくゑ様に守られてますから、大丈夫」
その言葉に、微かな確信が込められているのを吉川は感じた。すれ違う瞬間、香の匂いが漂う。祈りの匂い。清音の後ろ姿が闇に消えるのを見送りながら、吉川は息を整えて板戸を押し開いた。
熱気が波のように押し寄せた。広間いっぱいに筵が敷かれ、長い卓には猪肉の大皿、炙った鶏肉、塩をきかせた川魚の串、里芋と鶏を煮込んだ鍋が所狭しと並んでいる。脂と酒の匂いが混じり、頭がぼうっとするほど濃い。
「おお、先生が来てくださった!」
誰かが声をあげ、次いで「待っとりました」「ようこそ!」と口々に叫んだ。盃が掲げられ、笑顔が一斉にこちらへ向けられる。
卓の中央に座っていた大柄な男が立ち上がった。初めて見る顔だ。随分と体格がいい。何か武道でもやっていたのだろうか? 彼は顔を赤くし、汗に濡れた額を拭いながら深く頭を下げる。
「初めまして。佐藤俊夫と申します。今日から村でお世話になります。……先生には家族もろとも頼ることになるでしょう。どうか、妻の沙織と陽一のこと、よろしくお願いします」
思いのほか朴訥な声音に、広間のざわめきが一瞬だけ和らぐ。
「こちらこそ。村医の吉川直樹です。何かありましたら、いつでも気軽に診療所に来てください」
吉川は静かに答えた。唯一の医師として背負うものが、言葉の重みとなって胸に沈む。
次の瞬間、俊夫は大きく笑い、卓に戻った。肉を豪快に頬張り、盃をあおる。
「いやあ、うまい! こんなに食が進むのは久しぶりだ。都会の疲れなんか一晩で吹っ飛ぶ!」
豪放な声に、周囲の男たちがどっと笑い声を返す。
吉川も盃を受け取った。液面は赤黒く濁り、灯明に透かすと血の筋のような影が走った。唇を湿らせただけで、甘ったるい蜜の匂いと鉄の気配が鼻を刺し、喉を通す気にはならなかった。
卓の端で、清一が猪鍋の蓋を取った。湯気が立ちのぼり、肉と芋の濃厚な匂いが一気に広間に広がる。
「これはわしが煮たんじゃ。大したもんじゃないが、よう味は出とる」
「村長さんが料理を?」
俊夫が驚きの声をあげる。
「おう、嫁を早うに亡くしてしもうての。下手でも自分でやらにゃならんのじゃ」
清一はさらりと言い、柄杓で汁をすくって俊夫の椀に注いだ。村人たちは「ようやるのお」と笑い、俊夫も感心したようにうなずく。
吉川もまた、一瞬その仕草に目を奪われた。村長という肩書きに似つかわしくない素朴な手際。しかし、俊夫を注視しながら汁を注ぐその眼差しは、まるで実験動物を観察する研究者のようだった。場を和ませる演技の下に隠された、計算の冷たさ。
それは気のせいなのだろうか? 健太のことや過去のカルテのことで神経が過敏になっているのかも知れない。
笑い声が再び高まり、肉と酒の匂いが渦を巻いて広間を満たした。吉川の耳には、声が妙に揃いすぎて響いていた。
宴はさらに熱を帯びていた。盃の音が打ち鳴らされ、笑い声が梁にぶつかっては反響する。肉の皿は次々と空になり、代わりに猪鍋の湯気が湧き立ち、脂が汁の表面に渦を描いていた。広間の熱気は人の体温を遥かに超え、まるで巨大な胃袋の中にいるような息苦しさを吉川に感じさせた。
俊夫はその渦をまるで飲み込むかのように、次々と盃をあおり、箸を休めることなく肉を口に運んでいた。頬は赤く、目は潤み、声はますます大きい。
「いやあ、最高だ! こっちに来て正解だった! 先生、こんなにうまいもんを食べられる村なんて、そうそうないですよ!」
大げさな身振りに男たちは手を叩いて笑い、囃したてる。
「よう食べんさる!」
「ええことじゃ、ええことじゃ!」
笑顔が幾重にも重なり、広間の熱気はさらに増した。
その瞬間だった。俊夫の手から箸が滑り落ち、盃が卓の上を転がった。大きな音を立て、汁が畳に飛び散る。
「佐藤さん?」
吉川が声をかけるより早く、俊夫は卓に突っ伏した。肩が大きく上下し、呼吸が荒く乱れている。額から大粒の汗が吹き出し、首筋の血管が浮き上がっていた。
吉川は瞬時に医師としての本能が働いた。立ち上がり、俊夫の傍らに膝をついて手首に指を当てる。
脈拍は毎分百四十を超え、心房細動の兆候が見える。瞳孔を確認すると散大し、光反射は消失。呼吸は浅く、一分間に三十回を超えていた。
「……頻脈、呼吸促迫。意識レベル低下。急性中毒の可能性――」
職業的な診断が、無意識に口をついて出る。
瞳を確かめると、光に反応せず、血走った白目が露わになる。胸郭の動きは浅く早く、呼吸音には異常な笛が混じった。
「危険だ。このままでは——」
言いかけた吉川の耳に、背後から柔らかな声が重なった。
「すぐ元気になるけぇ」
「大丈夫じゃ、大丈夫じゃ」
笑い声とともに返ってきたのは、村人たちの合唱のような声だった。吉川が見回すと、誰も慌てる様子がなく、誰も席を立とうとしない。全員が笑顔のまま、卓を囲んでいる。
その画一的な表情に、吉川の背筋が冷たくなった。
――異常なのは、俊夫か。それとも、この村人たちか。
広間に奇妙な静寂が落ちた。俊夫は卓に突っ伏したまま、肩を上下させて荒い息を吐いている。汗が畳に滴り、赤黒い酒が混じって小さな池を作った。