誘い
半分だけ開いた窓から、正午の光が斜めに差し込んで、カルテの束の角を白く照らしている。紙と消毒薬の匂いに、遠くから運ばれてきた青草の香りが薄く混じった。
「ん……午前の診察はこれでおしまいかな」
吉川は大きく伸びをして、肩を回す。
午前の診察を終えたばかりの指先はわずかに痺れていて、万年筆を置いた瞬間、肩の力が抜けた。
机の端に置いたコップの水は、表面張力の盛り上がりを崩さぬまま小さく揺れている。昨夜の会話が、まだ脳裏のどこかで響いていた。虚木清一の、あの穏やかな笑みの下に沈殿していた冷たさ——。
「失礼します」
柔らかな声が戸口からした。
千鶴が、布巾で包んだ小さな籠を両手に抱えて立っていた。頬にかかる髪を耳にかけ、控えめに会釈する。
「お疲れさまです、先生。お昼、まだでしたら、少しですが」
「ありがとうございます。助かります」
籠の布を外すと、握り飯が二つと、薄く甘い卵焼き、それから胡瓜の浅漬けが香った。千鶴は手際よく湯を沸かし、湯呑みに茶を注いだ。湯の表面に浮いた薄い蒸気が、窓明かりの中で幽かにほどける。
「そういえば、移住してきた人たちがいるそうですよ」
湯呑みを差し出しながら、千鶴が言った。
「村で噂になってます。いい人達だといいですね」
「ええ。そうだといい」
移住者支援プログラムを使ったのだろうか。
少し変わったところのあるこの村に馴染めるといいのだが。
短い言葉を交わすあいだ、昼下がりの静けさはひどく穏やかで、箸が器に触れる音が、やけに大きく響いた。千鶴は診療机の端をさりげなく整え、散らかった紙の角を合わせると、安心させるような微笑みを残して立ち上がった。
「午後は往診の前に、お休みを少し。無理をなさらないでくださいね」
「気をつけます」
弟を気遣う姉のような言葉に、吉川は少しだけ不満を感じる。
「では」
千鶴が戸が閉める。ふたたび静寂が降りた。
握り飯を半分ほど口に運んだとき、軽いノックが二度、つづけて鳴った。返事をする間もなく戸がわずかに開き、影が差し込む。
「先生」
顔を上げると、村長の清一がいた。昨日と同じ笑み。けれど、その笑みはどこか沈んだ色を帯びている。
彼はゆっくりと室内へ入り、戸を静かに閉めた。足音が床板に吸い込まれていく。
「この前はは、わしが言葉を荒うしてしもうてな」
清一は低く、柔らかい調子で言った。
「村に伝わる古い伝統を悪う言われたように思うて、ついカッとなったんじゃ。すまんかった」
意外な第一声に、箸を置く手が止まる。謝罪。——そう受け取ってよいのだろうか。
清一は懐から小瓶を取り出した。指先ほどのガラス瓶。粘りのある赤黒い液体が、光を吸い込みながらゆっくりと揺れる。
「これがそうじゃ。先生が気にしとられるようなことは、何もないんじゃ。こうして持ってきたけぇ、もし心配なら調べてみんさい」
――矢野さんから預かった瓶と同じ物だ。
これには中身も入っている。
瓶口のコルクが、指の腹にしっとりと馴染む。鼻先に近づけるまでもなく、甘い鉄の匂いが立った。誠意か、挑発か。その境目は、思ったよりも薄い。
机上の光が瓶を通り抜け、赤い筋が白紙の上をかすめた。
「前におった先生のことも、わしなりに当たってみたがの」
清一は視線を落とし、穏やかに言葉を継ぐ。
「何分、もう随分前の話でのぅ。先代の時分のことじゃけぇ、よう分からん。ただ……単調な村の暮らしに、耐えられんかったのかもしれんのぅ」
――それは、あり得る。
山の影は長く、季節はゆっくりと回る。都市の時間に馴染んだ心には、均一な日々が刃のように触れてくることがある。閉ざされた環境が気力を削ぐのは、別段、怪談でも何でもない。
その考えが胸をかすめた瞬間、張りつめていた心の膜に、ごく小さな隙間が生まれる。そこへ冷たい風が、遠慮なく吹き込んでくる。
「今晩はの」
清一は顔を上げ、いつもの笑みを整えた。
「移住してきた佐藤さんの、歓迎の宴があるんじゃ。ぜひ先生にも顔を出してもろうて……この村には、先生が必要じゃけぇ」
必要、という音が耳のすぐそばで柔らかく弾けた。
その言葉は、医師という職業にまとわりつく疲労の上に、薄い絆創膏のように貼りついてくる。子どもたちの咳、転んだ膝、夜中の呼び出し——守るべきものには終わりがない。だからこそ、必要とされることは、毒にもなる。
「……わかりました。顔を出します」
自分の声が、思っていたよりも静かに響いた。
清一は小さく頷く。
「よう言うてくださった。ほいじゃ、今晩――広間で待っとるけぇ」
踵を返し、清一は戸口へ向かった。開け放たれた隙間から、午後の白い光が細長く床を渡る。
音が消えた。
手の中の小瓶が、じわりと指先の体温を奪っていく。机に置くと、ガラスの底が乾いた音を立てた。
鼻先に残る甘い匂いが、昼の静けさの中でかえって濃くなる。耳のどこかで、湯沸かしの残り湯が細く鳴っていた。
千鶴の置いていってくれた握り飯は、もう冷たくなっていた。
ひと口噛む。米の甘みは確かに口に広がるのに、喉を通る手前で何かに触れ、速度を失う。昨夜の会話の残滓と、今しがたの言葉の余韻が、胃の上に薄く重なって、重さだけを増していく。
――必要だと言われた。
それは職業に携える者にとって、最も優しい言葉のひとつで、そして時に最も残酷な言葉でもある。
窓の外では、風が畑を順に撫で、麦の穂先が同じ角度で揃って頭を垂れた。
机上の白紙には、赤黒い筋がまだ細く横たわっている。今夜、その色がどんな席で、どんな風に盃を満たすのか。想像は、無意識のうちに具体を帯びていった。
湯呑みの茶はぬるくなり、縁に薄い輪を残している。
吉川は小瓶を手に取り、蓋を開ける。
「秘伝の薬……か」
手に取ったの小瓶を灯りにかざす。赤黒く濁った液は鉄臭さを帯びながらも、どこか薬草酒に似た匂いを含んでいた。
試薬を落とせば、山人参や当帰に見られるような滋養成分が反応する。
顕微鏡を覗けば、植物片らしい細胞壁も混じっている。確かに薬草を煎じた痕跡だ。
気になるのは――蛋白質とよく似た反応が、ごく微量ながら出ること。
だが腐敗は見られないし、この程度なら薬草由来の混ざり物と考えるのが妥当だろう。
このあたりで採れる薬草については、赴任して以来、文献や村人の話を繰り返し調べてきた。
山人参は体力を回復させ、地黄は貧血や冷えに効く。
当帰は血の巡りをよくし、川芎は頭痛や肩こりに用いられる。
芍薬は鎮痛・鎮痙に使われ、桂皮は体を温め、甘草は諸薬を調和させる。
これらを合わせれば、確かに「滋養強壮薬」として筋が通る。
見た目は異様だが、中身は古来の薬草を組み合わせた民間薬と考えて差し支えない。
……とはいえ、念のため都の研究所に送ってみるか。
とりあえず、今日の夕食は必要がないと、千鶴さんに伝えなくては、と吉川は席を立った。