警告
翌朝、玄関を開けると立派な山菜が束になって置かれていた。
まだ朝露に濡れたワラビにゼンマイ、鮮やかな緑のミツバまで。どれも手摘みの新鮮なもので、野の香りがそのまま残っている。
「今度は山菜だ!」
「わあ、緑いっぱい!」
俊夫が驚きの声と陽一の声が重なる。
沙織は嬉しさを感じつつ、ふと眉をひそめた。
昨夜は確実に鍵をかけて寝たのに。山菜は玄関の内側、下駄箱の上に丁寧に置かれている。
東京では当然だった施錠の習慣。でも、この村ではどうなのだろう。
気になって近所を回り、お礼を言って歩いた。
けれど誰もが口を揃えて首を振る。
「山菜? うちじゃないよ」
「ようできたもんじゃなあ。でも置いたんはわしじゃないで」
「気にせんと食べんさい。きっと誰かの厚意じゃろう」
皆、同じような笑顔を何故か三度ずつ浮かべて言う。その笑顔が、あまりに揃いすぎているように感じられた。
その帰り道で、声をかけられた。
「佐藤沙織さん、ですよね」
――振り向くと、細身の少女が立っていた。
色白で、華奢な肩。地味なワンピースに身を包み、髪をひとつに結んでいる。
けれど顔立ちは驚くほど整っていた。頬骨の線も、瞳の形も、均整のとれた美しさを備えている。
少女も丁寧に、三度微笑みかけてきた。まるで決められた作法のように。
沙織は戸惑いながら一度だけ微笑み返した。
少女の表情が一瞬曇る。眉がかすかに寄り、唇の端がわずかに下がった。まるで何か大切なことを忘れられたかのような、寂しげな影が瞳をよぎる。
「はじめまして、矢野梓です。村の学校に通っています」
大人びた口調だった。高校生と聞いていたが、言葉の落ち着きは大人に近い。
「もうこの村には慣れましたか?」
「ええ、皆さん親切で……助けられています」
「良かったです。私も最近引っ越してきたので……」
そういうと梓は小さく笑みを三回浮かべた。
そうか、この子も転入者なんだ。道理で方言がない、と沙織は親近感を覚え笑みを帰す。
梓はしばらく黙り、視線を落としたあと、小さな声で言った。
「……掟のこと、もう聞かれましたか?」
「掟?」
沙織は思わず問い返す。聞いたことのない言葉だった。
梓の瞳が一瞬真剣に揺れた。何かを言いかけて、でもすぐに視線を逸らし、小さく首を振る。
まるで口に出してはいけないことを、うっかり漏らしてしまったかのように。
「あ、いえ……それなら大丈夫です」
そう言ったあと、梓はさらに声を落として続けた。
「この村は、少し変わったところがあるので……私の気のせいかもしれませんけど。気をつけた方が……いいかも知れません」
沙織は返す言葉を失った。あまりに突然で、しかも真剣な警告。梓の表情には嘘がなかった。
「失礼します」
梓はそれだけ告げ、足早に去っていく。
残された沙織の胸には、言葉にできないざらつきが小さな棘のように残った。親切だったはずの村人たちの笑顔が、なぜか一斉に脳裏によみがえる。あまりにも揃いすぎた、同じような表情で。
その夜、布団に入った陽一が寝言を呟いているのが耳に入った。
「陽一?」
「うーん……おじちゃんたち、お腹すいてる……みんなでご飯食べる……」
この村に知り合いなどいないはずなのに。
翌朝、台所の流しには手作りの味噌が入った小さな甕が置かれていた。
まだ温かく、発酵の香りが立ちのぼっている。
「今度は味噌?」
俊夫が首をかしげる。沙織がかき混ぜて舌に乗せると、まろやかで深い味わいが広がった。
「頂いた野菜につけて食べてみましょうか?」
「手作りみたいだな」
みずみずしい胡瓜に、味噌をつけてかじる。
「おいしい!」
笑みを浮かべた陽一が手を叩いた。
またも鍵をかけていたのに、台所に置かれている。
でも今回、沙織は村人に聞いて回らなかった。どうせ同じ答えが返ってくるとわかっていたから。
窓の外から、甘く重い匂いが漂ってきた。草いきれとも違う、どこか生臭い香り。夜風に乗って、湿った土の匂いと混じり合っている。山の奥から流れてくるような、野生の匂い。
「田舎の匂いだよ」
俊夫は笑ったが、沙織の胸には不安がじわりと広がっていった。
夜の闇が山を包み、新しい家の窓にだけぽつんと灯りがともっていた。
外は静寂に包まれている。都会の雑踏やエンジン音は一切聞こえず、ただ虫の音と川のせせらぎ、時折山の奥から響く獣の遠吼えだけが夜を支配していた。
星空は東京では見たことがないほど明るく、天の川がはっきりと見える。だが、その美しさの陰で、山の闇は深く、底知れない何かを秘めているように思えた。
荷物はまだ片づいていない。段ボールが積み上がる居間に布団を敷き、三人で横になった。
陽一は疲れたのか、横になるとすぐに眠りについた。
小さな寝息が規則正しく響いている。
隣で俊夫が寝返りを打ち、沙織の腰に腕を回した。ごつごつした掌が布団越しに触れ、熱が伝わってくる。振り向くと、どこか少年のように照れた笑みを浮かべていた。東京で擦り切れていた顔ではなく、若いころの面影を宿した表情だった。
布団の中で身体を寄せる。互いの指が絡み、すぐに汗ばむ。ぎこちない触れ方から、やがて力強く抱き合う。長い間すれ違ってきた夫婦の、失われていた時間を取り戻すように。
唇が重なり、息が荒くなる。俊夫の胸板はかつてより厚く、体温は火照った鉄のように熱い。押しつけられたとき、思わず沙織の喉から声が漏れた。
――やっとここまで来られた。
東京では押し潰されそうだった日々。終わりの見えない苦しみの中で、何度心が折れそうになったことか。それを思えば、今こうして家族で横になれることが奇跡のように思える。
ここでなら、この子は元気に育ち、夫も笑顔を取り戻せる。きっとやり直せる。そう信じたかった。
だが、ふと梓の言葉がよぎる。
「掟のこと、もう聞かれましたか?」
「この村は、ちょっとおかしいんです。気をつけた方がいいかもしれません」
あの一瞬の沈黙が、胸の奥で薄い膜のように広がっていく。少女の真剣な瞳。そして、村人たちのあまりにも揃った笑顔。
外から、甘い匂いが流れ込んできた。草いきれのようでいて、どこか重く、生臭い。
田舎の匂いだよと俊夫はいってた。そんなものなのだろうか? 俊夫自体田舎の出ではないはずだが。
愛を交わし合った疲れか、俊夫はすぐに眠りについた。
本当は昔のように終わった後も言葉を交わし、体温を確かめ合いたかったが陽一が隣で寝ていることを考えるとそれも躊躇われる。
二人の寝顔を見ながら、沙織は小さく頭を振った。
「うん、大丈夫。ここでなら、やり直せる」
そうつぶやき、二人の寝顔に微笑みかける。
胸の奥に小さな棘のような違和感を抱えたまま、沙織は目を閉じた。
新しい生活の最初の夜は、静かに更けていった。