到着
軽トラックは山道をひた走っていた。舗装もされていない砂利道で、車体はごとごとと揺れ、荷台の段ボール箱がきしみを上げる。
この道一本だけが、村と外の世界を結んでいた。片側は切り立った崖、もう片側は深い谷底へと落ち込んでいる。軽トラックがやっと通れる幅しかなく、対向車が来れば退避場所を探さなければならない。
途中には古い吊り橋が一つ架かっているだけで、小さなバスでもすれ違うことは不可能だった。
両脇には杉や檜が鬱蒼と迫り、幹の太さは大人が三人で抱えても足りないほどだった。枝葉が天を覆い、木漏れ日がちらちらと路面を踊る。
沙織は窓を少し開ける。と、湿った土と青葉の匂いが流れ込んできた。苔むした岩肌、シダの群生、遠くで鳴く鳥の声。東京の排気ガスとはまるで別の空気。澄んだ冷たさが、肺の奥にまで染み渡り、都会での暮らしに疲れた心が生き返るようだった。
「本当に山奥だなあ」
俊夫がむしろ楽しそうに笑った。がっしりした腕が軽トラをしっかりと操る。若いころ柔道で鍛えた体を今も誇りにしている夫の声は、力強く頼もしく聞こえた。
後部座席から陽一が身を乗り出し、窓の外を指さす。
「わあ、川だ! 山だ! やっぱり凄いね、お母さん!」
小柄で色白の頬が久しぶりに赤みを帯びているのを見て、沙織の胸が熱くなった。いつも青白く、咳き込んでばかりいたこの子の頬に、こんなにも生き生きとした色が戻っている。
「ええ、本当に凄いわ」
笑い返しながら、彼女はそっと息をつく。東京で喘息に苦しんでいたこの子が、ここでなら伸び伸びと暮らせるかもしれない。その思いが、胸の奥で小さな炎となって燃え上がった。
軽トラックの振動に身を揺られながら、沙織はふと東京での暮らしを思い出していた。
狭いアパートの四畳半。窓の外に広がるのは、灰色のビルの壁と排気ガスの溜まった空気。洗濯物にはすぐに煤の匂いが染みつき、換気をしても淀んだ熱気しか入ってこなかった。
息を吸うたびに胸がざらつき、咳を繰り返す息子の背を、夜通しさすったことも数え切れない。
俊夫はもともと、逞しくて明るい人だった。結婚したばかりのころは、よく冗談を言って沙織を笑わせてくれた。
だが、不動産会社の営業に追われる日々が、その笑顔を少しずつ奪っていった。
数字のノルマを課され、客に頭を下げ、上司に怒鳴られ、終電まで会社に縛りつけられる。深夜に帰宅するころには酔いと疲れで足取りも乱れ、目の下には濃い隈が浮かんでいた。
「俺だって必死なんだ」
吐き捨てるように言ったその声を思い返すたびに、沙織の胸は締めつけられる。
陽一もまた、都会の学校では居場所を失っていた。
体が弱いせいで運動ができず、教室で浮きがちだった。からかわれ、運動会では笑いものにされ、ついには殴られて帰ってきたこともある。
沙織は学校に相談した。けれど返ってきたのは「陽一くんにも努力が必要です」という冷たい言葉だった。被害者であるはずの息子に責任を押しつけ、加害者の肩を持つような態度。
その日を境に、陽一は登校を拒むようになった。
病院と家を往復するだけの日々。「僕が悪い子だからだよ」と呟いた小さな声が、今も耳に残っている。
このままでは家族が壊れてしまう。
そのとき、役所で目にしたのが「就農援助プログラム」のパンフレットだった。
田畑の緑が波のように広がり、子どもたちが裸足で走り回る写真。まるで夢のように見えた。
沙織は一度、陽一を伴い村を下見に訪れたことがある。
その時に見た学校は小さな建物で、先生が子ども一人ひとりに目を向けていた。教室の子どもたちも親たちも、皆が笑顔で迎えてくれた。
その光景を見たとき、胸の奥に希望の火がともった。
ここなら、陽一は守られる。俊夫も笑顔を取り戻せる。
灰色の街に閉ざされていた自分たちに、ようやく差した一条の光だった。
やがて道が緩やかに下り、木々の切れ目から視界がぱっと開けた。
谷間に寄り添うように、ひとつの集落が広がっている。
瓦屋根や茅葺きの古い家々が川沿いに点在し、煙突からは薄く煙が立ち上っていた。段々畑の緑が夏の陽光を受けて輝き、稲穂がそよ風に波打っている。
川は清流で、水面に空の青が映り込み、時折魚影がきらめいて見えた。石橋が架かり、その向こうには古い水車小屋も見える。
あちこちから白い洗濯物が風に揺れ、庭先には色とりどりの花が咲いていた。数十戸ほどの小さな村だが、手入れの行き届いた畑と庭が整然と続き、人の暮らしの温もりと、長い年月をかけて築かれた土地との調和に満ちていた。
「……素敵ね」
沙織は思わず声を漏らした。東京では見たことのない景色だった。灰色のビルの狭間で押しつぶされていた毎日とは正反対の、広く澄んだ光景。山々に囲まれた盆地に、まるで時が止まったかのような静寂と美しさ。遠くには雲がかかった峰々が連なり、近くの斜面には野草が風に揺れている。
ここから、新しい生活が始まる。
村の入り口にさしかかると、軽トラの音に気づいたのか、道端に大勢の人々が並んでいた。老人も中年も、揃ってこちらに顔を向けている。
「よう来なさったなあ!」
「よくおいでくださいました」
声が次々に飛び、笑顔が一斉に広がる。
「すごい歓迎じゃないか! こりゃあ気合いが入るな!」
俊夫が驚きつつも声を弾ませた。
「こ、こんにちは……」
陽一もはにかみながら小さな声で返事を返す。
見知らぬ土地、見知らぬ人々。それでも――いや、だからこそ、こんなにも歓迎してもらえることが嬉しかった。東京では誰も自分たちを気にかけてくれなかった。隣人の顔すら知らないアパートで、家族三人だけが寄り添って生きてきた。
この村でなら、私たちはきっと上手くやっていける。沙織ははしゃぐ陽一と俊夫を見ながら、久しぶりに心の底から笑みを浮かべていた。
新しい家の前に軽トラックを着けると、すでに何人もの村人が待っていた。
「おいでなったなあ、よう来んさった」
「さあさあ、荷物はわしらが手伝うけぇ」
声が重なり、次々と腕が伸びてくる。
段ボールや家具を軽々と抱えていく逞しい背中。老婆までが小物を抱えて笑顔を見せる。
「こんなに……ありがとうございます!」
沙織が頭を下げると、口々に「ええんよ、仲間じゃけぇ」「これから一緒にやっていくんじゃ」と返ってきた。
荷下ろしがひと段落すると、年配の男が声をかけてきた。
「今日は引っ越しでたいぎかったろう。村長さんが食事を用意してくださっとるけぇ、皆で行きんさい」
「そんな……ご迷惑じゃないですか」
沙織が戸惑うと、
「何を言いんさる。新しい仲間を迎えるんは村の喜びじゃけぇな」
柔らかな方言に包まれ、胸の奥に温かさが広がるのを感じていた。
村長の屋敷に案内され、広い座敷に通されると、正面に村長本人が座っていた。
虚木清一は、前に見学で訪れたときと同じ作業着姿だった。色あせた上着に土のついたズボン。肩書きに飾られた人ではなく、畑に立つひとりの人間。その姿に、沙織は改めて好感を覚える。
「よう来なさった。これからは仲間じゃ。ここでよう暮らしてくだされ」
日に焼けた顔に穏やかな笑みを浮かべる村長の声は、落ち着きと力強さをあわせ持っていた。
この人がいるなら、大丈夫かもしれない。
沙織は胸の奥でそう思った。
広間にはすでに料理が所狭しと並んでいた。
籠盛りの山菜、味噌で和えたゼンマイやワラビ。香ばしく焼かれたヤマメが大皿に積まれ、皮はぱりりと光り、腹の白身がほろりとこぼれていた。
大鍋からは湯気を立てる芋煮汁の匂い。小鉢には胡麻和えや漬物。土の匂いを含んだ野菜の甘さが、そのまま味になっている。
「さあ、よう食べんさい。今日は特別に、手間ぇかけとるんじゃ」
「これは川で獲れたばっかりのヤマメじゃけぇ、骨ごといけるで」
「うちの畑の芋でこしらえた煮物じゃ。やわらこう煮えてるじゃろう」
村人たちが次々と勧めてくる。
「すごいな……ありがとうございます!」
俊夫が箸を伸ばし、豪快に白身を頬張って「うまい!」と声を上げる。
「ほんによう食べなさる。ええこっちゃ」
笑い声が座敷に広がる。
陽一も最初は緊張して母の袖をつかんでいたが、山菜の煮物を一口食べると顔がぱっと明るくなった。
「おいしい!」
その声に、村の老婆が目を細めた。
「まあ、よう食べんさるのう。元気にならっしゃい」
頭を撫でられて、陽一が照れ笑いをする。
沙織は胸が熱くなった。
東京では咳き込み、給食も残しがちだったこの子が、今はこんなに楽しそうに食べている。小さな口が一生懸命に動き、目を細めて味わっている姿。それがたまらなく愛おしくて、涙がこみ上げそうになった。
やっぱり来てよかった。ここでなら、この子は元気に育つ。
そう確信すると、頬が自然と緩んでいた。