間章 美穗
昼休みの中庭。石の縁に腰をおろし、広げた弁当を静かに口へ運んでいた。
隣では健太も俯きがちに箸を動かしている。二人とも言葉少なで、賑やかな笑い声の響く校舎が、遠い場所のように感じられた。
弁当箱を並べると、健太が小さく頭を下げた。
母親がいない健太に、近所の美穂がお弁当をつくるようになってからもうどれくらいたつだろう?
中等部に上がってすぐだったろうか?
それとも初等部の上級になってから?
覚えているのは、まだ幼かった美穂が、母親にねだって料理を覚えている風景だ。
いつも無骨な握り飯だけを弁当にしている健太を見かねて、幼い美穂は幼い健太に弁当をつくっていた。
はじめて弁当を渡した時の健太の笑顔を、今も美穂は覚えている。
「……ありがとな、美穂。今日もおいしいわ」
彼が箸を動かすたび、胸の奥がふわりと温かくなる。
今朝も早起きして卵を焼いた。形は少し歪んでしまったけれど、健太が嬉しそうに口に運んでくれるだけで、報われる気がした。
「こっち、煮物もあるけん。野菜、ちゃんと食べなさい」
つい口調が世話焼きになってしまう。
健太はおとなしく頷き、煮物を口に入れた。その仕草が幼く見えて、思わず微笑んでしまう。
けれど――彼はあゆみのことばかり見ている。
昨日だって、梓と並んで歩くあゆみを目で追っていた。
それを知っているのに、こうして弁当を作ってしまう自分がいる。
やるせない片思いだ、と美穂は思う。
思いながら、まるで古い流行歌のようだ、と少しだけ笑う。
――でも、それでもいい。健太のそばにいられるなら。
食べ終わると、美穂は鞄から折り畳んだパンフレットを取り出した。
色あせて角の折れた紙。夢の欠片のように大事に抱えてきたものだ。
「……ねえ、これ。大学のパンフレットじゃけど、図書館がすごく大きいんじゃって」
声を弾ませてページを開く。
健太は覗きこんだが、すぐに目を伏せてしまった。
「文字が……にじんで見える」
震える声。彼の瞳に影が落ちていく。
美穂は胸の奥が締めつけられるのを感じながらも、努めて明るい声を出した。
「じゃあ、私が読んだろうか」
文字を追い、声に出して読む。
図書館の高い書架、芝生の広場、学生たちの笑顔。
夢を描くように言葉を重ねると、健太の表情が少し和らいだ。
「美穂が読んでくれると、すごく分かるとよ」
その一言に、胸が熱くなる。
恋心が報われたのではないと分かっているのに、涙が出そうなほど嬉しかった。
パンフレットを閉じ、膝の上で抱きしめるように握りしめる。
夢は確かにそこにある。けれど、それを手に入れるために一歩を踏み出そうとしたとき、何が起きたか――冷たい記憶が胸の奥でざわめく。
――日曜の朝。
健太と美穂は二人で待ち合わせ、バス停にいた
鞄の中には小さな財布と、折り畳んだ大学のパンフレット。
大学の見学会に誘ったのは美穂だ。
このところ、文字がよく見えなくなっていて落ち込んでいる健太を、少しでも励ましたくて学校にあった大学のパンフレットを漁り、夏期の見学会をやっている高校を探し出した。
健太を誘って村の外に出る。
そんなちょっとした冒険に美穂の胸は躍っていた。
健太も、村の外にある学校をひと目見に行くことに何の異存もなく、美穂と二人で計画を立てた。
もちろん健太の父親や美穂の両親には内緒だ。
二人はため込んでいたお年玉や小遣いを合わせ、バス代と電車代を用意して、日曜の最初のバスで村を出ようと計画を立てたのだ。
――あと少しでバスが来る。
けれど背後から足音がして、振り向いた瞬間、体が固まった。
「美穂、どこへ行くつもりじゃ? 健坊まで連れて」
父の声。母も駆け寄り、腕をつかむ。
「……大学を、見学に」
声が震えた。吐き出した途端、冷たい風が胸の奥に吹きこみ、息が詰まる。
「村の外は危険じゃけぇ。にくゑ様に守られとらん土地は、何が起きるか分からんとよ。のぉ健坊もそう思うじゃろ?」
父親は三度笑みを浮かべる。
「ぼ、僕は――」
その笑顔は、拒絶の壁のようだった。
母も同じ笑みを浮かべ、腕をさらに強く握りしめる。
鞄の中でパンフレットの角が折れる感触がした。夢を閉じ込められる音のようで、美穂は唇を噛んだ。
――結局、外には出られなかった。
記憶の残滓を振り払うように、美穂はパンフレットをもう一度広げた。
ページの写真に映る図書館の高い書架、並ぶ学生たちの姿――どれも夢のように遠い。
「この大学はね、図書館がすごく大きいんじゃって」
声を落ち着けるようにして健太に読んで聞かせる。
健太は小さく頷き、真剣に耳を傾けていた。
「本棚が何階分もあってね、見渡す限り本ばっかり。古い本も新しい本も、きっと何でもあるとよ」
言葉を重ねると、健太の表情が少し和らいだ。
それでも彼の目はどこか曇っている。
「美穂が読んでくれると……すごく分かる。文字はもう、にじんでしまうのに」
その声が胸に沁みた。
美穂は、彼が自分の言葉を必要としてくれていることに、やるせないほどの喜びを覚えた。
そして同時に、健太が小さく頷きながら「美穂のおかげで、本の世界がまだ見える」と呟いたことに、胸が熱くなった。
「この村を出て、もっと色んな本を一緒に読むとよ」
自分でも驚くくらい真っ直ぐに言葉が出た。
夢を語る声は震えていたけれど、嘘ではなかった。
健太はしばらく黙っていた。
そしてぽつりと口を開く。
「この村は……やっぱり何かおかしい」
美穂の胸がざわめく。
誰にも口にできなかった気持ちを、同じように抱いていたのだと知った瞬間、目の奥が熱くなる。
「健太もそう思う?」
「うん……でも」
彼は視線を落とし、あゆみの方角を見た。
そこにはいないのに、まるで気配を探すように。
「でも、この村を出たら、あゆみには会えなくなるけん……」
その言葉に、美穂の胸が締めつけられた。
やるせなさと切なさがいっぺんに込み上げ、笑顔で隠すしかなかった。
「……それでも、私は一緒に行きたいとよ。健太となら、どこでも」
声に出した途端、胸が震えた。
言葉は届かないと知りながら、それでも願わずにいられなかった。
昼休みの鐘が鳴ると同時に、二人は弁当箱を片づけた。
パンフレットを鞄にしまい、名残惜しさを胸に抱えながら立ち上がる。
風が少し冷たくなってきて、木の葉がさらさらと揺れていた。
「……戻ろうか」
「うん」
健太の返事は静かだった。
その横顔を見て、美穂はまた胸が痛む。彼の視線の先には、自分ではない誰かがいる気がしてならなかった。
廊下を歩いて教室に戻ると、空気が妙に張り詰めていた。
梓と清音が机をはさんで向かい合っていて、その横にあゆみが立っている。
三人とも表情を変えず、けれど互いのあいだに見えない糸が張られているようだった。
笑っているようにも見えるし、にらみ合っているようにも見える。
美穂には、そのどちらなのか分からなかった。
思わず健太と顔を見合わせる。
何かを尋ねようとしたが、声が喉で止まった。
教室に漂う空気が重すぎて、言葉を出せば弾かれてしまいそうだった。
静かな緊張の中で、美穂はただ自分の席に腰を下ろした。
机の中のパンフレットの感触だけが、かろうじて現実につながっているように思えた。
◆◆◆
あとがき。
四章終了です。
この章は全く意図してなかったんですけど、恋の話が集まったので章タイトルは「恋」美穂がいい子でいい子で。各人各様の恋の行方を見守って頂ければ幸いです。
――もっともこの物語はホラーなんですけどね。