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にくゑ-本編-【完結】  作者: カクナノゾム
第四章 恋 

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初恋

 昼休みの教室に二人だけが残っていた。

 美穂と健太は弁当を持って外へ出て行き、静寂が満ちている。窓辺から射しこむ光が机の上に落ち、舞う埃の粒を銀色にきらめかせていた。


 梓はカバンからノートを取り出し、鉛筆を握った。指先がかすかに震える。耳の奥で心臓の音がやけに大きく響いて、ただ黙っているのがつらかった。


 何かを書いていないと、自分が崩れてしまいそうだった。

 白いページの上に、言葉が零れていく。


 ――氷に眠る水音

 ――沈黙で揺れる光

 ――触れれば割れてしまう硝子の横顔


 清音を見つめた瞬間に浮かんだイメージを、そのまま詩にしている。書けば書くほど、胸の奥が痛くて甘い。母を亡くした日から凍っていた心が、今は熱で焦げそうなくらいに脈打っているのを、梓ははっきり感じていた。


 鉛筆が走る音が、静かな教室にひときわ際立って響く。隣にいる清音に、この想いまで伝わってしまうのでは――そんな不安と期待が、梓をさらに追いつめていた。


 鉛筆の先が止まった瞬間、影が差した。

 清音がすぐそばにいた。机に手をつき、肩がかすかに触れるほど近い。白い指がノートの端をそっと押さえ、書き連ねた文字に瞳を落としている。


「……梓、私のことを書いてるのね」


 吐息が耳をかすめ、背筋がぞくりと震えた。

 梓は慌てて鉛筆を握り直し、俯いた。


「ご、ごめん……勝手に、言葉が浮かんできて」


 消したいのに、消したくなかった。そこに並んだ言葉は、清音を見たとき胸の奥で生まれた熱の欠片だったから。


 清音の指先が、ノートから離れて梓の手の甲に触れた。氷のように冷たいはずなのに、皮膚を焼くような熱を帯びている。梓は思わず息を呑む。


「いいよ」


 小さな声。

 そのまま清音の指が梓の手の甲をなぞり、絡むように滑っていく。

 ぞくり、と清音の指先から流れるように今まで感じたことのない感覚が、梓の身体を走り抜ける。

 下腹部が不意に重くなり、締め付けられるような奇妙な感覚を感じる。


「梓にだけ、見せたい場所があるの」

「どんな場所?」

「村の外れ……洞窟の奥の祠。普段は入ってはいけない、禁忌の場所」


 清音の瞳がまっすぐに梓を見る。真剣だった。


「そこでなら話せる。村のこと、掟のこと……誰も来ないから、あそこなら私、全部言える気がするの」


 梓は戸惑い、自分の気持ちを誤魔化すように軽い言葉を口にする。


「二人っきりで、そんな場所に行くなんて……ま、まるでデートみたいだね!」

「デート、したことはないけれど、きっとそうなのね……私とデートするのは、嫌?」

「い、嫌な訳ないじゃない!? でも……そんな大事な場所に、私なんかが行っていいの?」

「……梓だから、いいの」


 即答する声は、震えているのに揺るぎがなかった。


「あなたを見てると、不安そうで胸がぎゅっとなる。……放っておけない。だから一緒に来てほしいの」


 清音の指が梓の手を強く絡める。


「今度の夜、男衆が集まる宴会があるわ。その時迎えに行くね」


 そう言って、清音のもう一方の手が梓の頬にそっと伸びた。

 冷たいはずの指先が、撫でるたびに熱を残していく。ずくん、と下腹部が疼く。梓は下着が濡れるのを感じていた。


「梓は特別。だから、あそこに連れていきたいの」


 その告白にも似た言葉と、頬を撫でる仕草に、梓の胸は爆ぜるように脈打った。

 もう誤魔化せない。怖いものに囲まれて怯えていた心が、いま確かに清音へと向かって燃えている。


 その瞬間、教室の扉が勢いよく開いた。

 梓は飛び上がりそうになり、清音もすっと手を引っ込めた。


「あれ、まだおったんね」


 明るい声。入り口に立っていたのはあゆみだった。

 自分の席に歩み寄り、置き忘れていたノートをひょいとつかみ上げる。忘れ物を取りに来たのだと梓は気づいた。


 けれど、あゆみの視線はすぐに梓と清音へと移った。


 二人の近さを見とめた瞬間、表情が一瞬固まる。

 笑顔が戻るのは早かった。けれどその笑みはどこかぎこちない。


 あゆみは梓の机に身を寄せ、ノートを覗きこんだ。


「ふうん……こんなの書いとるんね」


 鉛筆の走り跡に指を滑らせながら、わざと大きな声を出す。


 そして自分のノートを開くと、勢いよく鉛筆を走らせ始めた。

 梓は思わず問いかける。


「……どうして、急に?」


 あゆみは口角を上げて、いたずらっぽく笑った。


「梓ちゃんの真似しとったら、清音がよくしてくれるかもしれんとよ?」


 冗談めかした声なのに、胸の奥に小さな棘が刺さった。


 清音が自分にだけくれたと思っていた視線や触れた指先――それを奪われるような気がして、息が詰まる。


 あゆみは新しい言葉をノートに書きつけ、ちらりと清音を見る。


「氷に眠る水音、かぁ。じゃあうちは……"氷に沈んだ心臓"にしとこかな」


 清音は小さく笑みを浮かべただけで、何も言わなかった。


 けれど梓には、その沈黙の奥で何かがきしんでいる気がしてならなかった。


 あゆみの鉛筆が走る音がやけに大きく響いた。

 わざとらしい言葉遊びに返す言葉が見つからず、梓はただノートを抱きしめるように閉じた。


 清音は目を伏せ、静かに机に指を置いている。その横顔は穏やかに見えるのに、どこか遠い。


 ――沈黙が重くなる。


 梓は胸の奥で、さっきまで確かに触れていた清音の指先を思い出していた。冷たいのに熱い、矛盾した感触。それが心にまで残っていて、想いを早めている。


 トクン、トクンと心臓が高鳴る。

 この気持ちはいったいなんなんだろう?

 ――これは恋だ、と、梓ははっきり理解した。


(私は清音に恋している)


 胸の中で言葉にすると、すっとその意味が心に染みこむ。街で男子に告白された時には、こんな気持ちにはならなかった。


(きっと……これは初恋)


 その瞬間、あゆみが顔を上げた。

 わざと何でもないような調子で、けれど梓の耳には鋭く響く声で言った。


「そういえば、聞いた? 健太と美穂が、村を出ようとしたんとよ」


 鉛筆の先が机にぶつかり、梓の指から転がり落ちた。

 あまりに唐突で、意味をつかむのに時間がかかる。


「……村を、出る?」


 問い返す声は震えていた。

 あゆみは肩をすくめ、すぐに笑顔を作った。


「親に止められたらしいけどね。うちも詳しいことまでは知らんとよ」


 軽い口ぶり。それなのに、梓の胸の奥には重く沈むものが残った。


 この村から出ようとした――その言葉が、なぜか清音と自分の間に影を落とす。


 清音の横顔を見た。彼女は何も言わない。ただ、机の上の光の粒をじっと見つめている。


 その沈黙が、梓には返事のように感じられた。

 胸の奥で鼓動が乱打する。

 甘くて、熱くて、そして不安に染まっていく。


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