赤い液体
千鶴が帰って間もなく、戸を叩く音がした。
「失礼します」
恐る恐る、といった風に梓が入って来る。学校帰りなのだろう、制服のままだ。顔色は良いが、瞳の奥に不安が宿っている。
「どうしました、梓さん」
「あの……相談があって」
梓は胸ポケットから小瓶を取り出し、机の上に置いた。赤とも黒ともつかぬ濃い液体が、瓶の中でゆらりと揺れている。
「これを、清音……虚木さんからいただいたんです」
吉川の心臓が跳ね上がった。前任者のカルテにあった「赤い液体」。まさに、これだ。瓶を手に取ると、瓶にこびりついている液体がどろりと動く。まるで生きているかのように。
「体調を崩していたら、清音が心配して……でも、飲んでから変なんです」
「変といいますと?」
「胸がざわざわして。それに、夜中に水音が聞こえるんです。家の中にいるのに」
梓の声が震えている。
「この薬について、何か説明は?」
「山の恵みを煮詰めたものだって。とっても甘くって……でも、何だか変な感じがして……」
梓の目に恐怖が宿っている。吉川は瓶を光にかざした。粘り気を帯びた液体が不気味に光った。
「検査してみましょう。成分がわかれば……」
空の瓶だ。付着した液体だけでは限界がある。だが、懇意にしている研究施設に送れば、何かわかるかもしれない。
その時、入口の戸が勢いよく開かれた。
◆
「先生! お願いします!」
美穂が息を切らして駆け込んできた。その顔は青ざめ、瞳に恐怖が宿っている。後ろから健太がよろめくように続く。
「健太が……文字が読めんって言うとよ」
「落ち着いて。こちらに座って」
吉川は診察台を指し示した。梓も立ち上がる。
「昨日までは普通じゃったのに、今朝から急に……本も、ノートの字も、全部黒い線にしか見えんって言うとよ」
美穂の声が上ずっている。必死さが痛いほど伝わってくる。
吉川は健太を診察した。瞳孔の反応は正常、眼底にも異常はない。だが、視力表を見せても健太は首を振るばかりだ。特に原因は思いあたらないそうだ。
「これが見えますか?」
吉川は紙に「あいうえお」と書いた。健太は首を振る。
「ただの線にしか……見えんとよ。いや、あ、だけ読める」
一文字だけ認識できる? それはおかしい理屈に合わない。吉川は脳内の症例を総閲覧する。専門は外科医だが独立する時のために、一通りのことは学んでいる。
その時、美穂が思いついたように立ち上がった。
「待って」
美穂は自分のノートを取り出し、鉛筆で一つの単語を書いた。
「あゆみ」
「これは?」
健太の目が一瞬で輝いた。
「読める……これだけ、はっきりと見えよる」
吉川の血の気が引いた。ありえない!?
選択的文字失読。医学では説明のつかない症状だ。しかも、特定の文字だけが読める……精神的なものか? ならば説明がつかないこともない。だが――。
「訳がわからない。あり得るとしたら精神的なものだと思うが……」
「もしかしたら、薬を飲めば治るかもしれん」
美穂が思案深げに呟く。そしてその言葉を吉川は聞き逃さなかった。
「薬?」
「そうね、村長さんが時々くれるんよ」
「君も、その薬を飲んだことが?」
健太は弱々しく頷いた。
「みんな……飲まされるんじゃ。元気になるって言われて」
前任者のカルテの記録が脳裏に蘇る。子どもたちの異変。原因不明の症状。そして「赤い液体」。
だが、そんな万能薬が存在するのだろうか?
存在するとして、それは一体どんな薬理で効果を及ぼす?
吉川の拳が震えた。すべてが繋がっていく。前任者の狂気じみた記録が、梓の持参した瓶が。この村で何が行われているのか。
診療所の空気はしばらく重く沈んだままだった。
吉川は健太の容態を観察し続けたが、これ以上の検査は意味をなさないと判断した。
「今日はもう帰りなさい。しばらく安静にして、明日も同じならまた診せに来ること。いいね、健太君」
健太は弱々しく頷いた。隣で支える美穂も、緊張で肩をこわばらせたままだった。梓は声を掛けかけて、唇を結んだ。
三人は互いに視線を交わしながら、足早に診療所を後にした。
残された静けさの中で、赤黒い液体が照明を受け、鈍い光を返していた。
◆
夜、吉川は村長宅を訪ねた。胸の内で、前任者のカルテの最後のページが燃えている。
虚木清一は穏やかな笑みを浮かべて迎えた。だが、その笑みの奥に氷のような冷たさが潜んでいる。
「先生、どうなさったんじゃ」
「単刀直入に聞きます。村の者に配っているあの赤黒い液は何ですか」
清一の笑みが、一瞬だけ凍りついた。
「山の恵みを煮詰めたものじゃが」
「嘘をおっしゃい」
吉川の声は低く、怒りを帯びていた。
「前任者のカルテを読みました。二十年前から同じことが繰り返されている。子どもたちに正体不明の液体を飲ませ、異常な症状を引き起こす」
「異常な症状とは、何のことじゃ?」
清一は茶を一口含んだ。その仕草があまりにも余裕に満ちていて、吉川の怒りが燃え上がる。
「梓さんの幻聴、榊さんの急速な回復もそうなんでしょう……医学では説明のつかない症状です」
「医学で説明がつかんからといって、害があるとは限らんじゃろう」
「害がない? 前任者は発狂寸前まで追い詰められていた。そして、忽然と姿を消した」
「それは……そうじゃな」
清一の目が、ぎらりと光った。
「あなた方が何かしたのですか?」
静寂が落ちた。清一の目が、獲物を見据える獣のように変わる。
「先生、あんたは都会で居場所を失うた身じゃったろう。ここでも同じことになりたいんか?」
「何故それを……」
「村においでになる先生の履歴くらいは調べるのが当然じゃろう。カルテ改竄の件も含めてな」
清一の声は穏やかだったが、その内容は氷のように冷たい。
吉川の喉が渇いた。自分の過去を、この村長が知っている。
それは明確な脅しだった。だが、吉川は一歩も引かなかった。むしろ一歩前に進み出る。
「私は医師です。患者を守るのが使命だ」
「この村では、わしたちのやり方で皆が幸せに暮らしちょるんじゃ」
「幸せ? 子どもたちを薬漬けにして?」
「薬漬けとは心外じゃな。あれは村に馴染むための……儀式じゃよ」
「儀式?」
吉川は立ち上がった。
「前任者のカルテには、最後にこう書いてありました。『もう人間として耐えられない』と。この村で一体何が行われているんですか」
清一も立ち上がった。穏やかだった表情が、底知れない深淵を覗かせる。
「先生。あなたも〈笑顔で〉お過ごしくださいな。それが掟じゃ」
その言葉には、明確な殺意が込められていた。
吉川は背筋を伸ばし、清一を見据えた。
「私は事実を記録します。どんな圧力があろうとも」
「そうですかな……」
清一の笑みが戻ったが、その奥に底知れない暗闇が口を開けていた。
「では、ごゆっくりお考えくださいな。ただし、前任者の二の舞にならんよう、お気をつけなされ」
吉川は振り返ることなく、村長宅を後にした。夕闇が濃くなった村の道を歩きながら、前任者の最後の記録が頭の中で響いている。
『もう逃げなければならない』
果たして、逃げることができるのだろうか。そして、逃げずに戦うことはできるのだろうか。
診療所に戻った吉川は、机に向かってペンを取った。今日の出来事を記録に残さなければならない。前任者のように、狂気に飲み込まれる前に。
しかし、ペンを握る手が震えているのを、吉川は気づかなかった。