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にくゑ-本編-  作者: 匿名希望
第四章 恋 
20/34

前任者の記録

 朝の診療所に、湯気を立てる味噌汁の匂いが漂った。千鶴がお盆を抱えて入ってくると、いつものように小さく会釈する。


「おはようございます、先生。また朝から何も食べてらっしゃらないでしょう」


 机の上に散らばった書類を片付けながら、千鶴は困ったような笑みを浮かべた。


「すみません、千鶴さん。ついつい夜更かしして……」


 吉川は苦笑いを返しながら、椅子から立ち上がった。千鶴の持参する温かい朝食が、一人暮らしの身には何よりありがたい。


「この村に嫁いで来て二年になりますが、お医者様がいるっていうのは心強いもんですね」


 千鶴は湯呑みに茶を注ぎながら言った。


「二年間、医者がいなかったんですか?」


「ええ。私が来た時にはもう、診療所は空っぽでした。村の人たちは『いつか来る』って言ってましたけど、まさか本当に来てくださるとは」


 安堵と感謝が、千鶴の表情に混じっている。


「前の医者は、どうして……?」


「さあ、私にはわからんのです。どれくらいの間医者がいなかったんでしょうね? 主人に聞いても『もう随分と長い間だ』って」


 千鶴は首をかしげた。


 吉川の箸が止まった。この村の人間は皆、過去のことになると途端に記憶が曖昧になる。まるで霧がかかったように。


「でも、先生が来てくださって、梓ちゃんも安心してるでしょうね。健康診断の時、この村に来て元気になったって言ってましたし」


「そうでしたね」


「ええ。お母さんを亡くして大変だったでしょうけど、この村の人たちは皆親切ですから、きっと馴染んでくれるでしょう」


 千鶴の笑顔は穏やかだった。だが、その笑顔の奥に何かが潜んでいる。患者のプライベートな事情を、こうも当たり前に語る千鶴の口調に、吉川の胃が重くなった。



 千鶴が帰った後、吉川は診療所に一人残された。彼女の言葉が頭の中でこだましている。前任者……そう言えば、まだ資料の整理をしていなかった。


 普段は手をつけない棚の奥を探ると、埃にまみれた古いカルテの束が出てきた。表紙には「昭和五十八年」とある。二十年以上前のものだ。


 最初のページを開く。


『田中太郎(8歳)風邪症状。解熱剤処方にて改善』

『佐々木花子(12歳)腹痛。整腸剤投与、経過良好』


 丁寧な字で書かれた、医学的に正確な記録。前任者は真面目な医師だったのだろう。


 数ページ進むと、記録に異変が現れた。


『村に原因不明の風土病が流行。発熱、倦怠感、一部に意識混濁。通常の治療薬では改善せず。村長の提案により、古来から伝わる滋養強壮液を併用することに』


『効果は劇的。大人も子どもも回復。ただし、子どもには特に慎重な分量調整が必要とのこと。村長の指示に従い投与』


 この頃の記録は希望に満ちている。


 だが、ページをめくるにつれ、余白に小さな文字が増えていく。まるで誰かに見られることを恐れるような、震える筆跡で。


『風土病は終息した。しかし子どもたちが定期的に来院する。祭りの度に「予防のため」として液体を求められる。大人は全く来ない。なぜ子どもだけなのか』


『山田健児(10歳)祭り後の検診。外見上は健康だが、瞳孔反応が異常に鈍い。感情表現も以前より乏しい。まるで何かに魂を抜かれたかのように』


『小林美咲(9歳)視覚異常を訴える。しかし検査では問題なし。「特定の文字だけが見えない」と言う。どういうことだ?』


 余白の書き込みが激しくなっていく。


『子どもたちの瞳の奥で何かが蠢いている』

『あの赤い液体は一体何なのか』

『村長は何を隠している』


 カルテの後半。もはや医療記録ではない。狂気の走り書きが乱雑に踊っている。


『井戸を調べた 底から音がする ぐちゅぐちゅと 湿った音が 赤い泡が浮いては消える』


『夜中に聞こえる にくゑ にくゑ にくゑ 壁の向こうから村人が囁いている 眠れない 眠れない 眠れない』


『子どもたちの目が変わった 昨日まで茶色だったのに 今日は黒い 奥で何かが脈打っている 見てはいけないものが』


『大人は笑う いつでも笑う 角度も回数も全員同じ まるで操り人形 でも糸を引いているのは誰だ』


 最後のページは、ペンでぐしゃぐしゃに塗りつぶされた文字で埋め尽くされていた。


『もう逃げるしかない 荷物をまとめて でも見られている 窓から 井戸から みんなで見ている 笑いながら』


『通過儀礼 何をする 子どもたちに何をする 聞いてはいけない でももう手遅れ』


『手が震える 診察できない 患者の顔がみんな同じに見える 助けて 誰か助けて』


 そして、記録は唐突に途切れていた。


 吉川の手からカルテが滑り落ちた。前任者の最後の文字が頭の中で踊り狂っている。この医師に何があったのか。そして、なぜ二十年間も後任が来なかったのか。



 日が傾き、夜の気配が診療所に忍び込んできた頃、入口の戸が軽やかに開いた。お裾分けの野菜を持った千鶴が顔を出す。


「先生、お疲れ様です。今日は大根が安くて……」


 千鶴の言葉が途切れた。吉川の顔を見て、眉をひそめる。


「どうなさいました? 真っ青ですよ」


「千鶴さん、前の医者のことで」


 吉川はカルテを手に取った。千鶴の目が、一瞬だけ鋭く光る。


「ですから、ずっといなかったっていいませんでしたっけ?」


 千鶴の首のかしげ方が、まるで演技のように見えた。


「ええ、このカルテには昭和五十八年の記録があります。二十年ほど前のことですよ」


「二十年間も前?」


 千鶴は驚いたような顔をした。だが、その驚きは表面だけのもののように思えた。


「でも、誰も何も言いませんけど……」


「前任者のことは何か?」


「いえ、そんな昔のことは……ただ『いつの間にかいなくなった』って、そう言われてました」


 曖昧な答えが返ってくる。まるで記憶に霧がかかったように。


「最近、子どもの患者が少なくないですか?」


「そうでしょうか。みんな元気そうですけど……ああ、そういえば」


 千鶴は何かを思い出したように言った。


「村長さんのお宅で、健康に良い飲み物を分けていると聞きました。山の恵みを煮詰めたものだそうです」


「健康飲料……ですか」


 吉川の喉が渇いた。前任者の記録にあった「赤い液体」のことだろうか。


「ええ。それで子どもたちも元気になってるのかもしれませんね」


 千鶴は何の疑いもなく微笑んだ。その笑顔を見て、吉川の背筋に悪寒が走る。千鶴の笑い方が、村の他の人間と全く同じだったからだ。


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