帰郷Ⅰ
少女はメモを執っていた。揺れ動くバスの座席で。一心不乱に。
スマホの画面を見ると「圏外」の文字が表示されている。これから向かう村は電波が通じていないと聞いていたが、もう圏外なんだ、と梓は画面の文字を見つめ、スマホをカバンにしまい込んだ。膝の上で小さなメモ帳を開きながら、いつもならスマホでメモを取るところなのに、久しぶりにメモと鉛筆。でもこんな古いやり方も良いかも知れない、と梓は筆を走らせる。
「山、薄墨色」「バスの音、お腹の中みたい」
思いついたことを鉛筆でちょこちょこ書きつけているが、手に力が入らなくて、文字がふらふらしてしまう。がたん、がたんと車体が揺れるたび、梓の頭も左右にゆらゆら揺れて、なんだかおかしくなってくる。
矢野梓、十七歳になったばかり。小柄で、どちらかというと細い方で、肩まで伸びた黒い髪がバスの振動で少しずつ乱れている。頬にかかるたびに、うっとうしそうに手で払いのけている。
東京にいた頃より顔色が悪いような気がするのは、黒いカーディガンに紺のスカートという地味な格好が、まだ葬式の名残を引きずっているからだろう。
真っ白なメモ帳の上を鉛筆がずっと走り続けている。
母親の葬式の日から、梓はこうして何でも書き留めるようになっている。書いておかないと、自分がここにいることさえ怪しくなってしまいそうで。
心の奥が氷みたいに冷たくなってしまって、何を見ても何を聞いても、まるで遠いところの出来事みたいに感じられるのだ。だから、せめて言葉だけでも残しておこうと思うのである。
窓の外では、山並みがゆったりと流れていく。春めいてきたというのに、木々の枝先はまだ重たい冬の色をしている。山肌は薄墨を流したような灰色で、ところどころに雲の影が這っている。
新幹線を降りて、ローカル線に乗り換え、それから更にバスに乗り換えて既に二時間近く。
舗装の古い道路をバスのタイヤが踏むたび、がたん、がたんと音がする。船に乗ったことはないけれど、きっと船酔いってこんな感じなのかもしれない、そんなことを思いながら。
窓ガラスに映った自分の顔を見ると、なんだかよその人みたいで、梓は慌てて目をそらしてしまう。
カバンの中には、母親の写真を大事にしまってある。小さな額に入れた遺影。胸が痛くなるはずなのに、やっぱり痛みは遠くて、ただぽっかり穴が空いたような感じがするだけ。
葬式の時も、涙は出なかった。母親の友人たちがみんな泣いているのに、梓だけが乾いた目をしている。そのことも、こっそりメモに書いている。「涙、出ない。変なの」って。鉛筆がぶるぶる震えて、読めないくらいかすれてしまったけれど。
昔から、本を読むのが好きで、図書館で一日中過ごすこともある。物語の中にいる間だけは、灰色の毎日を忘れることができたから。でも最近は、どんなに感動的なお話を読んでも、心が動かない。まるで他人事みたいに思えてしまう。だからこそ、自分の物語を書き残したくなったのかもしれない。
母親がどうしても帰りたがらなかったこの村に来ることにしたのも、そんな気持ちから。
東京にはもう居場所がなかった。親戚を頼ることもできず、住んでいた部屋も片付けられてしまう。
そんなとき、村から一通の手紙が届く。母の実家の古い家が残っている。もしよければ使えばいい、と。
それが最後の決め手となり、梓はその村へ行くことを決めたのである。
母親、弓子の日記にも最初の方に村のことが記されていた。
古い日記を見つけた時、震える字で「もう二度と帰らない」と書いてあったのである。日記の表紙には八、とだけ書かれていた。
全部で六冊あった日記の一から七はどこにもない。きっとその村に残してきたのだろう。
梓はその地名を地図で知った時、胸の奥が小さな震えた。きっと何かがある。それを確かめて、ちゃんと言葉にして残しておこう。そうすれば、まだ自分が生きているってことになるはず。
窓の外に、黒い鳥が二羽飛んでいるのが見える。一羽は翼をゆったり広げて、もう一羽は羽ばたかずにすうっと滑っている。なぜか同じ速さで、同じ距離を保ったまま飛んでいる。まるで見えない糸で結ばれているみたい。梓が見とれている間に、二羽とも森の向こうに消えてしまった。
「二羽の鳥、距離を保つ」そんなふうにメモ帳に書きつけた。
もうすぐ次の停留所で降りなければならない。車内には梓一人きり。運転手さんとも特に話すこともなく、バスのエンジン音だけが響いている。その音が、なんだか心臓の代わりみたいに聞こえていた。