健太Ⅱ
放課後。
村の分校には、小さな図書室があった。窓は一つだけで、午後になると山の影が棚の上に伸びて、紙魚の食んだ背表紙が灰色に浮き上がる。
健太はその隅の机をいつものように選んだ。椅子を引く音が響かないよう、足で床を押さえながらゆっくり腰を下ろす。指先でページの角を撫でる癖が、今日も自然に出た。
家では、夕方になると土の匂いが濃くなる。父も兄たちも畑に出て、肩で風を切るように歩く。健太だけが細く白い腕をして、鍬を持ってもすぐに手のひらを痛めた。
「お前は母さんに似たんじゃな」と、何度も言われた。亡くなった母が残していった本を読むたび、その言葉を思い出す。悪気のない言葉が、鏡を見るたび胸のどこかを沈ませる。だから、ここに来る。紙と文字のある場所に。
鉛筆を取り、ノートを開く。表紙の裏に、薄く練習した跡が幾重にも残っている。今日は、清書するつもりだった。あゆみ――ひらがな三つの、その並びを指でなぞる。
ゆっくり、力を入れすぎないように。けれど、二画目でいつも筆圧が上がってしまう。紙がきしんだ。慌てて力を抜くと、線が震える。指先に汗が滲み、鉛筆が滑る。袖で掌を拭い、小さく咳払いをして姿勢を直した。
(これがきれいに書けたら、渡そう)
胸の奥で、声にならない声が立ち上がる。手紙の言葉は昨夜から何度も考えた。
「あゆみへ。図書室でいっしょに本を読まない? お勧めの本があるけん」
――文面はそれだけ。長くしないほうが、きっといい。書き出してすぐ、健太は鉛筆を置いた。紙の白さが眩しい。
指で「あ」の文字をもう一度なぞって確かめる。文字をなぞる癖は、亡くなった母に絵本を読んでもらっていた名残りだった。見えづらいわけじゃない。ただ、指が通ったところだけ、言葉が本当に立ち上がる気がするのだ。
「健太?」
ドアが控えめに開いて、美穂が顔を出した。初等部の子供たちの相手をした後らしく、頬がまだ赤い。健太は無意識にノートを閉じ、胸の前に引き寄せた。鉛筆がころんと机から落ちる。
「ごめん、邪魔したと? 本、返しにきただけじゃけぇ」
美穂の声に、いつもよりほんの少し息が混じっているのに健太は気づかない。
「ううん、大丈夫じゃ……他の連中は?」
「あゆみと清音は帰ったんよ。梓ちゃんは何か行くとこがあるって……」
「行くとこ?」
「診療所に行くんじゃと。先生に見てもろうたいもんがあるって」
「ふぅーん」
拾い上げた鉛筆の芯先が少し割れている。健太は親指の爪でそっと整えながら、ノートの台紙越しに透ける鉛筆の跡を見られないよう角度を変えた。
だが、美穂はもう近くに来て、机の上に置かれた消しゴムかすを指で集めながら、やさしく笑った。本を返すだけなら棚に置けばいいのに、彼女はいつも健太の隣まで歩いてくる。
「字、きれいになってきたけぇな」
健太の耳の裏が熱くなる。否定しかけて、言葉がうまく出ない。美穂は気づかないふりをするように、棚から文庫本を一冊抜くと、その場でぱらぱらとめくった。時々、横目でこちらを見ているような気がする。
「やっぱり、よその子は村の生活に慣れんのかなぁ」
「……うん」
「畑で目なんて見えるわけないのに。根っこと見間違えただけじゃと思うとよ。でも、この村の者は皆親切じゃから、じきに慣れよるよね」
美穂が言う「親切」は、健太の知っている「親切」と少し違う。みんな同じ速度で笑って、同じ高さで頷く。掟の通りに。紙の上の「あゆみ」の三文字が、急に場違いに見えてきた。健太はノートに目を落とし、指でそっとなぞる。
「親切いうても、三回の笑顔とかじゃろ?」
健太は小さくつぶやいた。
「あれ、本当にどんな意味があるんじゃ。夜道は真ん中とか……ぼく、掟なんて意味ないと思うとよ」
美穂の表情が変わった。
「健太、そんなこと言ったらいかん。昼間のことも……」
慌てたような声だった。健太が教室で笑顔を一回だけにしたあの瞬間を、美穂は忘れていなかった。でも、健太の真剣な表情を見て、何かを感じ取ったのか、声が小さくなる。
「……でも、確かに。私もよく分からんこと、あるとよ。笑う回数とか、歩く場所とか。守っとる人は多いけん、守らんと死ぬわけじゃないし」
言いながら美穂は、少しだけ困ったように笑った。自分で言ったことに耳を澄ましているみたいだった。本当は「好きになる相手だって、決められたりしない」と言いたかったけれど、その言葉は喉の奥で止まった。
健太はその笑い方が、教室の「笑顔」と違うのをはっきり感じた。胸の重しが、音を立てずにずれる。
「けぇな。……内緒けぇな」
「うん」
「ねえ、それ」
美穂の視線が、ノートの端から離れない。隠したはずの鉛筆の跡が、光の加減で浮き上がっている。あ・ゆ・み。消しゴムで何度も薄くした痕が、かえって透けて見えたのだった。美穂の表情が、一瞬だけ影を落とす。
「……違うとよ、これは、その、練習で」
「うん、練習でも、いいけぇな」
美穂は笑って言った。笑い方が、授業中とは違っていた。誰かに合わせる調子ではなく、ほんの少し息が抜けるような笑い方。けれど、その奥に小さな痛みが混じっているのを、健太は気づかない。
「渡したら、きっと喜ぶとよ。あゆみ、ああ見えて、そういうのうれしい子じゃと思う」
自分の気持ちを押し殺して、美穂は健太の恋を応援する。声が少しだけかすれそうになったが、すぐに笑顔で覆い隠した。
「そう、かな」
「うん」
二人だけの約束のように、その一言が机の上に置かれた。美穂は文庫本を胸に抱え、背伸びをして肩を回す。髪が少し揺れて、汗の匂いがした。健太の前から立ち去るのが、いつもより辛い。
「じゃ、また明日な。――がんばってな」
美穂はノートを指先でとんと叩く仕草をした。健太の恋を応援しながら、自分の想いは胸の奥にしまい込んで。扉を開く。美穂は扉のガラス越しに健太を振り返りたい衝動を、ぐっと堪えた。
健太は再びノートに目をおとす。あゆみ、ともう一度書いた。今度は紙が破れなかった。文字の線が少しだけ、まっすぐだ。指でなぞると、ちゃんとそこにある感じがした。健太は息を吐き、ページの端を折り、封筒の代わりにノートの表紙で包む。
窓の外では、山の陰影が濃くなりはじめている。図書室の時計の針が一つ進んだ。廊下の向こうから、誰かの笑い声が三度、等間隔で響く。健太は耳を澄ますのをやめ、机に視線を戻した。
(渡そう。明日)
そう思ってはいるが、きっと自分はこの手紙は渡せないと健太は知っていた。
◆
もう一度鉛筆を持ち、「あ」の字から書き始めようとした時だった。
不意に文字が歪んだ。
健太は目を凝らす。もう一度書こうとするが、紙の上で文字が黒い線にしかならない。
「どうして……」
声を詰まらせ、鉛筆を握りしめたまま机に突っ伏す。本を開いても、活字が黒い染みに変わる。大切な母の本の文字も、もう読めない。ページを抱え込み、健太は嗚咽した。
ドアの外から覗いていた美穂は、健太の様子を見て慌てて駆け寄った。
「健太、どうしたと?」
美穂の声に、健太は顔を上げる。涙で頬が濡れていた。
「文字が……文字が読めんのじゃ」
「え?」
「昨日まで読めよったのに、今日は全然……本も手紙も、全部黒い線にしか見えん」
健太の震える声を聞いて、美穂の表情が青ざめる。昨日の教室での出来事が脳裏によみがえった。掟破り。清音の警告。
「吉川先生のところに行こう。きっと何か分かるけぇ」
「でも、こんなこと……」
「大丈夫。私も一緒に行くけぇ」
美穂は健太の手を取った。その手は冷たく震えていた。二人は夕闇の中、診療所へと向かった。