しゃがんでいる子供
下校の列から少し遅れて歩いていた。初等部の子どもたちが背丈に合わないランドセルを揺らしながら、畦道をにぎやかに行く。声が重なり合い、笑い声が波のように広がっては、遠くの山に吸い込まれていった。
自分もその輪の中に混じっているはずなのに、どこか別の世界に立っているような心細さがあった。
畑の脇に、ぽつりと影があった。
――また……だ。
目に入った瞬間、それがただの影ではないと分かった。小さな子どもが、コンクリートの縁にしゃがみこんでいる。
紺色のシャツに白いランドセル。膝を抱えて、まるで置き物のように動かない。
晴れた午後なのに、全身が濡れていた。
袖口から、裾から、水がしとしとと落ちている。落ちるたびに黒い染みが広がり、乾いた道に円を描いてはまた新しい滴に覆われていく。
息をしていない。胸のあたりが上下する気配がない。
梓の足が止まった。背中に氷を押しつけられたような感覚。
顔を上げてはいけない――理屈ではなく、直感がそう告げた。
慌てて視線を逸らし、早足で通り過ぎる。心臓が喉まで競り上がる。
角を曲がってから振り返ると、もうそこには誰もいなかった。ただ濡れた跡だけが道に残っていた。
◆
翌日も、またその次の日も、同じ場所にその子はいた。
同じ姿勢で、同じように濡れたまま。
不思議なのは、ほかの子どもたちも大人たちも、誰ひとりとして気に留めないことだった。列は乱れもせず、誰も視線を向けない。まるで見えていないか、見ないふりをしているかのようだった。
五日目、梓はとうとう足を止めてしまった。
昨日までと同じ姿でしゃがみ込む小さな背中に、引き寄せられるように近づいてしまったのだ。
一歩。二歩。
靴の先とコンクリートの縁が一メートルほどの距離になったとき、シャツの背から何かが覗いた。
――目だ。
小さな目が、いくつも、布地を押し上げるように並んでいた。黒目がちのそれが、一斉にこちらを見た。
「……っ」
梓の息が詰まる。喉の奥が凍りつく。
助けを求めるように清音を探した。だが彼女は一歩先を歩き、振り向きもしない。風に揺れる髪の横顔だけがある。
胸が締めつけられる。すがりたいのに、すがれない。
その背中が遠く、冷たく思えた。
◆
目が合った――そう思った瞬間、世界が白く途切れた。
背中に並んだ小さな目が、いっせいに瞬いたように見えた。喉の奥が凍りつき、足の裏から体温が抜けていく。耳の遠くで誰かが名前を呼ぶ。清音、清音――声にならないまま、地面がゆっくり傾いてきた。
甘い匂いで目を覚ました。
口元にガラスの縁が触れている。やさしく傾けられた瓶から、とろりとした液が舌の上に落ちた。濃厚な飴のような味わい。ほんの少し鉄の味が混じる。
「飲んで……薬よ」
清音の声は静かで、指は驚くほど冷たかった。その指が一瞬、わずかに震えたような気がした。喉が勝手に動いて、二口、三口と飲み下す。胸の中の震えがゆっくりほどけて、指先に戻ってこなかった感覚が少しずつ戻る。
視界の端で、茶色のガラス瓶が赤黒く光った。
体を起こすと、畳の目が汗で頬に貼りついていた。自分の家だ。清音は座卓の端に瓶を置き、栓を指でたたいた。その動作が妙にぎこちない。
「……もう大丈夫」
断言する口調に、有無を言わせない力がある。けれど清音の瞳の奥に、一瞬だけ何かが揺らいだように見えた。梓はうなずいた。大丈夫、たぶん。
瓶を見て、胸の奥がきゅっとした。見覚えがある。引っ越しの段ボールにしまい込んだ、母の遺品の中――古い手鏡や写真の包みの下に、確か――。
◆
清音が帰ったあと、押し入れの段ボールを開けた。
新聞紙をめくるたび、インクの匂いが立つ。指が茶色い瓶の肩に触れた。ラベルは剥げ、かすれた手書きの字がわずかに残っている。赤黒い液が底に少し。栓を開ける勇気は出なかった。閉じたまま、鼻先へ運ぶ。
同じ匂い――濃厚で重い、どこか金属に触れたような芳香。母はこれを飲んでいたのだろうか。いつ、何のために。
◆
夜、目が覚めると、水の音がしていた。
台所だ。蛇口が閉まっているのを確かめたのに、金属の口からぽと、ぽと、と水が落ちるような音が途切れず続く。
耳を澄ますと、それは水音だけではなかった。どこか遠く、川の底で鳴っているような低い響きが重なっていた。
窓の外は真っ暗で、風がない。部屋に置いた瓶の中で、液がゆっくり揺れているように見えた。
梓は立ち上がるのをやめて、布団に沈んだ。
ノートを手に取り、震える指で書きつけた。
「背中の目――私にしか見えないのか」
「赤黒い薬――母も飲んでいた」
「掟を守らない者は――」
そこで筆が止まった。
胸の中で、濃厚な芳香と水の音が重なり、眠りと覚めの境い目を行ったり来たりした。清音の指の震えと、背中に並んだ小さな目の輝きが、交互に浮かんでは消えた。
◆◆◆
あとがき。
三章も終了でございます。
そろそろちょっとだけホラーっぽくなってきました。
まだまだこれからなので、よろしくお付き合いくださいね。
次のから始まる一連のエピソードはお気に入りです。
どうかお楽しみに。