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にくゑ-本編-  作者: 匿名希望
第三章 村の日々
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しゃがんでいる子供

 下校の列から少し遅れて歩いていた。初等部の子どもたちが背丈に合わないランドセルを揺らしながら、畦道をにぎやかに行く。声が重なり合い、笑い声が波のように広がっては、遠くの山に吸い込まれていった。

 自分もその輪の中に混じっているはずなのに、どこか別の世界に立っているような心細さがあった。


 畑の脇に、ぽつりと影があった。


 ――また……だ。


 目に入った瞬間、それがただの影ではないと分かった。小さな子どもが、コンクリートの縁にしゃがみこんでいる。

 紺色のシャツに白いランドセル。膝を抱えて、まるで置き物のように動かない。


 晴れた午後なのに、全身が濡れていた。

 袖口から、裾から、水がしとしとと落ちている。落ちるたびに黒い染みが広がり、乾いた道に円を描いてはまた新しい滴に覆われていく。

 息をしていない。胸のあたりが上下する気配がない。


 梓の足が止まった。背中に氷を押しつけられたような感覚。

 顔を上げてはいけない――理屈ではなく、直感がそう告げた。


 慌てて視線を逸らし、早足で通り過ぎる。心臓が喉まで競り上がる。

 角を曲がってから振り返ると、もうそこには誰もいなかった。ただ濡れた跡だけが道に残っていた。



 翌日も、またその次の日も、同じ場所にその子はいた。

 同じ姿勢で、同じように濡れたまま。

 不思議なのは、ほかの子どもたちも大人たちも、誰ひとりとして気に留めないことだった。列は乱れもせず、誰も視線を向けない。まるで見えていないか、見ないふりをしているかのようだった。


 五日目、梓はとうとう足を止めてしまった。

 昨日までと同じ姿でしゃがみ込む小さな背中に、引き寄せられるように近づいてしまったのだ。


 一歩。二歩。

 靴の先とコンクリートの縁が一メートルほどの距離になったとき、シャツの背から何かが覗いた。


 ――目だ。


 小さな目が、いくつも、布地を押し上げるように並んでいた。黒目がちのそれが、一斉にこちらを見た。


「……っ」


 梓の息が詰まる。喉の奥が凍りつく。

 助けを求めるように清音を探した。だが彼女は一歩先を歩き、振り向きもしない。風に揺れる髪の横顔だけがある。


 胸が締めつけられる。すがりたいのに、すがれない。

 その背中が遠く、冷たく思えた。



 目が合った――そう思った瞬間、世界が白く途切れた。

 背中に並んだ小さな目が、いっせいに瞬いたように見えた。喉の奥が凍りつき、足の裏から体温が抜けていく。耳の遠くで誰かが名前を呼ぶ。清音、清音――声にならないまま、地面がゆっくり傾いてきた。


 甘い匂いで目を覚ました。

 口元にガラスの縁が触れている。やさしく傾けられた瓶から、とろりとした液が舌の上に落ちた。濃厚な飴のような味わい。ほんの少し鉄の味が混じる。


「飲んで……薬よ」


 清音の声は静かで、指は驚くほど冷たかった。その指が一瞬、わずかに震えたような気がした。喉が勝手に動いて、二口、三口と飲み下す。胸の中の震えがゆっくりほどけて、指先に戻ってこなかった感覚が少しずつ戻る。

 視界の端で、茶色のガラス瓶が赤黒く光った。


 体を起こすと、畳の目が汗で頬に貼りついていた。自分の家だ。清音は座卓の端に瓶を置き、栓を指でたたいた。その動作が妙にぎこちない。


「……もう大丈夫」


 断言する口調に、有無を言わせない力がある。けれど清音の瞳の奥に、一瞬だけ何かが揺らいだように見えた。梓はうなずいた。大丈夫、たぶん。


 瓶を見て、胸の奥がきゅっとした。見覚えがある。引っ越しの段ボールにしまい込んだ、母の遺品の中――古い手鏡や写真の包みの下に、確か――。



 清音が帰ったあと、押し入れの段ボールを開けた。

 新聞紙をめくるたび、インクの匂いが立つ。指が茶色い瓶の肩に触れた。ラベルは剥げ、かすれた手書きの字がわずかに残っている。赤黒い液が底に少し。栓を開ける勇気は出なかった。閉じたまま、鼻先へ運ぶ。

 同じ匂い――濃厚で重い、どこか金属に触れたような芳香。母はこれを飲んでいたのだろうか。いつ、何のために。



 夜、目が覚めると、水の音がしていた。

 台所だ。蛇口が閉まっているのを確かめたのに、金属の口からぽと、ぽと、と水が落ちるような音が途切れず続く。

 耳を澄ますと、それは水音だけではなかった。どこか遠く、川の底で鳴っているような低い響きが重なっていた。

 窓の外は真っ暗で、風がない。部屋に置いた瓶の中で、液がゆっくり揺れているように見えた。

 梓は立ち上がるのをやめて、布団に沈んだ。


 ノートを手に取り、震える指で書きつけた。

「背中の目――私にしか見えないのか」

「赤黒い薬――母も飲んでいた」

「掟を守らない者は――」

 そこで筆が止まった。


 胸の中で、濃厚な芳香と水の音が重なり、眠りと覚めの境い目を行ったり来たりした。清音の指の震えと、背中に並んだ小さな目の輝きが、交互に浮かんでは消えた。


◆◆◆

あとがき。


三章も終了でございます。

そろそろちょっとだけホラーっぽくなってきました。

まだまだこれからなので、よろしくお付き合いくださいね。


次のから始まる一連のエピソードはお気に入りです。

どうかお楽しみに。

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